古代遊人の古代史ロマン  

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コラム

*「趣味の古代史・邪馬台国」を丸の内朝飯会で講話    2018/5.17

 栃木朝飯会のルーツともなっている東京の丸の内朝飯会に講師と呼ばれて講話をさせて頂きました。テーマは「趣味の古代史・邪馬台国」ということで、1時間超お話をさせて頂き、その後質疑応答等で30分ほどなかなか盛り上がりました。主な内容は、邪馬台国の存在地とその後の状況、および畿内の状況などで、私の四つの王権の継承の話のうち、出雲や吉備勢力によるによる初期三輪王権と、その後の邪馬台国勢力の畿内進出による初期イリ王権の話が中心となりました。何とかうまく説明できたかと思います。しかし、その後の王権の継承、すなわち九州タラシ系王権、大和王権への継承の話は時間の関係で出来ませんでした。もう1回やって欲しいとの要望もありましたので、検討したいと思います。それにしても邪馬台国に関する近年のマスコミ等のニュースは、何かあるとすぐに邪馬台国畿内説に結びつけた報道が多く、そうしたことのついて偽善性についても説明させていただきました。「古代遊人の古代史ロマン」の第1章のコピーを皆さんに差し上げましたので、読んで頂ければ幸いです。

   


*「古代遊人の古代史ロマン」大幅改定   2017/11/24

 長らく大きな変更項目が無く来ましたが、この度かなりの部分の大幅に改定しました。色々な事柄を再検討した結果の改定です。最近のマスコミのニュース等で、大和地域に何らかの祭祀遺跡や集落の遺跡、大型古墳の築造時期の見直し等があるたびに、この地に邪馬台国があったとする説が強調されるような形で報道されています。詳しくは、本文で述べていますが、こうした説には全く賛同できず、その根拠には大いに疑問を感じています。そこで畿内に入った勢力の見直しをして、結果的に四つの王権の畿内参入と作られた継承の話をわかりやすくまとめてみました。これにより、なぜ3世紀の半ば頃から大型古墳が誕生したのか、神武東征の話はなぜ日向からになったのか、神の名がつく天皇がなぜ3人もいるのか、高天原神話からの継承された大和朝廷の謎などに、わかりやすい説明と疑問の解消が出来たものと思っています。むろん推理の範囲を越せたわけではありませんが、『記紀』にある数々の謎には答えられたのではないかと思っております。ぜひご一読いただければ幸いです。

*「日本建国の真相」 講話 2015/2/11

 私が所属している月一回の朝の勉強会「栃木朝飯会」の第228回例会で、「日本建国の真相」と題した講話をさせてもらいました。久しぶりの講話でしたが、たまたま今日が建国記念日でしたので、ちょうど話題が一致して、お蔭で好評をいただきました。内容は、安本美典氏の説を中心に、古代遊人説を加えながら、邪馬台国の九州説と、高天原のモデルとなったのが邪馬台国と卑弥呼の話であることを、たくさんの資料を配布して説明をしました。皆さんの感想はコメントをもらいましたが、おおむねこの説に賛同の意見が多かったです。 話をするためには改めて勉強の機会と資料作りが必要であり、私自身のためにも大いに役立ちました。この会は、これからも長く続けていく予定です。

*歌麿の大作「深川の雪」発見される  2014/03/06       

 3月5日のNHKTVの歴史番組「歴史秘話・ヒストリア」で、喜多川歌麿の終生の大作といわれる肉筆画三点「雪・月・花」のうち、いまだにその存在が行方不明であった「深川の雪」が2年前に発見され、修復されて4月から箱根の岡田美術館で展示されるとの報道があり、その浮世絵について詳細な説明と紹介があった。また、歌麿の浮世絵研究の専門家による説明ではまさしく本物であるとの説明があった。番組の中でこの三点は、江戸を離れて歌麿が下野国栃木(現栃木市)を訪れて、長い時間をかけて書き上げたものであることが紹介された。いずれも2〜3メートル超の横幅を持つ大きな肉筆画であり、その詳細な絵柄から相当な日時をかけて描き上げたものであること、何度も栃木を訪れたこと、栃木の狂歌の仲間の要望に応じて描いたものとの解説があった。現在栃木市で発見さている数点の肉筆画は、そうした大作を書き上げている合間に描いた小作品であろうとの見方も示された。

 いずれにしてもこれで歌麿の終生の大作「雪・月・花」の所在が分かり、素晴らしい三部作が今日まで現存していることが証明されたわけでその意義は大きい。米国にある二点については栃木市では精巧な複製画を作成済みで市内に展示している。栃木市民の私としては、この「深川の雪」が栃木市において展示ること、またその複製画を作成し、三点が一緒に展示されることなどを期待しています。このことは歌麿が栃木に抱いた思いを再現することにつながるとともに、歌麿と栃木との関係も解明されることになります。

 歌麿についてはその出生は謎とされ、その検証も進められている。栃木市には喜多川家もあり、多くの文献・資料により、歌麿が長い間滞在したこともわかっています。狂歌のつながりだけではなく、その出生に関する何らかのつながりがあったのではないかとする説もあります。今回の発見により、かつて歌麿が栃木の人々に要望された描いた「雪・月・花」三部作が、栃木を離れた後、世界中を流転しながらも素晴らしい形で保存され、歌麿が改めて見直されることについて大きな喜びを感じるとともに、その出生についても解明が進むことを期待します。

   
 深川の雪(昔の写真の複製画です)
今回発見されたものは素晴らしい色彩がよみがえっています。
 吉原の花(複製画・栃木市)
現在米国のワズワース・アセーニアムの美術館に所蔵され、門外不出となっています。
 品川の月(複製画・栃木市)

現在、アメリカのフリーア美術館に所蔵され門外不出となっています。このたび栃木市では、美術館の許可を得て精密な複製画を作成し、展示されています。

邪馬台国の位置が確定か 2013/11/01

 
近年のマスコミは、これまで大和地方、とりわけ纏向遺跡周辺で何か発見があると「邪馬台国があったとされる地」、また箸墓古墳については「卑弥呼の墓と言われている古墳」という冠をつけて報道する事が多い。私はこうした報道姿勢に少なからず疑問を持って接してきた。本稿の「古代史ニュース」のページでも、2012.2.17付け、2009.5.31付け、2009.3.21付け、2008.8.31付けの記事の批評として、纏向遺跡や箸墓古墳古墳のニュースに対して批判的なことを書いてきた。

 こうした風潮の中にあって、このたび平成25年11月号の「文芸春秋」の企画「歴史の常識を疑え」のトップ記事に、安本美典氏の「邪馬台国を統計学で突き止めた」が掲載された。この中で安本氏は、2009年5月31日に行われた日本考古学会の研究発表会で国立歴史民族博物館(歴博)の研究グループが、箸墓古墳の築造年代を発掘した土器に付着していた放射性炭素14の測定結果として、これまでの定説より100年以上早い「240〜260年」と早まって発表した事がその後の誤った定説化を招いたと指摘した。実際、その後の考古学会でも批判が相次ぎ、2010年の日本情報考古学会でも、「炭素14年代測定法と箸墓古墳の諸問題」が取り上げられ、歴博研究グループの発表を全面的に否定することとなった事を記し、さらに纏向遺跡はおろか、奈良県内の遺跡からは、弥生時代の年代を明確に示す遺物は何一つ発見されていないと記している。

 安本氏は数理歴史学者として、『魏志倭人伝』に基づいた歴史的遺物を確認する事が邪馬台国の所在地を知る上で重要な決め手になるとして、そこに記されているものでビックデータ統計学的に確認できるものとして「鏡」「鉄の鏃」「勾玉」「絹」の四つを挙げ、ベイズ統計学に基づいた検証を行った結果、そのいずれも福岡県からの出土が圧倒的で、畿内からは少なく、特に奈良県からの出土はほとんど無い事を実証した。この結果をベイズ統計学で更新(確立の掛け合わせ)を行った結果、邪馬台国の所在地の確立は、福岡県が99.9%、佐賀県が0.1%、奈良県が0.0%となったと記している。さらに地域を広げて九州と近畿に分けて更新しても、九州が99.7%、近畿が0.3%という結果になったと記している。この結果について一緒に研究された統計学の権威である松原望・聖学院大学教授は「もう邪馬台国についての結論は出ています」と述べ、ホケノ山古墳を検討しても結果はほぼ変わらないと指摘している。 安本氏も、そもそも暦博の研究グループが行った炭素14の測定法では、土器付着物については土器が作られた時期よりも古い時期の炭素成分を吸着しがちで、年代測定の幅は1〜4世紀までのどこにでも当てはまるという事も指摘している。さらに箸墓古墳の場合、やはり出土している単年度産で年代測定がより正確な「桃核」の年代測定を行うべきであり、実際他で行った結果では、土器付着炭化物より平均で74年新しいという結果が出ている事を指摘し、これを箸墓古墳にあてるならば、間違いなく4世紀の築造という事になるはずと記している。


