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第2部 初期大和王権

第11章 日本建国神話


イザナギ、イザナミの話

 『古事記』は712年(和銅五年)、『日本書紀』は720年(養老4年)に完成した古代の日本の姿を伝える代表的な書物として知られている。『日本書紀』が、律令国家建設に不可欠な国の正史として書かれたものであるのに対して『古事記』は、天皇家の私文書的な性格を持っている。

 この二つの書物の書かれた経緯や意図はあとで詳しく検証することにして、ここでは卑弥呼などの邪馬台国の状況がモデルとして投影された可能性が強い高天原神話と、投馬国や邪馬台国連合の畿内進出がモデルとして投影された可能性が強い神武東征神話について見てみたい。『古事記』と『日本書紀』では、登場する神々の名前や記述に違いもあるが、あらすじはほぼ同じである。

 『日本書紀』は、本書の他に「一書に曰く」という異伝の文章が多数あり多くの言い伝えを列記しているが、『古事記』は、一つの文章にまとめてありわかりやすい。ここでは『古事記』を中心に見てみることにする。しばらくの間神話の世界に浸ってみよう。(『古事記』を要約したが、名前はカタカナ表記、一部省略もある)


 『古事記』は宇宙の始めに天、すなわち高天原に出現した多くの神々の話で始まる。アメノミナカヌシノ神(天之御中主神)、タカミムスビノ神、カミムスビノ神などの天神(アマツカミ)である。次に、地に出現した神としてクニノトコタチノ神(国之常立神)に続き七代目にイザナギノ命、イザナミノ命の夫婦神が出現した。この二神は、天神の命により地上の国の創造を始めた。まずオノゴロ島を創り、この二神はそこに柱を立て、御殿を建てた。

 最初にエロスの世界がある。イザナギノ命はイザナミノ命に「おまえの身体はどうなっているか」と問いただした所、「わたしの身体には充分でないところがある」と答えた。そこでイザナギノ命は「私の体には出来すぎた所がある。そこでそれをおまえの身体の出来ていないところに差し込んで国を生もうではないか」と言った。そこでこの二神は柱の周りを回って合体し国を生もうとした。最初は失敗しヒルコを生んだため、葦船に乗せて流してしまった。そのあとは次々に国を生んでいった。最初は淡路島、次に四国、隠岐の島、九州(筑紫)、壱岐、対馬、佐渡、本州(豊秋津島)などでこれらの国は大八島国と呼ばれる。

 二神は、小さな島々を生んだあと、壁や石、門や屋根の神、海の神、風の神、山の神など自然や生活上の多くの神々たちを生んだ。最後の火の神であるヒノカグツチノ神を生んだ時、イザナミノ命は陰処(ほと)に火傷をおい、ついに亡くなって「黄泉国」(よもつこく)に旅立った。黄泉国とは死者の国という意味で、地下世界を表す国名である。イザナミノ命の亡骸は出雲の国と伯伎(
ほうき)の国の境にある比婆之山(ひばのやま)に葬られたが、イザナギノ命は、妻のイザナミノ命を恋しがり、黄泉国まで出かけて行く。冷たい石の扉の前で言葉を交わしたが、イザナギノ命は見てはいけないイザナミノ命の姿(死体)を見てしまい、その姿の恐ろしさのあまり逃げ出した。

 恥かしい姿を見られたイザナミノ命は逆上し、イザナギノ命を黄泉比良坂(よもつひらさか)まで追いかけ、ここで決別の言葉を交わした。イザナミノ命は「これからあなたの国の人々を一日千人づつ殺しましょう」と言い、イザナギノ命は「それならこれから私の国では一日千五百人づつ子供を生まれるようにしよう」と答えた。これにより人間の死と出生の数が決まったという。

 黄泉国から逃げ帰ったイザナギノ命は、穢れた身体を清めるため、筑紫の海の河口である阿波岐原(あはぎはら)で禊ぎ祓いの儀式を行った。この禊ぎの最中に次々と神々が生まれた。水の中に沈んでいる時に生まれた神の中に、ソコツタツミノ神(底津綿津見神)、ナカツワタツミノ神(中津綿津見神)、ウワツワタツミノ神(上津綿津見神)の三神が生まれ、海人部族の安曇氏の祖先神となった。後の住吉大社の神となるソコツツノオノ命(底筒之男命)、ナカツツノオノ命(中筒之男命)、ウハツツノオノ命(上筒之男命)の三神もこの時生まれた。

