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第10章 初期三輪王権から大和イリ系王権へ

吉備国と墳丘墓

 吉備の国は瀬戸内海地方における大国である。吉備とは瀬戸内地方のほぼ中央部に位置し、最大級の広さを持つ岡山平野を中心に備前、備中、備後、美作と呼ばれた国々の総称である。今は干拓により陸続きになっている児島半島は、かつては島であり吉備の児島として特異な存在の島であった。

 特異な存在というのは、『日本書紀』の国産み神話の中で、イザナギノミコトとイザナミノミコトが産んだ大八島国と呼ばれる国々、つまり淡路州、大日本豊秋津州(本州)、伊予の二名州(四国)、筑紫州(九州)、隠岐州、佐渡州、越州(能登)、大州(周防大島)と並んで吉備の子州(児島)が入っていることである。他の大きな島々と違ってなぜ周防大島と吉備児島が小さな島であるのに国産みの大八島の中に数えられるのか、大和朝廷のなかでここを出身地とする勢力が力を有していたことを思わせる記述である。

 吉備の国には大型古墳が多い。大和地方に次ぐ多さで長さ100メートルを越すものだけで20基ほど、有名なものに長さ360メートルで日本第4位の大きさを誇る造山古墳、280メートルの作山古墳などである。それらは吉備氏と呼ばれたこの地の権力者の墓であるが5世紀頃の築造のものである。


 吉備にはこうした大規模古墳のほかに、古い形式の墳丘墓を持つ遺跡も多くある。さらに注目すべきは、弥生末期の墳丘墓の中に特殊器台と呼ばれる筒状の特殊な土器が多く発見されることである。この特殊器台は径10センチから径50センチくらいで高さは1メートルくらいのものまであり、吉備特有のものである。これらの特殊器台は、最初は住居跡からも多数発見され、上に壷などを置いて使っていたものと思われる。やがて墓に用いられるようになり、実用から装飾性を増し大型化したものである。この特殊器台が大和の纒向の古墳で発見され、やがて円筒埴輪となり古墳の周囲を飾るように使われるようになっていくのである。この特殊器台の存在は、吉備の墳丘墓と大和の初期古墳に繋がりがあることを想定させるものである。

 倉敷市の東北に楯築(たてつき)遺跡と神社がある。吉備の中で3世紀前半の遺跡で古墳につながる墳丘墓として最も古いものの一つである。ここでは特殊器台も発見されたが、この神社のご神体である亀石には、不思議な模様が描かれていた。あまり注目されていなかったこの石の模様が、後に纏向遺跡で発見された円盤の模様と一致する事がわかり、吉備と纒向の関係が一躍注目されるようになった。

 さらに吉備地方には古い形式の墳丘墓として、総社市の立坂墳丘墓、竪穴式石室を持ち前方後円墳の形式を持つ三輪宮山遺跡、同じく黒宮大塚遺跡など初期古墳につながる遺跡も発見されている。特に宮山遺跡からは、鏡、鉄剣、玉類などが出土したほか、黒宮大塚遺跡からは勾玉なども出土している。こうしたことから、畿内の前方後円墳のルーツと思えるものが吉備に多く存在することがわかってきたのである。ちなみに鏡の埋葬は北九州から入ってきた風習である。また、出雲にも同時期、独自の四隅突出型の墳丘墓が見られ、墳丘の周りに葺石(ふきいし)を配している点が注目される。なぜなら大和の古墳にこの葺石が突然登場するからである。

 大和地方には前方後円墳に直接つながるような構造、埋葬品を持つ墳丘墓が見当たらず、3世紀中頃以降から突然前方後円墳が盛んに造られるようになったのは、やはり吉備や出雲、九州などからの新勢力の移住があったと見るのが妥当である。

畿内の状況

 ここで、畿内大和地方の弥生時代の様子を見てみると、代表的な遺跡に唐古・鍵遺跡がある。畿内の弥生時代の最有力な遺跡である。弥生時代を通して営まれた遺跡で、三〜五重の環濠に囲まれ、面積は約30ヘクタールに及ぶ。この遺跡では稲作が営まれ、木製の農機具や青銅器、そして特徴的なのは絵画に描かれている土器が多数発見されていることである。大規模な集落や大型の建物もあったことが確認されているが、手元にある平成4年5月21日付けの読売新聞では、唐古・鍵遺跡から「しび」と呼ばれる中国製の屋根飾りのついた二階建ての楼閣の図が描かれている土器が発見されたことを、一面トップで報じている。屋根には鳥が描かれており、古代には人間の魂は鳥によって天に運ばれるという信仰があり、この楼閣は祭祀をつかさどった首長の宮殿を描いたものかも知れないとしている。