 詳しい事は「文芸春秋」を読んでいただくとして、久々に痛快な思いでこの論文を読ませていただいた。考古学会の検証の危うさとそれを盲信するマスコミの記事掲載について、極めて有効な指摘であると強く感じた次第です。


*栃木朝飯会第200回記念大会 2012/11/1011

 私が所属している栃木朝飯会(ちょうはんかい)の例会が、ちょうど200回を迎えたため、それを記念して第200回記念大会が栃木市で開催された。栃木朝飯会というのは、毎月第2水曜日の午前7時から、朝食をすませて約1時間30分の朝の勉強会(外部講師・内部会員講師の話・質疑応答など)である。毎回色々な講師の専門的な話や楽しい話などを聞いて、他分野の学習機会となっている有意義な会合で、現在25名ほどの会員が学んでいる。
 栃木朝飯会のスタートは平成8年の1月からで、当時栃木市の國學院短大の教授であった小倉光雄先生の呼びかけでスタートしたものである。小倉先生はその前任地の石川県七尾市でも朝飯会を設立させるなど各地にネットワークを築いてくれた恩人でもある。今回は200回の記念と共に、第7回全国朝飯会サミットの併催となり、大阪梅田朝飯会、石川県七尾朝飯会、新潟県長岡朝飯会、東京丸の内朝飯会から計25名のゲスト参加を得て、ちょうど栃木市の秋まつりに合わせて開催されたものである。前夜の記念パーティ、夜の山車見物、2次会、大会当日の記念講演「栃木の歌麿と舟運」(講師・佐山正樹氏)・その後の蔵の街見学と秋まつり見物など盛りだくさんの行事で参加者には楽しんでいただいた。私は栃木朝飯会の事務局をしているので、その準備に苦労したが、おかげさまで盛大に、また楽しく開催でき、多くの感謝の礼状を頂いた。そして何よりも、遠来の初対面の人でも朝飯会仲間というだけですぐに親しくなり大いに交流が進んだことが一番の成果であった。
 
講師には毎回色々な方に出ていただいているが、改めて歴史をたどってみると、私も何回か講師役を勤めていた。第2回目には「大変な時代の商店経営」という演題でしたが、その後は「邪馬台国入門」「卑弥呼の実像」「古代の乱」「ヤマトタケルは二人いた?」など古代史のテーマで4回ほど話をしました。

 毎回色々なテーマでお話がありますが、他の講師が話したことで歴史関係だけあげてみると、「江戸への舟運」「「太平山神社の歴史とその所見」「下野の偉人蒲生君平について」「古墳の話」「「江戸しぐさ」「栃木と歌麿」「江戸時代における国家の体系」「満州国入門」「謎の渤海国」「江戸庶民の教育・しぐさ・寺子屋」「川の歴史」「古代の舞」など多数あった。どれも興味深い話であった。
 朝の時間の有効活用でさまざま
な分野の知識を得られ、また各地の人との交流とネットワーク形成になる朝飯会の存在は、自分にとって大きな勉強の場であり、いまでは欠かせない存在になっている。 お近くに朝飯会がある方は是非リサーチしてみて下さい。
  栃木朝飯会ホームページ  http://tochiasa.web.fc2.com/

*藤森栄一生誕100年 2011/08/17

 月23日付の読売新聞の歴史特集に、「人間史観の考古学 心に灯・藤森栄一生誕100年」と題した考古学者の戸沢充則氏(明治大学名誉教授)の寄稿文があり読ませていただいた。
 藤森栄一先生は、戦前の苦難の生活を経て東京考古学会の森本六爾氏に師事し、杉原荘介氏らと考古学に打ち込む研究を続けた。戸沢充則氏はその弟子にあたる考古学者でもある。
 藤森先生は、戦後はふるさと信州の井戸尻遺跡の発掘調査から「縄文農耕説」を提唱し、銅鐸の研究などでも大きな功績を築いた考古学の大家であるが、私にとっても「古代史の夢」の中でも書いたように身近に交流のあった先生でもあった。戸沢氏の文によれば、戦前の皇国史観による硬直した学問に縛られていた時代、人間史観を中心に置く藤森栄一氏は苦難の道を歩むことになったとある。さらに「人間の歴史の真実に迫ろうとする探究心と、地域に根ざした研究、そして健全な批判精神から発せられて叫びは、1945年の敗戦で平和と自由を知った日本国民の心に、多彩な藤森の著述を通して広く深く感銘を与えた」と評価している。確かに藤森先生の書かれた本の多くは、考古学の研究成果と並んで、そこに浮かんで人間の生き様、さらには研究者自身のあり様など、まさに人間史観と呼ぶにふさわしい著述が多いといえる。「旧石器の狩人」「かもしかみち」「銅鐸」「古道」など愛読した著書が浮かんでくる。 先生のお宅に滞在させていただいた時、邸内にあった諏訪考古学研究所で銅鐸をじっと見つめる先生の姿を何度か見た覚えがある。その目の先には、きっとこの銅鐸を囲んで何らかの祭祀をささげている古代の人々の姿がいきいきと
見えていたのであろうと思う。

 以前に、ある民俗学の先生と話をした時、考古学の研究は人間の歴史の研究とは言えないと言われたことがる。民俗学の研究こそ人間の歴史研究であり、土器の発掘や採寸、形式の中心の考古学は、まるで唯物史観の研究のようだ・・・と。 確かにそういった一面があることは否定できないが、考古学こそまさに人間の生き様の研究ですよと反論したことを覚えている。その時、頭の中には藤森先生の生き様が浮かんでいたのだと今にして思う今日である。

*伊都国の和平の壷   2010/08/15

 月11日付の読売新聞の文化欄に、福岡県糸島市の三雲遺跡から出土した線刻土器(3世紀前半から中期)に彫られていた文字解読に、新たな解釈が示されたと特集記事があった。

 その壷は、伊都国の中心地とされる三雲遺跡から出土したもので、口縁部付近に横4cm、縦2cmほどの文字が彫られていて、従来は鏡を意味する「竟」(キョウ)と解釈されてきたが、このたび大阪芸術大学の久米雅雄客員教授が、従来の解釈の弱点をあげ、2つの文字からなる言葉としての新解釈を発表した。
 
 詳しいことは記事を参照していただくとして、結論的には「和」と「口」、すなわち和口と読み、その意味は、「口」は器のことで神への誓約を入れる器、「和」はその器を使い神の前で和平を結ぶ意味があったと解釈した。久米教授は、諸国を検察する一大卒が置かれ、卑弥呼のもとで権力を振るった伊都国が、他国の使節に服属の儀式をさせるときに使う特別な器であったのでは・・・と推測している。私も、新聞にある写真を見る限り、「竟」より「和口」と読むほうがより合理的のように思えた。

 ここで、あらためて伊都国について考えてみよう。私は、伊都国は『魏志倭人伝』に「世有王皆統属女王国」と書かれていて、2世紀から3世紀にかけて、特に3世紀前半の卑弥呼の時代、北部九州を中心とする邪馬台国連合の政治経済の中心地で、一大卒という軍事組織の中枢を握っていた強国であったと思っている。その意味では、この壷の刻印文字の解釈は、伊都国の実態と合うものと思われるのである。
 
 三雲遺跡は伊都国の中心地帯にあり、平原遺跡、井原鑓溝遺跡と並んで多くの鏡を出土した王墓の一つと見られている遺跡である。倭国を訪れた魏使たちが伊都国に留まったのも、伊都国こそが連合の中心地であり、連合国の実権を持つ伊都国王の存在があったからと見るべきである。そこに、和平の壷であり、他国の使節に服属の儀式をさせる時に使う特別な器であったとする久米教授の解釈が成り立つ余地があるわけである。

