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第1部 邪馬台国

第1章 
編纂された歴史


『記紀』に秘められた謎

 藤原不比等は、忍び寄る自らの死を前にして、意図した律令国家としての体裁の中で特に重視した日本国の正史『日本書紀』完成の報告を聞き、一人満足げな顔をした・・・。
 こう書くといかにも小説風な記述になるが、養老4年(720年)の『日本書紀』完成を最も喜んだのは藤原不比等であったと思われる。701年に「大宝律令」を制定、710年に平城京遷都を主導し、我が子の宮子を持統天皇の孫にあたる文部天皇に嫁がせた不比等の狙いは、愛する草壁皇子を亡くした持統女帝の夢を叶え、天皇家の永遠の継承を願い、万世一系の系譜と由来を完成させ、神格化された天皇支配の律令国家を確立することであった。
 
 そのためには先行した『古事記』の編纂を含め、多くの文献や各豪族に伝わる系譜や伝承、大和朝廷の支配者の祖先は西からやって来たという普遍化していた歴史的伝承など、膨大な要素をつなげて通史を作り上げるという国家的大事業を進める必要があったのである。

 その中には、壬申の乱で敗北した天智天皇の娘でありながら、勝者の天武天皇の后となった持統天皇の秘めた願いが込められていた。天武天皇の死後、皇太子である子の草壁皇子のためにライバルと目された天武系の大津皇子を抹殺したが、草壁皇子が若くして病死するという悲運に見舞われた。そこで自ら即位し、持統天皇となった。持統天皇は、その後継者として孫の軽皇子の擁立を藤原不比等とともに図り、文部天皇として即位させ天智系の復活を実現させたのであり、その勝者の立場で書かれたのが『日本書紀』であった。
 
 こうして完成した『日本書紀』には、その編纂過程で王権の正当性と普遍性を示すためにさまざまな作為がほどこされた。『古事記』についても、推古天皇までの記述で終わってはいるが、そこまでの編纂と作為については同様である。今、我々が『古事記』や『日本書紀』(以後は『記紀』と記す)を読む場合、その中に秘められた編纂の目的と、そこにほどこされた作為の一つ一つを解きほぐし、真実を探し当てる努力が求められるのである。
私は、大和朝廷の成立に至るまでに、様々な勢力による王権の成立や断絶があったものと見ている。その王権は、「初期三輪王権」「大和イリ系王権」「九州タラシ系王権」「大和王権」であるが、後の『記紀』の編纂期には、それらが連綿とつながり一元化され、神話から大和朝廷の成立に繋がる歴史が作られたものと考えている。そうした歴史の真実に光を当て解明していきたいと思う。その追及すべき謎の主な点は下記のとおりである。

初期三輪王権は、出雲・吉備勢力等の畿内進出で誕生した?
なぜ三輪山に大物主(出雲の神)が祀られたのか?
なぜ3世紀後半以降、纏向遺跡周辺に前方後円墳が作られるようになったのか?
*纏向遺跡・三輪山の神格化が初期三輪王権の中枢となった?

*邪馬台国はどこにあったのか。またその連合国の所在地は?
*卑弥呼は日の御子として象徴的な存在で、実権は男弟(高木の神?)が持った?

*難升米は伊都国王で、邪馬台国連合を統率した?
*投馬
(つま)国は邪馬台国連合の中の大国で、日向地方にあった?
*邪馬台国連合の中で争いがなぜ多かったのか?
卑弥呼の死後、伊都国王に代わり投馬国王が邪馬台国連合を率いた?
投馬国や邪馬台国勢力がやがて畿内に進出し、大和イリ系王権を築いた
*大和地方になぜ九州の地名が方向も一致して多数付けられたのか?
*大和イリ系王権は、垂仁天皇以降弱体化したのか?
*豊前地方周辺にはなぜ渡来系の勢力が一気に増えたのか?
*大和イリ系王権の景行天皇以降は、なぜ九州往来話が中心なのか?
  (景行天皇・ヤマトタケル・仲哀天皇・ 神功皇后・応神天皇など)
*景行・成務・仲哀・神功皇后(オキナガタラシヒメ)は九州の新勢力で
  
九州タラシ系王権か?