 最後に左の目を洗った時にアマテラス大御神(『日本書紀』では天照大神)、右の目を洗った時にツクヨミノ命(月読命)、鼻を洗った時にスサノオノ命(須佐之男命)の三神を生んだ。イザナギノ命はこの三神に対し、アマテラス大御神には高天原を、ツクヨミノ命には夜之食国(よるのおすくに)を、スサノオノ命には海原を治めるように命じた。ここに高天原の主役となる神々が誕生したのである。


高天原と出雲の話

 イザナギノ命から海原を治めるように命じられたスサノオノ命は、その後も仕事につかず泣いていた。そこでイザナギノ命が「どうして海原を治めず泣いてばかりいるのか」と尋ねると、「私は母が恋しくて、母の国である根之堅州国(ねのかたすこく)に行きたくて泣いているのです」と答え、怒ったイザナギノ命により「この国から出て好きにしなさい」と追放されてしまった。そこでスサノオノ命は母の国に旅立つ前に高天原を訪ね、姉のアマテラス大御神に別れの挨拶をしようとしたが、アマテラス大御神はこれを怪しみ、高天原を略奪に来たと思い武装して待ち構えた。スサノオノ命は、自らの潔白を示すために高天原を流れる天安川(あまのやすかわ)を間にして「ウケイ」をすることにした。「ウケイ」とは互いに身につけているものを交換し、子を生むものである。

 こうしてアマテラス大御神はタキリビメノ命、イチキシマヒメノ命、タギツヒメノ命など三女神(後の筑前宗像神社の祭神)を、スサノオはアメノオシホミミノ命など五男神を生んだ。このあとスサノオは女神を生んだのは私の持ち物だとして勝利を宣言し、その勢いで田んぼの畔や溝を壊し、神殿に糞を撒き散らすなどの狼藉を行った。さらに、皮を剥いだ馬を投げ込むなど一層ひどいことを始めたため、アマテラス大御神は恐ろしくなり、天石屋(あめのいわや)の中に姿を隠して石で扉を閉めてしまった。

 日の神であるアマテラス大御神が隠れたため、世の中は暗闇となり色々な災いが起きた。そこで、八百万の神々が天安川に集まり色々な策を巡らした。天石屋の扉の所に力持ちのタジカラヲノ神を配し、女神であるアメノウズメノ命が半裸になって踊り始めた。その踊りが面白くて神々の間に大きな笑いが起こり、不審に思ったアマテラス大御神が、石の扉を少しあけて覗いたところをタジカラヲノ神が扉を開け、アマテラス大御神を引き出した。「もう二度と戻らないで下さい」とお願いすると、世の中も再び明るくなった

 スサノオノ命は高天原を追われ、地上の国である出雲の斐伊川に天下った。すると川に箸が流れてきたので上流に人がいるのを知り上流まで行くと、老夫婦が一人の少女をはさんで泣いていた。話を聞くと、この土地に毎年やってくる八俣の大蛇(おろち)という頭が八つある巨大な大蛇に毎年娘を差し出さなくてはならず、今年もいよいよ最後の娘を出す番になり嘆き悲しんでいるという。スサノオノ命はその娘を自分にくれないかと約束を取りつけ、さっそく大蛇退治にとりかかった。垣根の入り口に門を八つ作り、その奥の桟敷に強い酒を八つの酒樽に用意した。

 やがてやって来た八俣の大蛇はさっそくその酒を飲み、ぐったりした所をスサノオノ命は剣で切り裂いた。するとその尾のところから立派な剣が出現した。スサノオノ命は、この剣は立派過ぎて自分の持つべき剣ではないと考え、天上のアマテラス大御神に献上した。この剣は草那芸(くさなぎ)の剣と名づけられた。こうしてスサノオノ命はその娘クシナダ姫と結婚し、出雲の地に宮殿を建て住むこととした。そこでさらに多くの妻を持ちたくさんの神々を生んだが、その中にはオオクニヌシノ神(大国主神)という五つの名前を持った神も誕生した。スサノオノ命はその後、母の国である根之堅州国に旅立った。