 話は飛躍するが、近年、大和地域の古墳や遺跡の発掘調査により、大和地域の先進性が見直され、邪馬台国の所在地も纒向周辺・畿内説で決まったような報道や論点が多く見られる。放射線炭素年代法による土器などの調査で古墳の年代の見直しが進んでいることが大きな根拠となっているようである。

 しかし私は、その測定方法についての疑問もさることながら、邪馬台国の所在論争は、そうした年代測定法で確定できるものではないと考えている。邪馬台国はあくまでも『魏志倭人伝』に描かれた女王国連合の話である。もし畿内にあったとすれば、前記した伊都国が2世紀から3世紀にかけて畿内邪馬台国の配下にあり、一大卒などの実力を持って近隣の諸国を従属させていたという立証がなされなければならない。すなわち2世紀末ごろには、既に近畿から西日本一帯が邪馬台国統一勢力の下にあったこと、及びその主要な出先機関が九州伊都国にあったことの立証である。他にも狗奴国の比定地や、『魏志倭人伝』の記述との整合性など畿内説には大きな壁があるわけであるが、とりわけ伊都国の実態解明が大前提となるものである。そうした解明を抜きに単に大和地方で出土した土器や古墳の年代による邪馬台国の可能性を論じてもあまり意味がないと言える。その意味で、今回の伊都国・三雲遺跡出土の壷の文字解読は、伊都国の実態と邪馬台国との関係を知る上で大きな発見であるとともに、邪馬台国畿内説にとっては新たな壁出現と考えるのである。

*円仁(慈覚大師)の出生地   2010/7/10

 
中国河南省登封市の法王寺で、「円仁」の名前が刻まれた石板が発見された。円仁(794〜864年)とは、遣唐使として派遣された日本の高僧で、慈覚大師という名でも知られている。発見者でもある国学院大学栃木短大(栃木市)の酒寄雅志教授によれば、当時の中国には円仁という名の僧が見当たらず、当時中国でも高僧として知られていた慈覚大師・円仁であることにほぼ間違いないとのことである。また、登封市は、帰国に際しての行程上にあり、円仁の軌跡の一つが実証されたことになると報じられた。

 円仁(慈覚大師)は、「入唐求法巡礼行記」という当時の世界では貴重な旅行記を記したことで知られている。古代の旅行記では、13世紀のマルコ・ポーロの「東方見聞録」が有名だが、それに先立つ本格的な旅行記である。円仁は、困難を極めた渡航の後、9年6ヶ月にわたる滞在中、五台山までの1270キロを徒歩するなど大変な苦労を伴う中国での修行の後、またしても困難な帰国を成し遂げ比叡山に戻った。その後、国内で目黒不動、山形の立石寺、松島の瑞厳寺を始め、中尊寺や毛越寺など東北・関東一円に数百の寺を開山したり再興し、61歳の時に天台座主になった。

 円仁の業績については多々あるが、実はこの人物の出生地ならびに若き頃の修行地が、わが栃木市の近郊にあり、史跡としても保存されている。一般には出生地は栃木県下都賀郡壬生町の壬生寺とされている。9歳の時に同じく下都賀郡岩舟町の大慈寺で修行、15歳の時に比叡山に入り、最澄に師事しその才覚を認められた。壬生寺も大慈寺も私の所からすぐであり何回か訪れたこともある。ところが岩舟町の下津原というところに、慈覚大師生誕の地があり、産湯の井や社などが祀られ、いわば生誕の地を争う形になっている。

 岩舟説によれば、円仁誕生にまつわる最古の書物と言われる順徳天皇撰「八雲御抄」に、慈覚大師の誕生するところなりとして「みかほの関」と記されているとある。みかほの関とは三鴨の関であり、三鴨の地名は現存する。下津原はみかも山の山麓でもある。一方の壬生寺には、天台の寺であるとともに大師堂の存在があげられているが、これは後世(1686年)の建立であるという。9歳から同じ岩舟町内の大慈寺での修行に入ったことを考えると、岩舟説に根拠があるように思える。現在両町では、それぞれ大師生誕の地を称える行事やイベントなども行われているが決して対立している状況ではない。偉大な人物にかかわる地として共存関係にあるようにも見える。

 私としては、生誕の地がどちらであっても、円仁・慈覚大師の誕生と幼少時の修行の地が隣町にあるあったことは大きな誇りの一つでもある。最近、大慈寺のご住職とある会で知り合いになった。ご住職は117代目林慶仁さんで、円仁の研究は勿論、歴史 時代小説「如来の使として 広智を彩る華々」(下野新聞社刊)を出版、各地での講演などで広く啓蒙活動をされている立派なお坊さんである。現在は、160年以上も消失したままの本堂再建に向けて活動中。(大慈寺のH.Pへ)
(写真は大慈寺境内の自覚大師像)
私もいつか慈覚大師のことを詳しくお聞きしてみたいと思っている。

(追記1・その後、この新発見の石板の写真が、以前に寺が出版していた石板拓本の写真と違うということが指摘された。文字や書体は同じだが、周りの外枠と文字の間隔が違うとのことである。その結果、どちらかがレプリカの可能性や両方とも模造品かと言う見解などが出されている。しかし今回発見の石板は寺の壁に組み込まれているもので、新発見というからには、寺も出版時にはその存在に気づいていなかったということになる。真偽については、以前の出版物にある石板拓本が、どういう経過でその本に掲載されたかを調べる必要がある。ちなみにある識者に聞いたところ、中国では拓本の偽造はよくあることだそうである。色々な経緯がありそうだが、石板に書かれた仏教弾圧から仏舎利を守るために地下に埋めたとする円仁の事跡に変わりはないものと思っている。)
(追記2・新たに出版物に掲載されていた石板の現物が寺のゴミの中から発見されたという報道があった。再訪した酒寄教授が発見したという。考えられるのは、寺の壁の中から今回発見された石板をモデルにした偽造石板が作成され、何らかの理由でその拓本が寺から出版された。さらにその石板がゴミとして捨てられていたということになるのだろうか。よくわからない話に進展しつつあるが、寺(法王寺)の管理体制にかなり問題がありそうだということは想定される。石板の真偽については酒寄教授の結論を待ちたいと思う。)


*下野国庁跡  2010/01/25

 
今回は、栃木市にある下野国庁周辺のPRです。私の住む栃木市には、下野国庁があった。栃木県は古くは下野国(しもつけのくに)と呼ばれ、律令体制の下、全国に置いた国庁の一つがこの栃木市にあったのである。国庁所在地は完全に分かっているところは少なく、国府や惣社などの地名などから想定されているところが多い。下野国庁は昭和54年からの発掘で調査でその所在地が発見され、一部建物が復元されていて全国でも貴重な国府跡となっている。敷地一帯は公園化され、発掘された木簡や瓦などを展示した資料館も併設されている。また正殿跡地には宮野辺神社が建てられていて、古式豊かな祭祀行事が今でも受け継がれている。国庁の概要については、下記に栃木市教育委員会の関連ページを記してあるのでぜひご覧ください。

 下野国庁跡周辺には、古い歴史を物語る地名が多く残されている。そのいくつかを紹介してみよう。先ず、下野国庁跡のある地区名が「国府」である。その北方には「惣社町」があり、その中心地には大神(おおみわ)神社が鎮座している。これは崇神天皇の皇子である豊城入彦命が東国平定を祈念して創建したとする説や、下野国庁に来た国司が奈良の大三輪神を祀ったものを合祀したとする説などがある。いずれにしても下野国最古の神社とされ、境内にある「室の八嶋」も木花咲耶姫伝説を持つ景勝の地として知られている。付近には煙や水蒸気が立ち込めたとする室の八嶋伝説にちなんだ地名として、癸生(けぶ)という名前が残されている。この地を訪れた松尾芭蕉は、
次の句を詠んでいる。 
      「糸遊に結びつきたる煙哉」 松尾芭蕉