 さらにこれまで1世紀における中国との交流は、北九州の小国連合が独占していたものと考えられてきたが、今回の発見により九州ルートと違った畿内への別ルートの存在があった可能性が強まったこと、邪馬台国が畿内に発生したとすれば、その宮殿の原型の可能性を指摘する学者の話などを報じている。大型の建物遺構はその後大阪の池上曽根遺跡などでも発見されている。

 確かに北九州を経由しない日本海ルートの中国や朝鮮半島との交流の存在はあったであろう。ただしそれは丹後や出雲などの一部勢力の移入によりもたらされた可能性が強い。大和地方のこうした弥生遺跡は、次の纏向遺跡の発展に伴い急速に小型化、衰退していくことになる。唐古・鍵遺跡の発掘はまだ一部に過ぎず、今のところこの遺跡からは、古墳の発生など纏向に直接つながる状況は確認されていない。

 やがててこの地域には、各地からのの移住者が来るようになった。移住の理由として考えられるのは、争いに敗れ土地を失い、天災異変、人口の増加などで新たな定住地を求めたことなどが考えられる。3世紀前後は倭国全体で小国家間の争いによる混乱や集団移動があった時期であったと言える。

 前述したように、吉備や出雲などの一部勢力は、3世紀に入ると畿内大和地方に徐々に進出し、やがて三輪山周辺、纏向地方に定着、3世紀半ば以降、次第に権力集団を形成した。こうした集団が纏向地区に初期的な王権を築き、前方後円墳の様式を作り上げた可能性が高い。尚、纒向遺跡一帯は平安時代の資料によれば、出雲庄(いづものしょう)と呼ばれていたことがわかっており、三輪山麓の桜井市に「吉備」「豊前」、天理市に「備前」などの地名があるのもこうした地方からの移住の関連性を想定させるものである。纒向地方には弥生時代の遺跡は存在せず、新開地であった。纒向の出現でそれまでの唐古、鍵遺跡などに見られる農耕中心の畿内文化は新たな変化を起こし、鏡や古墳文化の萌芽を迎えることになっていくのである。

 次に、纒向の発展を具体的に想定してみると、三輪山山麓に出雲や吉備などの勢力が最初に進出、纏向遺跡に繋がる神殿や集落を造り、出雲の大物主を祭り,三輪山信仰を築き上げたものと思われる。またこの遺跡では、大規模な水路や建物跡が発見され、石塚古墳、ホケノ山古墳、箸墓古墳などの古墳群も多数あり大規模な土木工事が行われるなど、権力の発生を想定させる遺構が多い。 また、全国から持ちこまれたと思われる土器が多数発見され、この地がまさに新しい文化の集積地点になっていたことを物語っている。

 古墳の築造には大きな権力が必要であるが、果たしていつ頃からこの古墳が作られ始めたのかが、この地の変遷を知る上で重要である。私は、古墳の発生は吉備や出雲にあり、その地域からの流入が本格化した3世紀半ば頃から一つの権力のまとまりを生み、徐々に王権が築かれ、古墳の発生を見たと思っている。またこの地域は、大和と呼ばれる前は登美と呼ばれていた地域であり、三輪山もシンボル的な存在の山であった。そこでこの権力集団を仮称「初期三輪王権」と呼ぶことにし、上記のように一定の権力構造が出来上がったものと見ている。各地からの移入者が多くいたと思われるが、その統率的な存在は、出雲・備前等からの進出者が担ったと思われる。しかしこの王権に大きな統率力は無く、混乱や停滞を招いていた。

 その後3世紀末から4世紀にかけて、投馬国を中心とする邪馬台国勢力の畿内進出があり、まだ本格的な倭国統一を目指せなかったこの初期三輪王権に代わり、畿内および西日本地域を統一した王権、すなわち大和イリ系王権の誕生ということになる。この進出にともなう争い事も当然あったと思うが、協力者たちも存在し、比較的穏便に引き継がれたものと思われる。後の神武東征説話の元にもなった可能性がある。

 こうした経緯から、大和イリ系王権以前の進出者で初期三輪王権に絡む各地からの首長達の残像が、後の『記紀』編纂期に、神話時代から続く統一王権の構築のため、十代崇神天皇以前の二代から九代、所謂欠史八代と呼ばれる諸天皇のモデルになった可能性もあると思っている。