*ヤマトタケルは二人いた?

*武内宿称は渡来系の人物か?
武内宿称と神功皇后が応神天皇の父母か?
神功皇后・武内宿禰が畿内に入り、本格的な大和王権を築いたのか
*大和朝廷の成立は応神・仁徳期? 第十五代応神天皇が実質初代か?
*神の名前の付く天皇は、なぜ神武・崇神・応神天皇に限られるのか?
  また神功皇后にも神の名がついているのにはどんな理由があるのか?
*『記紀』の神話にはなぜ九州からの神武東征の話が書かれているのか?
*『記紀』にある高天ヶ原神話は、邪馬台国・卑弥呼がモデルとなったのか?
*『記紀』の神話にはなぜ邪馬台国のことが書かれていないのか?
  また、なぜ九州と出雲の話が中心になっているのか?
*『記紀』で、卑弥呼や邪馬台国の話は神話化された為消されたのか?

後に卑弥呼は天照大御神、邪馬台国は高天原のモデルになった?
宇佐神宮・住吉大社の謎?
渡来人の果たした役割は?
* 初期三輪王権・大和イリ系王権・九州タラシ系王権・大和王権の
  四つの王権が、『記紀』で繋がれて一元的な大和朝廷の歴史となった?

藤原不比等が『日本書紀』の影のライター?
『記紀』編纂の狙いと作為とは?


 
こうした数々の謎を解きほぐし、初期三輪王権から大和イリ系王権、九州タラシ系王権、更に大和王権から大和朝廷へ、日本国家の成立への道筋を解きほぐしていきたいと思う。尚、これから各章で細かく検討・分析をしていくことになるが、長文になるので、まず先に私の考え方の概要をわかりやすく述べてみたい。上記の邪馬台国から大和朝廷にかかわる数々の疑問点に対する主な要点・概略をまとめると下記のとおりである。これらを各章で順次解明し、大和朝廷成立に至る古代史の真相を、解きほぐしてみたい。

邪馬台国の謎

 
『古事記』『日本書紀』編纂の中で、その存在を消された国々の代表的なのが邪馬台国である。この邪馬台国については、『魏志倭人伝』に詳しく記載されているが、その位置については各説があり、正確には定まっていない。その中で主な所在地は九州説、畿内説でほぼ二分されている。しかし、九州説では域内各地に候補地が分かれていて特定の地に定まっていないが、畿内説では大和地方の纏向遺跡周辺にほぼ特定されている。最近では、畿内にある前方後円墳の一部が3世紀中頃の築造であるという説が出回り、これは卑弥呼の時代に王権の存在を認めるものとして、邪馬台国畿内説の根拠ともなっている。しかし、これには反論も多く、詳しくは後に述べるが、こうした大型古墳の築造は3世紀末から4世紀にかけてであるとの説も出ており論戦となっている。ただ、近年のマスコミは、大和説に傾いた報道が多く、纏向周辺で何かの遺跡の発見があると、邪馬台国との関連があるかのような報道が多く、そのように受け止めている方々も多い。

 しかし、詳しくは後に述べるが、邪馬台国の畿内説はその根拠が極めて薄く、『魏志倭人伝』を精査する限り、畿内説には無理があることが分かる。何よりも、仮に3世紀半ばに前方後円墳が出来たとしても、それは突然のことであり、それまで弥生時代後進地域であった三輪山周辺にそれに先立つ王権の存在の痕跡もなく、まさに外部からの進出があったことを裏付けるのみである。私は、邪馬台国は九州にあり、やがて畿内進出したとする説をとるが、それは3世紀末頃のことであり、それ以前に出雲や吉備など先進地からの進出と初期王権の構築があったと見ているので、前方後円墳等の古墳築造はあり得ることと考えている。