 また他にも、国府やその関連を思わせる古地名や名字が多く残されている。「臺」「鋳物師内」「金井」「内匠屋」「馬場」「大塚」(大塚古墳)など、また名字では「国保」「大山」などである。「臺」は邪馬台国の台の古字体で范嘩『後漢書東夷伝』では邪馬臺国と記され、『魏志倭人伝』紹煕刊本にある邪馬壹国の壹(いち)との間で、論争となっている字である。
古代史ロマンで畿内や九州ばかりに眼を向けているが、まさに自分の地元にも古代のロマンが横たわっていることに改めて気付いた次第です。


正殿跡地に建つ宮野辺神社・再現された前殿・下野国庁復元図

下野国庁地図

*石室内に落書き
 
2009/10/29

 
奈良県桜井市の
茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め)の石室内天井から落書きの後が見つかった。茶臼山古墳は橿原考古学研究所が60年ぶりに発掘調査中で、木棺を取り出すとともに鮮やかな水銀朱で彩られた天井が確認された。その豪華さや規模(全長200m)から大王クラスの墓と見られる国史跡古墳である。落書きは前回の調査時(1949年と1950年)に何者かが侵入し書いたものと思われる。Sという文字と「福田」と読める漢字があったということで新聞の写真でもはっきりとその文字が確認できる。同姓の方にはいい迷惑な話である。残念なことに、文字を消すと水銀朱も一緒に落ちてしまう恐れがあるため、調査終了後このままの状態で埋め戻すということになりそうである。
 
 寺社の本堂や門壁、橋などに落書きをする人がいる。自分の名前であったり、中には芸術きどりのものまである。落書きの心理は、自分の存在証明とか来訪証明など自己満足的な動機なのだろうが、そこには文化財であるとか他人の所有物であるという意識や、消すための労苦への思いに至らない未熟さがつきまとう。今回の落書き発見は、その後石室が閉められたため、60年後に発覚したものである。もし実行者が存命ならどんな思いでこのニュースを聞いたことであろうか。

 話は飛ぶが、こっそりと古墳の石室内に入るということは、いたづらが目的でなくともかなりの度胸が要るものである。私も子供の頃や大人になってからも、いくつかの古墳石室内に入ったことがある。観光的な石舞台古墳などと違い、ひっそりとした古墳を一人で訪れ、開いている石室入口を見つけて入ったことが何回かある。勿論調査済みで中には何もない。室内は多くは低く、背をかがめて入る。外から入る明かりで室内の石積みは見渡せるが、なんとなく薄暗く、ひんやりとした空気が漂い気持ちのいいものではない。そんな時、組まれた石積みの間に蛇の抜け殻を発見することがある。そのときは一目散に逃げ出すほかない。密室のあの澱んだ空気感を思い出すと、留まって落書きをすることなど私には論外と思えるのだが・・・。
 

吉永小百合さんが卑弥呼に
 2008/09/06

 古代史ファンには、今やバイブル本のような存在である宮崎康平著『まぼろしの邪馬台国』の映画化が実現、11月1日から全国公開の運びとなった。しかもその中で、盲目の宮崎康平氏の手となり足となり、さらには多くの文献を読んで聞かせ、執筆もするという献身的な努力をされた和子夫人の役を、吉永小百合さんが演じることになった。さらに劇中で再現される邪馬台国の原風景の中で、卑弥呼の役も演じるという。(宮崎康平役は竹中直人さん)

 宮崎康平氏と吉永小百合さんの組み合わせを聞いた時、私にはなんとも感慨深いものがよみがえった。私はこのお二人と会っている。「古代史への夢」の中に書いたことであるが、『まぼろしの邪馬台国』が大きな話題になっていたとき、私は宮崎康平氏の講演を聴いた。勿論その脇には和子夫人も一緒であった。私は彼と奥様が、大変なハンデキャップを追いながらも、執念とも思える気構えで邪馬台国や古代史の謎に立ち向かったことを本の中で知っていたので、実際に書かれたご本人の声を聞き、目頭が熱くなったのを覚えている。

 彼の説である高塚古墳の畿内発生説への疑問、『記紀』の意図的な編纂、九州勢力による大和朝廷成立など多くのことが今の私の考え方に重なっている部分がある。宮崎氏は、『魏志倭人伝』にある三十カ国を、地名や文献、伝承、考古学的証拠、自然的な条件などから次々と比定し、最後に邪馬台国の所在地を自分のふるさとである島原半島を含む一帯に比定した。彼の説には色々と批判もあろうが、なんと言っても邪馬台国を求め続ける彼とその夫人の生き様に多くの人々が感動したのである。

 『まぼろしの邪馬台国』の中の一節を記してみよう。
 彼が投馬国に比定した天草の浜辺近くにある鯨道という見張り所跡に奥様とたたずみ、落ちる夕日を見つめていたときの記述である。
・・・ああ、あの太陽は、私がいま立っているこの岸辺から洛陽への道を照らしているのだ。魏の明帝に率善中郎将に叙せられた難升米。汝が持ち帰った親魏倭王の金印は、いまどこに眠っているのだ。私は落ちていく太陽の方向に、白い杖をさし向けるように妻に命じた。杖は黄金に輝いていたであろう。こんなとき、妻は私の杖に瞼をしばたくのだそうである。杖をさし向けたまま、私はしばらくの間立ちつくした。夕日がほのかな暖かみを私の瞼にも伝えてくれた。・・・

 
吉永小百合。言うまでもない日本の大女優である。現在の60〜70代の男性で、当時サユリスト以外の人を見つけるほうが困難といっても過言でないほどのアイドルであった。今でも変わらずにイメージと人気を保っている。

 実は私は大学の同窓生で、卒業も一緒である。ただし学部も違い在学中は面識はなかった。しかし卒業式の日、式が終わって大学近くのレストランの二階で、所属していた「山歩会」というクラブのいわゆる卒業コンパを後輩たちと一緒に開いていた時、アコーデオンカーテンの隣でなにやら女性の多い集団でやはり卒業コンパをやっていた。私たちは山のクラブで男所帯。仲間の一人が思い切って隣に掛け合い、一緒にコンパを盛り上げることにしたのだ。交渉成立、カーテンが開き会場が一気に華やいだと思ったとき、なんとそちらのグループに吉永小百合さんがいたのだ・・・・・。
 
 当時、橋幸夫と「いつでも夢を」のディエットや「寒い朝」が大ヒットしていて、私たちは一緒に合唱したり、リズムのいい曲でダンスをしたりと、最高に楽しい卒業コンパを味わった。勿論彼女と踊った記憶もある。大変な美人であったが「小柄な人」という印象で、誰とも明るく応対し、謙虚な印象の女性であった。彼女も山が好きで、八ヶ岳などに登ったということで、「こんな楽しい方たちが一緒なら、このクラブに入りたかった」と言ってくれたことを覚えている。私の卒業アルバムの表紙裏には小百合さんのサインがあり、大事な宝物になっている。

 映画「まぼろしの邪馬台国」が楽しみである。

<追記>1。映画・「まぼろしの邪馬台国」を観てきた。内容をあまり言うとこれから見る人の楽しみを奪うことにもなりかねないので省くが、とにかく綺麗という言葉が映画の印象。吉永小百合さんはもちろん、島原の風景、有明海の干潟風景などに心奪われた。皆さんもぜひご鑑賞ください。

<追記>2。大学の「山歩会」創立40周年パーティーでのこと。創部メンバーである私は壇上で後輩や現役メンバーから質問を受けた。「吉永小百合さんが我がクラブのメンバーだったといううわさがあるが本当か?」・・・・と。私は卒業コンパでのいきさつを披露し、確かに彼女からこのクラブに入りたかったという言葉があり、即座に入会を勝手に認めたのでメンバーと言えないことも無い」と答えたら、満場笑いと拍手の渦。司会者も「次の50周年にはぜひ呼びたい」などと言い出す始末。勿論即座に入会を認めたと言ったのはジョークであったが、我がクラブと吉永小百合さんに縁があったことは確かであり、もしかして実現しないかなと淡い期待もある。