 『古事記』はこのあと、オオクニヌシノ神の話が色々と続き、有名な因幡(いなば)の白兎の話や兄弟たちにいじめられる話、父のスサノオノ命を訪ねて根之堅州国に行き、困難を克服して娘のスセリ姫と結婚し出雲の国を治めることになった話などが続いていく。さらに注目すべきは、共に出雲の経営にあたろうとしたスクナビコノ神が、常世の国に旅立ち嘆いている所に海から近づいてきた神が、「私を祭ってくれれば、おまえと共にこの国の経営にあたっても良い」と言われ、どのように祭るのかと聞いたところ、「大和の三諸山に祭れ」と言ったので、さっそく大和の地に祭った。それが大和の三輪山であり、大三輪の神である。ここで出雲と大和の関連が登場するのである。オオクニヌシノ神は、『日本書紀』ではオオアナムチノ命(大己貴神)として書かれているが、三輪山に祭る話も同じように書かれている。

国譲りと天孫降臨

 出雲を治めることになったオオクニヌシノ神の威光は次第に広がっていったが、高天原においてはアマテラス大御神が地上の国、すなわち豊葦原千秋長五百水穂国(とよあしはらのちあきのながいほのみずほのくに)は自分の子であるオシホミミノ命が治めるべき国であると宣言して、地上の国を治めようとした。

 豊葦原千秋長五百水穂国とは、出雲を含む地上の国全体を指す言葉であり葦原中津国(あしはらのなかつこく)とも言う。アマテラス大御神は、オシホミミノ命を地上に遣わしたが、オシホミミノ命は天の浮橋から地上を眺め、葦原の中津国は荒ぶる神たちによりひどく乱れていると報告した。そこでタカミムスビノ神とアマテラス大御神は次にアメノホヒノ神を使いに出したところ、オオクニヌシノ神に懐柔され3年たっても帰ってこなかった。

 次に、アマノワカヒコに弓矢を持たせて行かせた所、これもオオクニヌシノ神の娘シタテル姫を妻にして、葦原中津国に住みついてしまった。困り果てたアマテラス大御神は、天神たちと相談し、切り札としてタケミカヅチノ神とアメノトリフネを派遣した。この二神はオオクニヌシノ神の宮殿に近い稲佐の浜辺に立ち、持参した剣を海に立て、オオクニヌシノ神に国譲りを迫った。オオクニヌシノ神とその子ヤエコトシロヌシは同意したが、もう一人の子タケミナカタは抵抗したが敗れ、信濃の諏訪湖まで逃げ落ち、その地に留まることを条件に許された。

 こうして、葦原の中津国は高天原の手に譲られることになったが、オオクニヌシノ神は自らを出雲の地に立派な神殿を作り祭って欲しいと条件をつけた。これが受け入れられ、多芸志(たぎし)の浜辺に神殿がつくられ、後の出雲大社になった。こうして、タケミカヅチノ神は葦原中津国を平定し、高天原に戻りアマテラスス大御神に報告をした。

 一方、高天原では、アマテラス大御神はタカギノ神(高木之神)と相談し、平定された葦原中津国を御子であるオシホミミノ命に任せようとしたところ、日嗣の御子は「私の代わりに生まれたばかりのニニギノ命を下界に降ろしましょう」と言い、アマテラス大御神の孫であるニニギノ命が葦原中津国に赴くことになった。

 アマテラス大御神とタカギノ神から、「この葦原中津国は汝の治める国である」と命を受けたニニギノ命は、途中で待っていたサルタヒコノ神の道案内で、お供の神々とともに八尺(やさか)の勾玉、鏡、草那芸の剣など三種の神器を持って、筑紫の日向の高千穂の峯に天下った。これが天孫降臨である。

 この出来事には、降臨した地が平定した出雲ではなく、なぜ九州の日向の地に天下ったのか、葦原中津国とは、下界全体の総称なのか、出雲がその中心地なのか、それとも九州の中津市や中津平野と関係する名前なのか、なぜ孫のニニギノ命に代わったのかなど不可解な部分もあり、大きな謎を秘めている。また、降臨したニニギノ命が、「この地は遠く海を隔てて韓国に臨み、笠沙の岬を正面に見て、朝日のただ射す国、夕陽の照り輝く国である。ここは良き土地である」と述べているが、北九州ならともかく日向が韓国に臨んでいるという部分も疑問とされている。