瀬戸内海洋勢力との連携

 古くは、呉、越などの江南地方や朝鮮半島南部などから渡ってきた海の民は、九州北岸から東岸、更には瀬戸内一帯へと定着していった。邪馬台国のように江南地方から有明海を経て内陸部に入り稲作農業を中心に発展していった国もあったが、半島との交易をもとに発展した海洋諸国家の中で、伊都国、投馬国、瀬戸内の周防地方、吉備地方などの国々が力をつけていった。これまで述べてきたように、邪馬台国連合諸国の中での勢力交替により、伊都国が没落し、投馬国が実質的に邪馬台国連合を統率するようになった。

 以前から瀬戸内地方にも進出を図っていた投馬国連合は、半島との交易権を手中に収めた後は急変する半島情勢や、出雲や丹後などの日本海勢力や吉備などの一部が先行流入して国家の中原となりつつある畿内地方への関心を、次第に高めていった。台与の擁立などで実質的な邪馬台国連合のリーダー的存在となっていた投馬国は、九州東岸の諸国や、瀬戸内海の周防、安芸地方の諸国などとも一体的な連合関係を構築してきたと考えられる。

 瀬戸内地方で最も有力な国として、一部が畿内にも先行して入っていた吉備があるが、吉備も早い時期からその地の利を生かして瀬戸内一帯に勢力圏を持っていたと考えられる。これらの諸国が投馬国と友好関係にあったことは、『魏志倭人伝』を始め、『記紀』などにも相互の争いの記述が無いほか、後で述べる投馬国連合の畿内進出にあたり、少なくとも吉備地方までは争いも無く進行したことからその関係が想定される。

 瀬戸内海は、貴重な内海と呼べる大きな運河のような海で、現代でも西日本の海上交通路として大きな役割を果たしているが、道の発達が不充分な古代においては、まさに主要な交通、交易、情報などの幹線であった。もともと航海の民であった沿岸諸国の人々は、瀬戸内海を使って大きく移動し合い、大陸からの文化の伝播網を構築していった。

 邪馬台国の時代、ともすると邪馬台国周辺の勢力争いや九州内の事柄にとらわれがちであるが、特に2世紀後半の倭国大乱で邪馬台国連合諸国内が混乱し、卑弥呼が擁立され伊都国が実質的な権力を握ることになった頃、奴国や九州東海岸の諸国などから瀬戸内海方面に移住していった人々も多かったものと想定される。

 こうした移動の状況は、この時代から顕著になる高地性集落遺跡の存在から肯定される。高地性集落とは、縄文時代から数多くあるが、稲作中心の弥生時代にあっては低湿地帯がその居住の中心であり、わざわざ高地に住居を構える必要性は無くなるのだが、2世紀の中頃から3世紀にかけて、瀬戸内海地方で数多くの高地性集落が見られるようになる。

 それらの多くは数戸程度で、その下にある大きな集落と関連し、いわば見張りのための集落であった。見晴らしの良い高地から、海を渡ってくる船を見つけ、敵味方の区別や交易の船の区別などを下の集落に伝える役割を持っていた。また、連携している集落間の情報連絡も狼煙(のろし)などを使って行っていたものと思われる。こうした遺跡の存在は2世紀後半に瀬戸内海地方に大きな人々の移動や争い、更にその後の交易などの存在を裏づけるものである。

 卑弥呼の死後、その権力を手中にした投馬国やその配下の国々は、瀬戸内海進出にあたり小さな争いや関係構築を繰り返しながら、3世紀中頃までに吉備地方あたりまで交易や友好関係を広げていき、その勢力を拡大していったものと思われる。


投馬国連合の畿内進出と東征のモデル

 邪馬台国の実質的な盟主となった投馬国は、友好国の吉備や先行して畿内に入っていた勢力から様々な情報を得ていた事が想定される。そして、各地からの新勢力の流入で次第に国家中枢部の模様を呈してきた畿内大和地方への進出を決意していった。魏の滅亡から西晋に代わったのを契機に半島から中国の影響が薄れると、朝鮮半島には独立国家形成の動きが顕著になった。大陸や半島情勢の不穏は、前面の九州ではなく日本列島中央部に国家中枢の形成をうながすものであった。投馬国は邪馬台国の盟主として、北九州の諸国を配下にまとめ、畿内に向けて動き出した。こうした動きは倭国の歴史を塗り替える大きな転機となっていくのである。

 この畿内進出は、現実的には何年もの年月と数波にわたる複雑なものだったろうと想定されるが、実は8世紀に完成した『記紀』、すなわち『古事記』、『日本書紀』にある神武天皇東征神話の主要なモデルになった可能性が強いのが、この出来事なのである。そこで『記紀』にある神武東征のモデルを踏まえながら畿内進出のあらすじを追ってみよう。