門脇禎二氏の遺稿  2008/07/18

 今朝の読売新聞に興味引かれる記事があった。それは、歴史学者である門脇禎二氏に遺稿があり、それが先月『邪馬台国と地域王国』(吉川弘文館)という本になって出版された。その中で門脇氏は自説である畿内説を覆し、邪馬台国九州説に考えが辿り着いたことを明らかにしたという。そのきっかけは、古代の日本には大和王権のほかに、出雲や吉備にも先進的で有力な国の存在があったとする「地域王国」の研究にあり、畿内説の有力地である纒向遺跡などに全国を統属した痕跡はなく、『魏志倭人伝』の研究を進めると、邪馬台国は九州説に辿り着くというものである。こうした門脇氏の考え方の根底には、邪馬台国の研究が考古学中心に傾いている昨今の状況に警鐘を鳴らし、『魏志倭人伝』を中心に置くべきだと言うことがあると思われる。

 一般的に近年の邪馬台国の研究は畿内説が強まってきているが、それは近年の考古学の成果を邪馬台国に結びつけたものが多い。実際、古墳や遺跡の年代推定や調査があるたびに、大和の先進性を主張し、邪馬台国に結びつけた発言や報道がなされることが多い。そうした年代測定の正確性はともかく、当時の先進地こそ邪馬台国であるはずだとする思い込みがあるからである。

 邪馬台国については国内には記録はなく、主に『魏志倭人伝』など中国資料に記載されているだけである。邪馬台国の東にはまた倭種の国があるという記述もあるように、倭国全体を統属している首都だとは書いていない。むしろ南にある狗奴国と争っている地域国家として描かれている。魏と通交があり、魏使が来訪して記録を残したクニが邪馬台国(連合)であり、それ以上でも以下でもないのである。そうであるならば、2〜3世紀の国内の最先進地だから邪馬台国であるはずだという論理は成立しない。まして畿内にあるならば、九州までの全国を統属するほどの先進地でなければ、邪馬台国足り得ないのである。『魏志倭人伝』の研究を中心に置くと、邪馬台国は九州に辿り着くと主張を変えた門脇氏の遺稿は、考古学に偏重し、倭人伝そのものの研究を軽視する傾向にある最近の邪馬台国研究に苦言を投じる貴重な著作と言える。


古代の災害   
2008/6/15
 
 
6月14日に岩手県と宮城県境を震源地とする大きな地震が起きた。予測されていた宮城県沖地震と違い内陸部直下型で、マグニチュード7.2という大地震だ。山間部が震源地ということもあり、各地でがけ崩れ、土砂の崩壊などが多発し、生き埋めになられた方もおられるようだ。一刻も早い救出と復旧をお祈りいたします。

 
ところで最近、『世相の古代史』(長山泰孝著・河出書房新社)という本を読んだ。奈良時代から平安時代初期にかけて編纂された六国史(日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・文徳実録・三代実録)のなかの、世相的な記事を紹介する本である。著者は、日本書紀は神話や伝説が多く忠実な史実とはいい難いが、続日本紀以下の五国史は、政府に保管されていた文書や記録などを基本に編纂されているので、記事の信頼性は高く、現代の新聞のような面白さや人間の哀歓を感じさせる記事が多いと紹介している。

 いくつかのジャンルの中で、災害に関する記述の見出しのいくつかを紹介してみたい。
表記は現代語訳されている。
 *地震でせきとめられた水が決壊、民家170あまりが水没(続日本紀・715年)
   遠江国(浜松市・磐田市周辺)で起きた地震の様子を記している。
 *肥後国で地震で40余人が圧死、1500人余りが水にのまれる。(続日本紀・744年)
 *陸奥国に激震−津波とダブルパンチ(三代実録・869年)
   陸奥を大地震が襲い、多くの家屋が倒壊、津波も押し寄せ山に登れず溺死した
   人は1000人に及び、資産の稲の苗も失われたなどの記述。
 *伊勢・尾張・美濃の風水害。被害深刻(続日本紀・775年)
   異常な風雨で百姓300人あまり、馬牛千余頭がながされた。公私の建物被害に
   ついては見当もつかないと報告があり、政府はさっそく調査活動を始めたなどの
   記述。
 *富士山大噴火−湖に溶岩が流れこみ魚類全滅(三代実録・864年)
   甲斐国からの報告で、富士山が大噴火し、山や岡を焼き砕き、草木も全滅。
   百姓の家は水海と共に溶岩に埋まり、家はあっても人影は見えないなど生々しい
   記述。


 
古代においては、台風や大雨による川の氾濫に伴い、多くの百姓などが溺死、田畑が流されたり、地震や噴火などの被害も甚大であった様子が新聞記事のように記されていて、リアルな感じが迫ってくる。そのほかにも犯罪や美談、政争、騒乱、戦争、民生、異常現象など歴史の裏側に隠れがちな世相記事をたくさん収集して紹介している。犯罪や刑罰、民生に関する記事など律令国家としての体裁がそれなりに整えられていた実体もわかり、実に興味深い内容である。歴史好きな皆様におすすめしたい本です。

型の継承   2008/5/4

 
4月28日の読売新聞に興味ある記事があった。「日本の知力」シリーズで「型」体得 学習の原点という特集でした。一部を引用紹介すると、裏千家の千宗室家元は「客人に応じた所作が無意識にできるには、基礎修練ができてこそ。『守・破・離』を踏む必要がある」と述べている。また狂言師の野村萬斎さんは「基礎となる『型』は、知識ではなく体得するもの。型にはめるのは没個性のように考えがちだが、使いこなすうちに型は様々な個性や表現となっていく」と述べている。「詰め込みこそ真の教育だ」「型がなくてお前に何ができる」破天荒な教師の指導で知られる人気漫画「ドラゴン桜」の作者の三田紀房さんは、「若者は『個性的でなければ』と思いつめる。実際に必要なことはまず慣れること」と述べている。 また葛西康徳大妻女子大教授は「相撲なら四股を踏むように、勉強でも、まず足腰を鍛える過程が必要なのに、いきなり自由演技という例が増えている」と基礎軽視の風潮を懸念している。

 詳しい内容は直接ご覧いただくとして、総じて基礎基本となる「型」の習得の必要性を説いている。昨今の教育問題、学力とゆとりの問題、さらにはマナーや規範意識の欠如、家庭教育力のあり方などの課題に大いに参考になる記事と思い、ご紹介した次第です。

 ところで、この「型」の継承というのは、世界的にも普遍性がありそうだが、特に日本では大きな意味を持つように見える。歌舞伎・能や相撲、お茶や生け花など古典的な芸能や習い事などでは特に重要な意味を持つ。またTV番組などでも水戸黄門や忠臣蔵などストーリーがある意味で「型」になっている番組は高い人気を継承している。お笑い芸人でも継続できる「型」を持たずに一発芸で売る場合は継続が難しい。一方落語家などは、古典落語や襲名という「型」を持つ強みがある。こうした「型」の継承という文化は日本人に深く受け入れられていると言える。言葉を変えれば普遍的なものへの安心感である。横綱朝青龍への批判などは、こうした「型」の継承への不満とも言える。

 宗教も「型」を継承している存在と言える。その中で神道祭祀と結びついている我が国の最大の「型」の継承は天皇制と言えるかも知れない。世界でも最長の皇室が継続しているまさに特異な「型」の世界でもある。「型」を支持する国民性ともしっかりと結びついている。

 一方、最初に書いた『守・破・離』とは、伝統芸能の世界で師匠が基本形を教え込む(守)。弟子はやがて枠を飛び出し(破)、ついには自分なりの境地に至る(離)を意味する言葉だという。「型」の継承と相反するような印象があるが、これも大きな意味での「型」を継承しつつという前提があるようである。この「型」を忘れてしまうと大阪の老舗料亭のようなことが起きてしまう。

 教育の方法論としての「型」の継承、日本の文化における「型」の継承、しかしそこに存在する
『守・破・離』の考え方。色々と考えさせられる事柄である。

神功皇后稜への初立ち入り   2008/3/3

 2007年1月1日付けのコラムで、天皇陵などの陵墓への立ち入り調査を限定的に認めることになったと記したが、この趣旨に沿った初の調査が行われた。調査対象陵墓は、奈良市山稜町にある五社神(ござし)古墳で、宮内庁指定で神功皇后稜とされている古墳である。初の立ち入り調査対象陵墓が神功皇后稜というのも、極めて興味深いものがある。