 このあとにニニギノ命は、笠沙の岬でコノハナサクヤ姫と出会い結婚し、ホデリノ命、ホスセリノ命、ホヲリノ命などの御子を持った。ホデリノ命は海幸彦、ホヲリノ命は山幸彦として良く知られている逸話を持っている。ホヲリノ命は兄から借りた釣り針を無くしてしまい、兄に責められ釣り針を探しに海中の綿津見の宮殿に行き、トヨタマ姫と結婚し3年間優雅な時を過ごした。やがて釣り針を探し当てたホヲリノ命は、国に帰り兄に釣り針を返すとともに海神の教えのように振る舞い兄を屈服させた。

 トヨタマ姫は、ホヲリノ命の子を宿し、出産の時に海から上り、海辺に鵜の羽を葺いた産屋を造り、子を生んだ。その時トヨタマ姫は本来のワニの姿に戻って生んだのだが、ホヲリノ命が禁を破ってその姿を見てしまったため、トヨタマ姫は恥じて海神の国に帰ってしまった。この時生まれた御子がウガヤフキアエズノ命である。

 しかし、トヨタマ姫は海に戻ってもホオリノ命のことを忘れられず、御子を守るために妹のタマヨリ姫を送り届けた。ウガヤフキアエズノ命が、叔母にあたるこのタマヨリ姫を妻として生んだ子が、イツセノ命(五瀬命)、イナヒノ命、ミケヌノ命、ワカミケヌノ命(若御毛沼命)である。ワカミケヌノ命はカムヤマトイワレビコノ命ともいい、畿内に入り、初代天皇である神武天皇になるわけである。

 このようにして、ニニギノ命を継いだホヲリノ命、そのあとのウガヤフキアエズノ命、そのあとのワカミケヌノ命は、日向三代と呼ばれることになる。しかしこれらの話は、海神やワニとの婚姻の話など南方の海洋民族説話や伝承を集めて編纂されたもので実話ではないが、南九州を舞台に先祖伝説があることに注目する必要はある。

神武東征の話

 『古事記』は、ここから中巻となり、神話中心だった上巻と区分している。神の代から人間の代に代わるということを暗示しているとの見方もある。

 兄のイツセノ命とともに日向の高千穂の宮で国を治めていたカムヤマトイワレビコノ命は、 「この日向の地はあまりに端に偏している。天下を治めるにはもっと東の中央の地に行った方がよい」と相談し、日向の国を出発した。最初に豊国の宇佐に立ち寄り、ウサツヒコ、ウサツヒメの兄妹から饗応を受け、さらに筑紫の岡田の宮に立ち寄り1年を過ごした。

 次に、安芸のタケリの宮に7年ほど滞在し、瀬戸内海を進み吉備の高島の宮に8年滞在した。こうした滞在は、『日本書紀』に書かれた年数とは違うものの、それぞれの地で兵を養い船を用意するなど支持勢力の拡大を図ったためである。やがて一行は、波速(なみはや)を過ぎ、畿内の白肩の津に到着したとき、登美という地に住むナガスネヒコの勢力に阻まれ、争いの中で兄のイツセノ命が戦死した。イツセノ命は死の直前、「日の御子は太陽の方向に向いて戦うのは良くない。太陽を脊にして攻めるべきだ」と言い、紀伊半島を南下して熊野から攻めることを命じた。

 カムヤマトイワレビコノ命は、軍を引き連れ南下迂回し、熊野からまた進軍した。やがて大きな熊に出会い全員が気を失ってしまう。そこにタカクラジという者が現れ、夢でタケミカヅチノ神から授かったという剣を献上した。そうすると全員が眼を覚まし、正気に返り熊を退治してしまった。タカクラジの話では、アマテラス大御神とタカギノ神がタケミカヅチノ神に助けに行きなさいと命じたこと、タケミカヅチノ神は、わざわざ行かなくとも出雲の国譲りをした時に使用した剣を降ろせば良いでしょうと答えた。タカクラジは、家の屋根を突き抜いて剣が降ろされた夢を見たが、現実にその剣が降りてきたものだと言った。この剣は後に石上(いそのかみ)神社に奉じられたという。

 さらに、カムヤマトイワレビコノ命は夢の中で、「これから先は荒々しい神々がたくさんいるので、ヤタ烏を送り届けるのでその道案内で進めば良い」とタカギノ神から言われたため、ヤタ烏について進軍した。そして次々と国神達を従えさせ、やがて宇陀という所に到着した。この地にはエウカシ、オトウカシという兄弟がいたが、兄のエウカシが従わなかったため、策略を巡らしこれを退治した。