 『魏志倭人伝』にある邪馬台国は、沢山の小国に分かれて争っていた国々を三十カ国位にまとめて連合を築き、王権を持つ大国として存在していたことが記されている。魏の出先機関としての朝鮮半島帯方郡からの魏使の往来があり、そのことが詳しく記載されているのが『魏志倭人伝』である。私はこの邪馬台国連合は、九州の北部・中部一帯と長門・周防地方の一部にあったものと見ている。糸島半島付近には、大陸や朝鮮半島との窓口として実権を持ち、魏使の往来などのある伊都国があり、内陸の邪馬台国には女王の卑弥呼がいた。卑弥呼はシャーマンのような存在で、ほとんど顔を見せることは無く、邪馬台国の実権は男弟とされる人物が握っていたようである。しかし魏使たちは、実際には伊都国に留まり、邪馬台国には来なかったようで、邪馬台国連合の実権は一大卒を置いていた伊都国王が持っていたようである。

 やがて卑弥呼の死後の内乱を経て、伊都国に代わり大国である投馬国が中心になったが、朝鮮半島や中国大陸の影響を多く受けるようになり、倭国の内陸の中心部に国家中枢を築く必要性を感じるようになった。しかし、畿内地方には既に先行して出雲や吉備等の勢力が入り込み、まだ限定的な範囲ではあるが王権の構築を進めていたため、邪馬台国も国内の中枢地域である畿内地方への進出を考えるようになった。

 畿内に先行した出雲や吉備などの一部勢力は、弥生時代の後進地域であった畿内・纏向地区に入り込み、在地勢力のいろいろな勢力と融合や対立を繰り返しながら王権の基礎を築きつつあった。三輪山に大物主を祀り、吉備勢力は前方後円墳などの古墳築造を持ち込んだ。後に詳細を記すが、この地に「出雲の庄」、「吉備」「備前」などの地名も残っている。これを、仮称「初期三輪王権」と呼ぶこととする。しかし、各地での争いもあり、この勢力による畿内統一も難しい状況であったものと思われる。そうした状況の中で、やがて投馬国を中心とする邪馬台国連合の勢力が畿内に向けて進出を始めた。各地での連携を進めながら、先入勢力との争いも経て、やがて畿内に進出して「大和イリ系王権」の誕生を見たものと思っている。すなわち崇神・垂仁のイリ王権である。大和という字は後に好字に替えられた時のもので、初期には邪馬台(ヤマト)と付けられた可能性が高いと思うが、とりあえず大和王権の文字を使うこととする。また、邪馬台国のシンボル的女王として台与、またはその後継者の招致や、「親魏倭王」の金印も持ち込まれた可能性が高いと思っている。そうした神格化とあわせて畿内各地に九州からたくさんの地名も持ち込まれ、方角なども合わせた形で各地に命名された。これは、九州勢力の単なる移動ではなく、そうした勢力による王権の構築を裏付けるものである。

 こうした大和イリ系王権の成立にかかわる史実は、当時から広く知れ渡るものであった。そのため、後に本格的な大和朝廷の国家体制が築かれた7世紀末から8世紀にかけて、国家体制の正当性・神話性を正当化するため、『記紀』の建国神話では、西からやってきた勢力が大和王権を開いたという伝承は否定出来ずに引き継がれた。しかし、大和朝廷の先祖伝説として時代をはるかに遡った神武東征説話に改編され、邪馬台国の史実は、高天原や出雲の神々の世界の話に置き換えられたのである。これが後の神武東征の神話のもとにもなった可能性があると考えている。

 こうした史実により、大和に生まれた第十代目の天皇とされている崇神天皇(ミマキイリヒコ)については私の所見では邪馬台国連合の大国であり最初に畿内に入った投馬国の王である可能性が高く、纏向にその拠点を置き、大和イリ系王権を築いたものと見ている。先入していた出雲や備前等の勢力との融合も図り、三輪山に出雲の神である大物主を祀り、備前から伝わってきた前方後円墳なども引き継がれたものと考えられる。この投馬国王は、纒向に入った王、すなわちミマキイリヒコと呼ばれた。この国王のことが後に日向から畿内に入った神武天皇のモデルになった可能性がある。