 この調査に調査員として参加した奈良県樫原考古学研究所の研究員である今尾文昭氏がその概要を読売新聞に寄稿している。(2008年3月3日付) それによれば、こうした天皇陵などの陵墓への立ち入り制限措置が設けられたのは1880年前後のころで、それ以来130年間、公式に認められた立ち入り調査は無かったとのことである。今回は制限付き(範囲・人数・対象者)とはいえ、学術的動機に基づく立ち入り観察が初めて認められた意義は大きいと記している。しかし、ここで確認しておくが、調査といっても確認にとどまる立ち入りであったようである。今尾氏も記しているが、許可範囲である第一段の平坦面をただ歩くだけではたいした考古学的成果は期待できないものと、当初は思われていたが、それなりに実際立ち入ると、期待以上の成果があったようである。西側くびれ部分の「造り出し」部分では儀礼行為の存在を思わせる十分な広場を確認、また、前方部の東側では、現在の墳丘裾から少し外側に円筒埴輪列の確認が出来て、墳丘の規模の見直しにもつながる成果があったようである。今尾氏は、こうした成果等を考慮すると、この五社神古墳は、従来、古墳時代前期中葉の築造とされてきたが、4世紀末前後の前期末葉から中期初葉の古墳となる可能性が高まったと記している。

 わずかな部分への立ち入り観察のみの調査で、これだけの可能性が新たに分かったわけである。もとより神功皇后は、その存在自体や神話的な事跡記事に対して多くの疑問も出されている人物である。ただ実在と仮定すれば、4世紀末から5世紀にかけての築造となると、時期が重なる可能性も高くなる。まことに興味深い事柄である。

 現在宮内庁が管理している陵墓は参考地を含めて896もある。その中で古代古墳で陵墓に指定されているのは、天皇、皇后、皇太子の墓などを合わせて85基ある。無論、こうした陵墓は今まで立ち入り調査は禁止されてきた。しかし、古代古墳に関してはその指定の正確性には大きな疑問があり、根拠に乏しいのが現実である。真の陵墓以外の墳墓を祀っている可能性は高いといえる。(2003年9月26日付コラム「天皇陵の調査について」参照)

 天皇陵などは、現存する天皇家にとって聖域でもある。中国やエジプトの王墓発掘のように自由に出来ないのは当然であろう。しかし、正確でない墳墓を祀り続けることもまた疑問があると思える。少なくともこうした立ち入り調査をもっと拡大して、より正確な調査を続けるべきである。その成果によっては指定を変更する可能性も含めて、陵墓調査をより開かれた形にする必要性が、今回明らかになったといえるのではないだろうか。

正田忠雄・佐代子二人展のお知らせ 2007/10/9

 
私の友人で芸術家ご夫婦である正田忠雄・佐代子二人展が、2007年10月30日(火)から11月4日(日)まで、 佐野市の 姉妹都市、滋賀県彦根市本町2−1−5(0749−23−4741)「キャッスルいと〜」で開催される ことになりました。
  これは国宝である彦根城築城400年祭を記念して開催される行事の一環で、佐野市を代表して二人展が 開催 されます。正田忠雄は、佐野市に受け継がれている「天明鋳物」の家業を受け継ぐ鋳金工芸作家で 日本工芸会正会員で もあります。佐代子氏は、染色暦40年の手描友禅染の作品を出展します。 
 お二人の作品は本当に素晴らしく、鑑賞者を魅了してくれることと思います。

機会が持てる方は、ぜひ訪れて いただければと思い、ご紹介いたします。



今城塚古墳の調査終了 
2007/9/3

 
真の継体天皇の墓と見られている大阪高槻市の今城塚古墳の発掘調査が、このたび終了した。白石太一郎氏が読売新聞(07.4.20)に寄稿している。それによると、今城塚古墳は、1596年の大地震で崩壊し、石室が破壊されていて石室自体の構造が不明であること。さらに石室自体の石材が不明なのは、大地震以前に今城塚古墳の名称から城郭建設がなされたためである公算が強いという。今回の調査では、地震で崩れた後円部から、横穴式古墳の基礎工事と考えられる大規模な積み石の壇が発見され、中心部の埋葬施設の位置や構造がほぼ想定できるようになったと述べている。注目すべきは、今回の調査された石組みの周辺から、播磨の竜山石、肥後の阿蘇石、大阪奈良の二上山の凝灰岩の3種類の石棺材が出土していることである。この中で継体天皇の石棺には、6、7世紀の支配層に主に使われた肥後の阿蘇石が使われた可能性が高く、その他の横穴式石室や、古墳の構造、形態などを考慮すると、継体天皇墓には革新性より伝統の継承性の側面が強いと述べている。

 継体天皇の前の武烈天皇に子がなく、後継者不在の事態となったため、皇統に繋がる人物を探し出すこととなった。その結果選ばれた継体天皇であるが、出自とその後の畿内入りに関して多くの疑問があることは知られている。肝心なことは、応神五世の孫という苦しい説明であっても、かろうじて皇統が保たれたのか、それとも新たな勢力による政権の奪取なのかということである。今回の調査では、今城塚古墳は畿内の伝統を継承する形で築造されていて、新勢力の入畿というより何らかの継承を物語る側面が強いことを考古学的には証明したような報告である。

 『日本書紀』によれば、継体天皇(男大迹王)は越前三国にいたところ、大伴金村らに応神天皇五世の孫として見出され、畿内に迎えられたことになっている。また、男大迹王の前に選ばれながらも逃げ回って遁走辞退した丹波の倭彦王についても、仲哀天皇五世の孫と記している。五世の孫という共通点が偶然の一致とは思えない気がする。しかし、それ以前の清寧天皇にも子がなく、履中天皇の孫二人(億計王、弘計王)を播磨国から見出し、それぞれ顕宗天皇・仁賢天皇としたことや、仁賢天皇は一男(武列天皇)六女をもうけたが男子は一人であったこと。さらにその武列天皇に子がないという状況で、確かにこの時期、男系の皇統を探し出す必要があったようであり、そうした作業自体は不自然では無かったと思える。そう見てくると、継体天皇の記事からは、実は新王権の征服を隠す万世一系のための作為があったとみる根拠は薄いと思われる。しかし、「古代史ロマン」で述べたように、王権の継承に権威づけするために、実際の始祖となる応神天皇の五世の孫を名乗った可能性も否定できない。

 今回、今城塚古墳の調査からは、「継体革新」より「王権継承」の可能性が高いことが推測された。『日本書紀』の記事と合わせて考えると、継体天皇については、その名の通り何とか皇統が継承されたと見るのが妥当かと、現時点では思っている。

古代史ロマン最終章をアップ
2007/5/4

 
連載していた「古代史ロマン」も、とうとう最終章の21章をアップして、一応の区切りをつけることが出来た。もとより素人の域を脱せず、まだまだ不十分な著述と認識しているが、思い返せば子供の頃から抱いた古代史への興味を、いつの日か形にしたいとの思いを一応達成したことで、自分としては満足している。

 この「古代史ロマン」の目的は、多くの著作を読みながらも頭の中はますます混沌とする状況の中で、日本建国の真実を自分なりに追求することであった。結果として、邪馬台国から大和朝廷の成立までの道筋に、自分なりの結論を示すことは出来たと思っている。

 無論、歴史研究の立場としては、真実が解明できるわけは無く、どれだけ真実に近づけるかということである。残された手がかりや物証も、真実のほんの一部を語る可能性があるに過ぎない。むしろ大切なことは人間の研究といっても良い。歴史は人間が織りなすドラマである。当時の時代背景、人々の考え方、常識、そして平時や非常時に現れる人間性といったものを深く考慮することにより、真実に近い流れを読むことが出来るのではないか。そんな思いで解明に取組んできたつもりである。万世一系の皇統の永続を願って、作為も混ぜながらも歴史編纂に取り組んだ人々の気持、日本人の心に、どれだけ迫れたかは定かではない。

 歴史研究とは、人間や国民性の探求でもある。歴史に学ぶとは、具体的な類似の事例の結果探索だけではなく、類似の事例の中で人間がどう動き、どう生きたかを知ることである。歴史を学べば、人間の醜さ、美しさ、強さ、弱さの実態を知ることにもなる。そうした意味を持たせて、ロマンの名前をつけたわけでもある。この「古代史ロマン」が、古代に生きた多くの人々の息吹を伝えることが出来たなら、望外の喜びである。