 邪馬台国や伊都国を抑えて邪馬台国をまとめた投馬国の勢力範囲は、海洋勢力の利点を生かして九州東海岸一帯や、九州の対岸にある本州の周防や安芸方面に拡大していった。それらの勢力とは具体的にどんな勢力だったのであろうか。安曇氏と呼ばれる勢力は、本来筑前粕屋郡の安曇郷に本拠地を持つ海洋民であり水軍であったが、北九州一帯に展開するとともに各地に海部と呼ばれる地名を残すなど広く分布していった。

 倭氏、倭太氏と呼ばれる氏族も九州から瀬戸内にかけて分布した海洋勢力で、各地に和田の地名を残すなど勢力を拡大した一族である。そのほかにも北九州に海洋信仰の宗像氏、宇佐氏と呼ばれる有力集団であったことも知られている。投馬国は、こうした海洋勢力や内陸部の旧邪馬台国勢力等をまとめて一大勢力になっていったものと思われる。

 『記紀』の神武東征神話はこうした勢力の範囲と一致する所で展開する。『古事記』ではカムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)と兄のイツセノミコト(五瀬命)が日向(宮崎県)の高千穂の宮から畿内を目指して旅立つわけだが、途中宇佐に寄りウサツヒコの協力を得、その後筑紫の岡田の宮に一年滞在した。岡田の宮とは福岡県芦屋町の遠賀川河口の岡水門(おかのみなと)と呼ばれる所である。一般に日向から出発した神武一行が宇佐の後、なぜわざわざ関門海峡を超え北九州の岡田宮に行ったのか疑問とされているが、東征の主体が投馬国を中心とする邪馬台国勢力と考えれば納得できるのである。

 一行はさらに安芸に7年滞在し、さらに上がって吉備の高島の宮に8年滞在した。一方『日本書紀』でも同様のコースが書かれているが、それぞれの滞在期間は短く、安芸には3月程、吉備の高島の宮には3年程滞在し、船舶や兵の用意などをしたと記されている。『古事記』と滞在期間が違うが、本拠地である九州は短く、安芸や吉備などが長く滞在したと書かれていることは、九州を本拠とする勢力が安芸や吉備の勢力の強力を得るため、時間がかかったことを暗示している。しかしこの間、戦いの記録がないことは、これらの諸国間が友好関係で結ばれていたことを物語っている。

 吉備を出た神武一行はやがて河内に入り、ナガスネヒコの軍との戦いで兄のイツセノミコトが死に、一行は南に迂回して熊野に入った。それから多くの敵との戦いや協力者の出現などが描かれ、やがて大和に入り樫原で即位し天下を治めたと記されている。協力者とは投馬国連合に先行して大和に入っていた出雲や吉備などから畿内に入り、初期三輪王権を築いていた勢力を指していると考えられる。

 このように見てくると、神武東征の話は、3世紀末の投馬国を中心とする邪馬台国勢力と吉備などの協力のあった畿内進出の様子とほとんど重なっていると言ってよい。そこで私は後の『記紀』編纂のときに、投馬国連合の畿内進出により誕生した御間城入彦(ミマキイリヒコ・崇神天皇)王権の記憶がモデルとなって、初代天皇としての神武天皇が創作され東征神話が出来あがったものではないかと考えている。すなわち中国の辛酉革命説を採って初代天皇の即位を大幅に先に伸ばしたことと、「畿内の状況」に書いた初期三輪王権(二代〜九代天皇)の中にあった始祖伝説のイワレヒコの存在と御間城入彦の東征を結びつけることにより、真の始祖王、初代天皇としてとしての神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が創作されたものではないかと思っている。
ちなみに辛酉革命とは、中国の暦にかかわる説で、干支が辛酉となる60年に一度の年には革命が起こり、特に21回目に一度、すなわち1260年に一度の辛酉の年には大革命が起こるとされる説である。推古天皇の9年(601年)がちょうどその年に当たるため、そこからさか上る1260年前の辛酉の年が紀元前660年となり、神武天皇の即位の年となっているものである。


 私は、こうして投馬国を中心とした邪馬台国勢力が、吉備などの強力も得て大和に進出し、それまでに入っていた初期三輪王権勢力などと連携しながら、大和イリ系王権を作り上げたと考えているが、こうした経緯を知る上でモデルと考えた記紀の建国神話とは一体どのようなものなのか、詳しく紹介してみよう。
                         (第1部 完)

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