その後の九州の状況

 畿内に進出した邪馬台国、すなわち「大和イリ系王権」は、畿内周辺の統一を進めたが、その後も丹後や尾張など各地からの勢力の進出もあり、崇神・垂仁のイリ王権は徐々に弱体化の道をたどった。邪馬台国連合の東遷後の九州各地は、その後衰退したが、豊前地方などの北九州地方には、大陸や半島から海洋勢力の進出が進み、地方での王権化が再度進んだ。また熊本県南部地域にに勢力を持っていた狗奴国は、その後熊襲と呼ばれる一族となり、南九州の支配化を進めたと見られる。

 こうした九州での状況により、北九州・門司付近や豊前地方・長門地方を中心に、渡来系集団と旧邪馬台国の残存集団との連携も進み、新たな王権を目指す動きとなっていった。この集団はやがて熊襲退治などで活躍するオオタラシヒコ(後の景行天皇)が最初の大王となり、豊前地方周辺の制圧を進め、後に京都郡と呼ばれる地域にその基礎を築いた。この一族(タラシ系)こそが、やがて九州内を再び制圧し、九州内に新たな「九州タラシ系王権」を築いた。しかし、その後のナカツタラシヒコ(仲哀天皇)の時に大きな出来事が起き、この王権も形式的には神功皇后により継承されたが、実際には新たな王権の誕生を想定する変化が起きたと見られる。やがてこの勢力が再び畿内に進出して、弱体化していた「大和イリ系王権」を引き継ぐ形で「大和王権」・すなわち後の「大和朝廷」の基礎を築いたものと見ている。ただし、この勢力の実態はかなり複雑な構成になっていて、詳しくは後に述べるが、概略を書くと下記のとおりである。

 『記紀』では、オオタラシヒコ(後の景行天皇)とヤマトタケルの畿内からの九州征伐の話として書かれているが、実際には九州内で新勢力による統一の動きは、オオタラシヒコなど三代にわたって進められた。すなわちオオタラシヒコ・ワカタラシヒコ(実際はヤマトタケル)・タラシナカツヒコである。しかし、このタラシ系の最後の王であるタラシナカツヒコ(仲哀天皇)の突然の死や、その妃であるオキナガタラシヒメ(後の神功皇后)の三韓征伐や武内宿禰の出現・神功皇后の出産(ホムタワケノミコト・後の応神天皇)など謎の部分も多くある。私はこのタラシ系王権は、タラシナカツヒコ(仲哀天皇)の死で途絶え、新たに渡来系の武内宿禰と神功皇后に受け継がれ、その子であるホムタワケノミコト(後の応神天皇)を引き連れて畿内に新たに入り、新王権の構築に至ったとみている。ただし、武内宿禰は自ら天皇になることを控え、神功皇后を摂政として、ホムタワケノミコトが成長するまで裏方として王権の構築に努めたと思われる。こうしてその支配を確実なものとした後、応神天皇の即位を見たのである。これが第十五代天皇とされているが、実質的には初代の新たな王権の誕生となったのである。この王権は、海洋勢力として大和ではなく河内地方にその拠点を置く新王権となった。そしてやがては7〜8世紀まで至り、律令制度の施行などを経て実質的な大和朝廷の成立に繋がったものと見ている。

 このように、実際にはいくつかの王権の交代ががあったのであるが、『記紀』では、こうしたいくつもの交代を認めず、万世一系の皇統維持のための作為がみられるが、その中でも最も謎に包まれているのが上記した神功皇后と応神天皇の記述である。『記紀』では神功皇后の神話的な話で皇統が維持されている。しかし実際にはこの時に九州から新たな渡来系の一族が畿内に進出し、新たな王権の成立を図ったのであるが、『記紀』では、上記に記したように新たに九州に誕生していた勢力のことを、景行天皇・垂仁天皇・神功皇后の九州出征の話として引継ぎ、先行した邪馬台国一族の初期大和イリ王権を引き継ぐ形に改編されたものと見ている。王権の神格化や統一王権を引き継ぐ必要性があったものと見ている。イリ王権とタラシ系王権の関係、神功皇后や武内宿禰の果たした役割を含めて、『記紀』の作為解明が最も求められる部分でもある。