 さらに進んで大室という所では、八十人の土蜘蛛と呼ばれる族達の抵抗を受け、やはり策を巡らし退治した。その後、兄のイツセノ命を殺したナガスネビコと再度対戦し、これを打ち破った。さらに、エシキ、オトシキという兄弟の賊とも戦い苦戦している所に、ニギハヤヒノ命が支援にやってきた。ニギハヤヒノ命とは、諸説があるが先に畿内に入っていた勢力の代表で物部氏の祖といわれている。

 こうして、たくさんの敵を倒し、多くの荒々しい神々を帰順させたカムヤマトイワレビコノ命の一行は、大和の畝傍の樫原に到着し宮殿を作り、この地で天下を治めたのである。初代大王、すなわち神武天皇の誕生である。

 カムヤマトイワレビコノ命は、日向にいた頃にアヒラ姫という妻がいて、タギシミミノ命という御子がいた。しかし、天下を治めてから大久米命の勧めで、三輪のオオモノヌシ(大物主)の御子でヒメタタライスケヨリ姫を大后とした。三輪のオオモノヌシノ神とは、出雲のオオクニヌシノ神が大和の三輪山に祭ったとされる神である。オオモノヌシとオオクニヌシは同じ神と言って良い。『日本書紀』ではオオアナムチノ命(大己貴神)、コトシロヌシノ神(事代主神)として描かれている。カムヤマトイワレビコノ命が正式な后に三輪山の神の子を娶ったのは、先住していた出雲などの勢力との融合を物語っている。

 その後ヒメタタライスケヨリ姫との間に生まれた三人の御子と異母兄のタギシミミノ命で激しい後継争いがあり、タギシミミノ命を殺した末弟のタケヌナカハミミノ命が、二代目の大王(綏靖天皇)となった。

 『古事記』は、その後の天皇の系図を記してあるが、二代から九代の開化天皇までは系譜と宮殿、陵(はか)の所在地等の記述がほとんどで、事績の記述がなく実在を疑う説が有力となっている。そして十代目のミマキイリヒコ(崇神天皇)の代になって突然多くの事績の記述が出てくる。三輪山の神との関わりについても詳しく書かれている。このことは、初代のカムヤマトイワレヒコ(神武)とミマキイリヒコの類似性を強く暗示させている。以上が『古事記』に書かれている高天原から神武東征、そして崇神天皇にいたるまでの日本建国神話の概要である。

古事記の疑問点

 『記紀』、すなわち『古事記』、『日本書紀』は、日本の歴史を研究する上でともに中心的な書物である。『古事記』は712年(和銅5年)、『日本書紀』は720年(養老4年)に完成した。ともに我が国の歴史書として中核をなすものであるが、その内容については色々な見方がある。古事記偽書説を始め、津田左右吉氏を頂点に全くの創作であるとする立場の研究者もいるが、現在ではその根底に何らかの史実を反映して書かれたものとする見方が多い。

 特に神代と呼ばれる建国神話に描かれた詳細な内容は、まさに神の仕業であり史実ではないが、大きな流れとしての動きは、ある歴史的な流れを反映させたものとする見方である。こうした見方は、邪馬台国か、その流れを汲む勢力が畿内に進出して大和王権を築いたとする論者に多く、私もこの立場に立つ。私は、『記紀』が書かれた7世紀末から8世紀にかけての政治状況も、その内容に少なからず影響を及ぼしたはずであると思っている。

 『記紀』が書かれた頃は、天皇を中心とした古典的な英雄君主型国家から、壬申の乱を経て藤原不比等らを中心に、中国に習った律令国家体制への転進を目指した時期であった。その流れの中で国の正史を作ろうとした訳である。前述したように、『日本書紀』が天武天皇の勅を奉じて国の最高レベルの人々によって編纂された正史であるのに対し、『古事記』は同じ天武天皇の命により稗田阿礼(ひだのあれ)が『帝紀』、『旧辞』等を誦習(ショウシュウ)したものを太安万侶(おおのやすまろ)が撰録したものであり、天皇家の系譜的な物語風の史書である。