陵墓の立ち入り調査を容認 2007/1/1

 
以前に天皇陵の調査について書いたことがあるが、平成19年元旦の読売新聞によれば、宮内庁はこれまで立ち入りを禁止していた天皇陵などの陵墓について、広く立ち入り調査を認めることになったという。見出しを見たときには、ずいぶん画期的なことがついに決まったかと驚いたが、よく読んでみるとかなり制約つきの解禁のようである。

 宮内庁によれば、歴史団体に限らず、動植物学などの学術団体に広く「見学」を認めるが、当面各学会1人で古墳の1段目の平たん部に限るというものである。なんとも中途半端な解禁のようである。特に各学会1人で見学という制約は、疑問を感じざるを得ない。
 宮内庁は、今まで、「皇霊の静謐と安寧」を守るためとして、いわゆる天皇陵などの皇族陵墓を考古学的調査から遠ざけてきた。現在の皇室のご先祖の墓を護持するという立場と、文化財的な学術調査との兼ね合いをどう置くかということは、たしかに難しい問題であることはわかる。しかし、現実に指定されている陵墓の真実性に大きな疑問が付いているのも周知のことである。そのことが考古学の進展、さらには古代史の真実解明に大きな制約になっている。さらに、継体天皇稜とされる太田茶臼山古墳がほぼ確実に違っていて、近くの今城塚古墳が真の継体天皇陵とされる例のように、間違っているままでの「静謐と安寧」を守る結果になっているところも多い。

 今回の見学解禁は、今迄からすれば確かに一歩前進ではあるが、今後さらに平成の陵墓再確定調査というような形で、本格的な学術調査をすべきと思う。調査の方法は、エジプトや中国の王墓発掘とは違い、現存する皇室に配慮した制約つきになることは当然考慮されることであるが、その目的はあくまでも真実の陵墓解明ということで、工夫の仕方もあると思う。江戸末期の不確かな調査で指定されている今の陵墓を、現在の考古学の英知を集結して再確認調査をすることにより、今後の保存と祭祀がより史実に近づくことを願うものである。 


飛鳥で発見された百済王族の墓
 2005/12/5

 
古代史ニュースで取り上げたが、明日香村で磚積(せんづみ)式の古墳が発見された。明日香周辺は、皇族の古墳が集中している地域であるが、この磚積という様式はこれまでなく、百済に多い様式であることから、来日した百済王族の墓との見方が出ているという。 中央日報は、<河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は「被葬者は40〜50歳代の男性とみられる」とし「631年、父親の百済王・善光(ソングァン)と共に日本に渡ってきたが、674年死去した百済王・昌成(チャンソン)である可能性が高い」と話した。善光・昌成は660年に百済が滅亡することによって、故国へ帰ることができなかった>と報じている。古墳の年代が660年〜670年代と推定され、百済王族の墓の可能性が高いという。

 660年〜670年代といえば、まさに倭国激動の時期である。660年百済滅亡、661年斉明天皇の死と中大兄皇子の称制(天智天皇)、百済王子豊璋の帰国、663年唐・新羅連合軍と倭と百済残党軍が戦い、400艘と2万7千人の兵を派遣した倭国船団が全滅し、百済が滅亡した白村江の戦いがあった。さらに、敗戦後の664年と665年には唐の郭務宗が来日、667年には天智天皇が近江に遷都、669年藤原鎌足の死、河内鯨を唐に派遣 671年唐の李守真が来日などの通交が続いた。11月には、郭務宗が2000人の大船団を率いて倭国に来るという事態が発生、天智天皇の死を聞いて672年郭務宗一向が離日、そのあとすぐに壬申の乱勃発という重大事が連続している。

 百済支援にかけた斉明天皇、中大兄皇子、白村江の敗戦、その後の唐・新羅からの度重なる使者の来日は一体何の目的であったろうか。戦勝国としての威圧を持って倭国の政治状況に関与してきたものである可能性が高い。百済系の多い地域である近江への遷都も、一つの対抗手段であったのかも知れない。しかし、唐と新羅は、高句麗の滅亡後離反し互いに戦う関係になった。互いに倭国を自陣営に引き込もうと策略をめぐらしたようである。

 最も気になるのは、大船団で来日した郭務宗の一行が引き上げたとたんに、大海人皇子による壬申の乱が勃発している点である。大海人皇子の勢力、天智天皇の勢力にそれぞれ新羅系、百済系の影響が強いと思われる節がある。唐を巻き込んでそれぞれの勢力が倭国内で争いをしたことになるのであろうか。

 ともあれこの時期に、滅亡した百済の王族が、立派な墓を造ることが出来たということは、倭国は白村江の戦いに敗れたとはいえ、唐の支配下に入ったわけでもなく、むしろ百済王族を保護できる独立性を保っていたとも言える訳である。墓に眠る王族は、異国(あるいは倭国が第二の母国?)の地で何を見、どういう生活をして死んでいったのか興味は尽きない。

天智天皇と天武天皇
  2005/2/21

 
平成17年2月21日の新聞では、各誌が明日香村の川原寺跡で直径1メートルを超える礎石6個が見つかり、豪華なつくりの経蔵か鐘楼の跡で、国内最古級の発見と報じている。川原寺は天智天皇が、母である斉明天皇の冥福を祈って創建したとされる寺で当時の最大級の寺の一つであった。
 
 斉明天皇は、百済支援のため九州朝倉宮に西征中崩御され、亡骸は難波から飛鳥の川原に殯された。川原の地は、斉明天皇が一時川原宮を営んだゆかりの地である。後に天智天皇は、この地に川原寺を創建した。『日本書紀』には、天武天皇が2年(273年)に川原寺に写経生を集めて一切経の写経を始めたとあり、今回発見された礎石が経蔵跡であるなら、この中に一切経が収められた可能性がある事になる。
 
 天武天皇は大海人皇子と呼ばれ、中大兄皇子(天智天皇)の弟で大皇弟とされていたが、天智天皇の死の直前、自ら身を引き大友皇子に皇位を譲り、仏道修行に入ると称して吉野に籠った。その後始まった壬申の乱で、大友皇子軍(近江軍)を制覇し天武天皇となったもので、即位後、天智天皇の弟として同じ母である斉明天皇の菩提寺である川原寺での写経奉納となったものであろう。『日本書紀』に従えばきわめて自然な兄弟の話として聞こえてくる。
 
 しかし,果たして壬申の乱とは、本当に兄弟の皇位争いであったのだろうかという疑問がある。天智天皇の死の直前まで大海人皇子の活躍の場はほとんど無く、その存在感もきわめて薄いものである。しかし、皇位を天智天皇の子である大友皇子に勧め、吉野に身を引いたときに、「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と言われ、近江の群臣たちが浮き足立つ状況を呼んだ。また、天智天皇の百済支援が唐・新羅連合軍に敗退し、九州に唐から郭務宗の軍隊が2千人来ている中での動きでもあった。東国の豪族たちがこれに呼応して大海人皇子支援にまわるなど、大海人皇子を取り巻く状況は、それまでの『日本書紀』の記載からうかがい知ることが出来ないほどの展開となる。また、弟である大海人皇子の方が年上になるという説も有力である。こうしたことから壬申の乱とは、単なる兄弟の争いではなくて、もっと大きな政変だった可能性がある。
 
 さらに、大化の改新から続く百済、新羅、唐などの影響、それらの地からの渡来人勢力の果たした役割など解明すべき多い点が多い。その後に続く持統天皇による大津皇子暗殺、天智天皇系への傾斜、さらには藤原不比等の果たした役割、『記紀』の完成など、この頃の出来事はまさに古代史上の最も重大な事変が集中している。
 川原寺での写経奉納に際し、天武天皇はどんな思いで臨んだのであろうか。『古代史ロマン』でもその解明に一歩でも近づきたいと思っている。
 
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鳥へのあこがれ  2003/10/9

 平成15年10月4日の新聞各紙は、奈良県広陵町の巣山古墳の周濠から、島状の遺構が見つかったと報じた。島状遺構とは、古墳本体からはば2メートル、長さ5メートルの陸橋を架けたした長方形の島状の遺構で、周濠の中に浮かぶ島のようなものである。遺構は上面に白い石英の小石を敷き、縁辺に葺石(ふきいし)をほどこしたもので、その上から多数の埴輪が出土したという。埴輪は家型や蓋(きぬがさ)形など34点以上、その中から親子らしい水鳥形埴輪3点も見つかった。読売新聞には、その水鳥形埴輪の大きな写真が掲載されていたが、その形象の細かさは驚くほどであった。
 