 以上概略を記したが、私はこうした王権交代の流れがあったものと思っており、『記紀』では、大和朝廷の正当性・神話化を図る意図で編纂を進めたため、高天原から一元化された皇統による皇位継承が引き継がれたと記して、王権・皇統の正当性・神話化を図ったものと考えている。このため、実際にいくつかの王権が引き継がれたことは伏せられ、皇位継承の話に改編されたと見ている。その中で消された代表的な存在が邪馬台国である。しかし、『日本書紀』の編纂者は、邪馬台国について書かれた中国史書『魏志倭人伝』をまったく無視することも出来ず、卑弥呼についての記述については、後の大和朝廷の中の神功皇后についての見聞を記したものである立場で神功皇后の記事の中で簡単に触れている。だが、卑弥呼と神功皇后では時代も人物像も全く違うことが明白であり、『日本書紀』編纂に際して、中国に朝貢した卑弥呼の実像を隠そうとしたほころびも見えている部分でもある。
 
 こうした『記紀』にある万世一系の皇統には、作為がほどこされた箇所は他にも数多くあり、これからできるだけ解明していくつもりあるが、まず、『日本書紀』が神功皇后をなぜ卑弥呼と描いたのか、その謎から追ってみよう。尚、倭人伝にある「邪馬台国」の読み方は、一般的には「ヤマタイコク」であるが、これは「ヤマトコク」が正しいと思っている。しかし後世に付けられた奈良の大和と一致しているため、混線を避けるため当面は「ヤマタイコク」として進めたい。

卑弥呼は神功皇后か

 中国の正史『三国志』の一つである『魏志』の中の通称『魏志倭人伝』には、2世紀から3世紀にかけての倭国の状況が書かれている。著者は陳寿という史家で、先行したしたさまざまな倭国情報を編纂したものである。完成したのは3世紀末で、我が国の『記紀』が8世紀初頭に完成し、しかもさまざまな意図の下で編纂されて形跡があるのと比べ、まさに同時代的な貴重な資料である。『魏志倭人伝』は伝聞や不正確な報告などを含んでいるとは言え、倭国の細かい情景描写や政治状況などが記載されており、当時の倭国状況を知り得るものとして一級の価値がある。

 その中に、邪馬台国や女王卑弥呼の事が要約すると次のように書かれている。
 「倭は帯方郡の東南、大海の中にある。狗邪韓国、対馬国、壱岐国、末羅国、伊都国などを経て進んでいくと倭国を束ねている邪馬台国があり、女王卑弥呼がいる。鬼道を使い、衆を惑わす力を持っている。独り身で歳は長大である。男弟がいて政治を助けている。宮室は、婢千人を侍らし厳重に警護されている。其の南にある狗奴国の男王卑弥弓呼は女王に属さず、争いを続けている。

 景初2年(3年の間違い・239年)に大夫難升米を遣わし帯方郡及び洛陽に詣で、天子に朝貢し、天子より親魏倭王の称号と金印を収受、正始元年(240年)に魏使悌儁(テイシュン)が倭国にそれらの賜物を持参して来た。また正始4年(243年)に倭女王はまた天子に使者を出し朝貢した。

 正始8年、郡に使者を出し狗奴国との争いの様子を訴えたところ、郡より張政が派遣され、詔書、黄幢を持参し檄をつくって告諭した。このとき卑弥呼は死んだ。大きな墓を造った。次に男子の王が立とうとしたが国中が服せず、争いとなり千人以上の人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女で13歳の台与(トヨ)を張政らが告諭し、王として立てて争いを収めた。台与は使者を派遣して張政らを郡に送り還し、台(洛陽)に再度朝貢した。」 

 この邪馬台国と卑弥呼について、『記紀』ではどのように書かれているかというと、まず『古事記』には一切の記述が無い。また『日本書紀』でも邪馬台国の事は直接書かれてはいないが、第十五代応神天皇の母である神功皇后の巻の中に次のような記載がある。

 「39年、この年太歳己未。魏志倭人伝によると、明帝の景初3年6月に、倭の女王は大夫難升米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。太守のケ夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。40年、『魏志』にいう。正始元年、建忠校梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。43年、魏志にいう。正始4年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、8人を遣わして献上品を届けた。」(『全現代語訳日本書紀』宇治谷孟)

 これは、神功皇后摂政の40年頃が中国の正始にあたり、中国史書にある洛陽に使者を派遣した倭の女王は神功皇后のことであるとする一説を紹介するような記事になっている。 このことは、『日本書紀』が、万世一系を貫く大和朝廷の歴史の中で、中国に朝貢していた邪馬台国の事はあえて無視した事を物語る。しかし『魏志倭人伝』の存在は無視できず、何とか整合性をつけるために、中国側が神功皇后の時代の事を伝聞として記録したものに過ぎないという立場を取ったものである。 神功皇后が三韓征伐という朝鮮半島への出兵をした皇后であり、その勇名を中国側が倭の女王と記録したものであろうというのが主旨である。

 ここに多くの謎が浮かび上がってくる。まず年代の問題である。すでに述べたように卑弥呼の時代は2世紀から3世紀にかけてである。神功皇后の時代は、仮に実在の皇后とした場合、その子とされる第十五代の応神天皇の時期が4世紀末ごろと推定されるため、時代が合わないのである。しかし、『日本書紀』の編纂者は、後に述べるが初代神武天皇の即位時期を、紀元前660年と大幅に古くさかのぼった歴史として書いているため、ちょうど神功皇后の時期が中国で言うところの邪馬台国・卑弥呼の時期にあたると考えたものと思われる。

 しかし、このことは同時に次のような疑問にも通じる。つまり、『日本書紀』の編纂者は、この時期に合わせて倭国に女王の存在をあわせるように神功皇后を創出したのではないかという疑問である。更には夫である仲哀天皇の死後、実質的に天皇であったはずの神功皇后を即位させず皇后として扱い、幼少の誉田別皇子(ホムタワケノミコト・応神天皇)を摂政したのは、あくまでも中国史書に朝貢したとある女王(神功皇后)は天皇では無いという立場を貫いたのではないかという疑問である。また、幼少の誉田別皇太子とともに畿内に戻り、69年間摂政を務め、百歳で亡くなるという長命であったのも、卑弥呼が長命であったという記事に重ねてあるようにも見える。ここに神功皇后の存在そのものが謎に包まれているわけだが、このことは応神天皇の出自の問題と絡んで後で詳しく検討することとし、ここでは卑弥呼は神功皇后ではあり得ないという指摘だけに留めておこう。

高天原は邪馬台国か

天皇家の祖先は西からやって来た・・・これは7〜8世紀になっても人々の消せない伝承となっていたのであろうか。日本神話では、神武天皇の畿内進出が九州の日向から行われたと記している。『記紀』の編纂目的の一つが大和朝廷による支配の正統性を示すことであり、そこに創作性を入れることが可能であるなら、わざわざ祖先がこの地に侵略してきた一族であることを記す必要性は無いのではないか。神話では高天原から九州に天下ったことになっていてそこが東征の出発地点になっているが、畿内に直接天下ったほうが支配権の正当性を示せるはずである。そうならなかったのは、冒頭のように人々の記憶、伝承が存在し、天皇家の祖先は西からやって来たという話にせざるを得なかったからである。しかも実際は紀元前660年という古い話ではなく、少なくとも3世紀から4世紀にかけての史実であったため、その伝承がかなりの確立で引き継がれていたということを示している。

 そこで、神話の話を3世紀半ば以降〜4世紀に置き換えてみると、神武東征の話は、実際は邪馬台国の卑弥呼の死後、日向地方にあったと思われる投馬国や邪馬台国連合による畿内進出行為や、それ以前の出雲・吉備などの勢力の進出・存在が神話化されたものであり、神武東征の話になった可能性が高い。また、卑弥呼の時代の邪馬台国の話が、高天原神話に置き換えられた可能性も高い。邪馬台国や九州の状況が、卑弥呼以後どうなっていったのかは、後で詳しく触れることとし、ここでは神話の話に戻して高天原について考えてみたい。