 遺構上に置かれていた水鳥埴輪については、周濠の池に遊ぶ鳥を表現したというより、古墳の主(不明・大王クラスか)の魂が鳥によって天に運ばれるという意味をこめて作られ、飾られたものと見られている。死者の魂を運ぶ鳥というと、ヤマトタケルの死とその魂を運んだ白鳥の話が有名である。伊吹山で荒ぶる神の魔力から逃れたヤマトタケルは、伊勢の野褒野で病気となり亡くなった。天皇はこれを悲しみ、野褒野に皇子の陵を造り葬ったが、そのときにヤマトタケルは白鳥となって舞い上がり、やがて白鳥は奈良の琴弾原(ことびきのはら)に留まった。そこで、その地にまた陵を造ったが、白鳥はまた舞い上がり、大阪羽曳野の古市邑(ふるいちのむら)に留まった。そこで、その地にも陵を造った。すると皇子の白鳥は、そこから天に上がり、陵には衣冠だけが残されていた。それ以来、この3つの陵は白鳥陵(白鳥のみささぎ)と呼ばれるようになったという話である。

 古代人の鳥たちに寄せる思いは、格別なものがあった。新幹線や飛行機を手に入れた現代人と違い、自分の足しか陸上移動の手段を持たなかった古代人にとって、自由に飛び交い、山々を超えることが出来る鳥たちは憧れそのものであったことは容易に想像できる。その鳥たちに、魂の昇華を託そうとする考えがあっても不思議ではない。そうした思いが古墳に水鳥埴輪を飾る習わしになったと思える。

 実際、記紀にある話の中には、他にも鳥たちが登場する。神武天皇の東征説話の中で、熊野で難儀をしている時、天皇の夢の中にタカギの神が現れ、「今、天からヤタガラスを送り届けよう。その道案内にそって進めばよい」と教えられ、吉野への進軍が成功した話(『古事記』)、天皇軍がいよいよナガスネヒコとの最後の戦いを挑む時、突然空が暗くなり、雹(ひょう)が降り、金色の不思議な鵄(とび)が舞い降りてきて天皇の弓の先に止まった。その鵄は不思議な光を放ち、ナガスネヒコ軍は眩惑されて戦うことが出来なくなり、その後降伏して神武側の勝利となった話(『日本書紀』)である。 神武東征でも、大事な場面に鳥が現れ進軍を助けたのである。
 また『日本書紀』には、そのナガスネヒコが住む地は鳥見(『古事記』では登美)と呼ばれていた。今も鳥見山などの名の山もあるが、大和朝廷の地が古く鳥見(登美)と呼ばれていた可能性もある。

 古代史の舞台である飛鳥の地名にも鳥の名がついている。飛鳥とは金達寿著『日本の中の朝鮮文化2』(講談社)によれば、朝鮮語のアンスク・アスクからきたもので、安宿、すなわち安らぎの地という意味で、飛ぶ鳥の安らかな宿、ふるさとの意味だという。この場合の飛ぶ鳥とは、遠来の渡来人にとっての安らぎの地の意味であろう。自らを飛ぶ鳥と見立てた人々の魂を見るようである。 時代は違うが沖縄の琉球絣や紅型の伝統的な柄の中に、必ずといってよいほど鳥(つばめ)の柄が描かれている。これも絶海の島に住む人々が海を越えてわたる鳥たちへの憧れの成せる業と言えるかもしれない。 
 鳥形の埴輪の連想から、古代人と鳥について、まさにとりとめのない話を書いてみました。

「天皇陵の調査について」 2003/9/26

 先日、NHKのテレビで今城塚(いましろづか)古墳の発掘調査の特集があった。【平成15年8月30日放送・史上初大王陵・巨大はにわ群発掘】 
 今城塚古墳とは、大阪府高槻市にある大型古墳で、真の継体天皇陵とされる古墳である。高槻市教育委員会の資料によれば、全長は約350m、墳丘の長さは約190m、後円部の径は約100mと、淀川北岸では最大級の古墳である。現在までに数次に渡る調査が行なわれており、この古墳からは史上最大級の大型家型埴輪を始め、多様な人物などを形どった形象埴輪などが130点以上、それも整然とした配列で発見されている。大型の埴輪は千木(ちぎ)や堅魚木(かつおぎ)を持ち神殿を象ったもので高さも170cmもあり、その周囲には多くの武人や鷹匠、力士などの人物埴輪などもあるという。それは、あたかも大王の葬送の儀式の再現か、大王の神殿とその周囲の様子を再現したと思われるような配列である。まだこれから発掘されるものもあるであろうが、規模の差はあれ秦の始皇帝の墓にある兵馬俑の日本版を思わせる状況であり、間違いなく大王墓(天皇陵)である。

 しかし、宮内庁の陵墓指定によれば、継体天皇陵は大阪府茨木市(今城塚古墳から数百メートル西)にある太田茶臼山古墳とされ整備保存されている。しかしこの古墳は、出土した埴輪などから5世紀の築造であることが分かっており、6世紀に亡くなった継体天皇と時代が合わない。 なぜこうなったかというと、『日本書紀』には継体天皇は藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬ったとあって、江戸末期の調査の時点でその地にあった二つの大型古墳のうち、今城塚古墳は戦国時代、城として使われて(今城塚の名前の由来)、かなり破壊されていて古墳と見られなかったためであろうとされている。しかし現在の研究では、場所、地名、規模、出土品などどれを見ても継体天皇陵と見て間違いないようである。

 現在、崇神天皇陵、景行天皇陵、応神天皇陵、仁徳天皇陵、箸墓古墳など古代史研究にとって大きな意味を持つ大型古墳が、天皇陵もしくは皇族の陵墓として指定され、部分的な調査などに限定されている。邪馬台国研究にとっては特に箸墓古墳などの発掘調査は欠かせないものであろうし、大和朝廷の正しい歴史を研究する上でも天皇陵の調査は不可欠のものである。もし完全な調査が許されるならば、継体天皇陵のように間違った指定もいくつかは解明される事であろう。

 無論、古墳とは墓である。天皇陵は天皇家の先祖を弔う聖域でもある。しかし現在の多くの天皇陵、陵墓参考地とされる古墳が果たして本当に該当するのか、今城塚古墳のように、あいまいな判断や伝承に基づいて指定されているものが多いのも事実である。やはり一度学術的な調査を行なって、可能な限り正しい陵墓指定を行なうのがスジであろうと思う。私は太田茶臼山古墳の主を今後も継体天皇として祀っていくことのほうが、より大きな問題だと思っている。*

*「歴史研究について」  

 (2002/6/28日本古代史の会「木を見て森を見ずコーナー」への投稿文)(一部改定)
  Kmatsuさんの新しい挑戦のページを拝見しました。共感できることの多い文章でホッとしています。今後に期待していますし、また参加もしてみたいと思います。
>自分(のルーツ)探しの旅・・・それが歴史(Kmatsuさんの書き込み)

歴史を学ぶ姿勢について述べられていますが、同感です。まず第一には自分や自国のルーツへの関心と興味こそが歴史研究の原点であろうと思います。さらに加えれば人間の営みや歴史的事件、事象を通して人間そのものを学ぶこと、また未来志向の観点で、歴史から教訓や今後の指針を学ぶことが大切かと思います

 私は歴史研究にあたり常に次の点を心がけています。

1、歴史の真実、真相の存在は、人間の思考を超えるもので、いかなる言葉や文字を使って表現しても限界があり、事柄の一面を見ているに過ぎない。従って歴史解明においては常に謙虚であること。

2、歴史書を始めとする文献は、すべてその状況や立場での視点、史観で書かれたことに留意し、盲信してはいけないこと。また、書写を重ねてきた文献には、誤写の可能性を留意すること。

3、歴史解明にあたっては出来るだけその時代状況(レベル)に留意し、解明にあたること。さらに大局的な視点や現実的な視点から個別事象や仮説の検証を行うこと。

4、周知の事柄は良いとして、仮説の提示は常に断定的な表現は避けること。学問の進歩は仮説の提示と検証の積み重ね、発明発見発掘などにより日々進展するものであるから。 

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