 神話では、高天原の天照大神(アマテラス大御神)が孫のニニギノ尊を日向の地に降臨させ、日向三代と言われる時期を経て、神武天皇が畿内に向けて東征に旅立つわけであるが、この天照大神など神々が住む高天原とはいったいどこにあったのであろうか。無論『記紀』では神話として天上の国としているが、神武東征が九州勢力の畿内進出の投影であるならば、実際に高天原と想定される地があるはずである。私見のように神武東征を邪馬台国連合勢力の
畿内進出と考えるならば、その勢力の祖先たち(神々)が住む地域はまさに邪馬台国の本拠地であったと考えることが自然である。

 高天原には天照大神がいた。そして争いを起こすスサノオノ尊(命)がいた。これは邪馬台国連合内の争いの話や関係に似ている。またスサノオノ尊の狼藉により天照大神は天の岩戸というところにお隠れになって世の中が真っ暗になった。しかし天鈿女(アメノウズメ)の神憑りした踊りなどにより再び岩戸は開けられ、天照大神が復活し世の中は明るく戻ったという話は、卑弥呼の死と台与の登場に似ている。

 また、天の岩戸事件以後は、天照大神はその存在感を無くし、高天原の実権はタカミムスビノ尊(『古事記』では高木の神)に移り、天孫ニニギノ尊の降臨を主導している。このことは、卑弥呼の死後、邪馬台国連合内の争いがあり、やがて台与を擁立したことや、主導権は男弟だけでなく、伊都国や投馬国にも分散していったたこととよく似ている。

 こう見てくると、『記紀』にある高天原の話と神武東征の話は、実際は人々の記憶や伝承に残っていた3世紀の頃の卑弥呼と台与、邪馬台国連合やそれらの勢力による畿内進出の話が元になって創作された物ではなかったかという疑問がわいてくるのである。

 私は、第2章以降で検討していくが、結論的に言うと邪馬台国は北部九州の筑後川上流、地域でいうと朝倉市(旧甘木市や旧朝倉町・旧杷木町が合併)などの周辺にその本拠地があったのではないかと考えている。この一帯は、安本美典氏を始め多くの研究者が邪馬台国に比定していることで知られている。そしてこの旧甘木市周辺には、高天原を思わす地名が多く残っている。

 安本美典氏によれば旧甘木市そのものが高天原や天(アマ)に通じ、神々が集ったという天の安川に相当する夜須川という川があり、夜須町という町も現存していた。(2005年に夜須町と三輪町が合併して筑前町になった) また旧夜須町の夜須は『日本書紀』や『万葉集』に古くは安と記されているほか、『記紀』の天の香山と呼ばれた山もやはりこの地に存在すると指摘する。またこの地域一帯には大和地方と一致する地名が多く存在し、その方角までもがほとんど一致しており、こ
の地の勢力が畿内に進出し、権力を持ったため地名も移動した可能性があるという。
 この他にも天(アマ)の名のつく神社が多く現存し、スサノオノ尊を祭る須佐神社や高木の神を祭る高木神社も存在するなど、この地が神話の高天原のモデルになった地名や由来を共有していることは確かである。

 こう見てくると、『記紀』に書かれている日本建国にまつわる話は、最終的には万世一系を貫き体系的にまとめられているが、実際はおぼろげながらも消し去ることが出来ない伝承、記憶があり、それらをモデルとして生かさざるを得なかったこと、神話には実際の地名がモデルとして使われた可能性が高いことを物語っている。

 それでは、これからそうした『記紀』の作為を解きほぐし、その中から少しでも真実に近いことを見つけていく旅を始めよう。最初は『古事記』に無視され、『日本書紀』には神功皇后のこととして転化されてしまった邪馬台国と卑弥呼のことである。邪馬台国の変遷は、日本建国神話にも神武東征の話として転化され、いまだに深いベールの彼方に置かれている。

                          第2章へ
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