 しかし、『日本書紀』より後に書かれた奈良時代の勅撰正史である『続日本紀』には、『日本書紀』の完成のことは書かれているが『古事記』については記述がないことから、『古事記』は天皇家のいわば私家本的な存在だったのではないかとする見方も多い。そうした背景を持つ両書は、全く別に編纂された可能性が高いが、建国にまつわる話は共通点が多い。これは当時の社会全体に共通した認識に基づく伝承があったことを物語っていると言える。

 『記紀』とも初代神武天皇は九州から畿内に入ったと記している。これは3〜4世紀頃のこの大きな事実を人々の記憶から消す事が出来ず、高天原から九州に降りたとする天孫降臨神話の創作となったのではないか。もし、元来畿内に発生した王権がそのまま大和朝廷とになっていったのなら、九州ではなく、たとえば畿内の三輪山などに降臨したほうがこの地の本来の正当な支配権を主張できるはずである。自分達の先祖が、九州からの新入者である事を『記紀』神話は自ら認めているのである

 ところで、『古事記』の上巻の概略を書いたが、読まれた方はどう感じたであろうか。ここで『古事記』を中心とした建国神話のなかで、実際の歴史との関連で注目すべき疑問点を列記してみよう。

神々の集う高天原とはどこなのか。

アマテラス大御神が天の岩屋に一端隠れたあと、再び現れるのは何を意味するのか。

二人目のアマテラス大御神になってからは、常にタカギノ神(タカミムスビノ神の別名)とともに命令を下すようになるのは 何故か。タカギノ神は、最初タカミムスビノ神という名前で登場していたのにスサノオの追放後、タカギノ神と呼ばれるように変わったのは何故か。タカギノ神とは誰なのか。

天孫降臨に先立つ地上の国、すなわち豊葦原中津国の国譲りの舞台がなぜ出雲なのか。スサノオノ命、オオクニヌシノ命が住んだ出雲とはどういう国なのか。

5、地上の国を治めるのに御子であり青年のオシホミミノ命を降ろさず、生まれたばかりのニニギノ命(天孫)を降臨させたのは何故か。

ニニギノ尊以後、日向で三代を過ごし、海神との結婚が続くのは何故か。さらに畿内に向けて東征の出発地が日向なのは何故なのか。

7、 東征の途中豊国の宇佐に寄り、その後筑紫の岡田宮、安芸、吉備などに立ち寄り年数を過ごしたのは何故なのか。

8、 ナガスネヒコを中心とする畿内の抵抗勢力とはどういう勢力か。

9、 カムヤマトイワレビコノ命は大和入りしたあと、何故三輪山のオオモノヌシノ神の娘と結婚したのか。

 以上、問題点を列記してみた。これらの疑問に全て答えることは困難であるが、これまでの古代史ロマンで解きほぐしてきた歴史に重ねてみると、その真相がおぼろげに見えてくる。『日本書紀』も参考にしながら、次に謎解きを進めてみよう。

神話に昇華された真相

 前項で指摘した『古事記』の疑問点について、これまで「古代史ロマン」の中で述べてきたように、九州からの勢力が畿内に進出して大和朝廷の成立につながったとする立場から検討を加えてみたい。神話の中から意外な真相が見えてくるかも知れない。

 まず、神々の集う天にある高天原とはどこなのか。もし史実を反映した説話であったとするならば具体的なモデルの地があるはずである。それは最初の統一国家が成立した地方がもっとも可能性が強い。さらにアマテラス大御神という女王がいたところとなると、『魏志倭人伝』に女王国と書かれた邪馬台国の可能性が高い。 つまり、これまで邪馬台国の中心地として比定してきた九州甘木市、朝倉町周辺の可能性がもっとも高いことになる。(ちなみに甘木市・朝倉町は、2006年(平成18年)甘木市と朝倉町・杷木町が合併して朝倉市となった。) 

 甘木市周辺には、『記紀』の神話に登場する地名や神々を祭った神社が集中している。アマテラスとスサノオが「ウケイ」をした天安川(あまのやすかわ)は「やすかわ」であり、甘木市には安川という所があり、夜須川(今の名前は小石原川)が流れていた。旧甘木市は昭和29年に町村合併をした際、安川村を加えたもので、安川の由来は夜須川からきたものである。甘木市の甘も天(あま)に通じているほか、タカギノ神を連想させる高木という地名や神社があるほか、大己貴(オオアナムチ・オオモノヌシ)神社もある。

 さらに甘木市周辺には、天香久山(香山・高山)に想定される香山(高山)や、麻氏良(マテラ)山や神社がある。安本美典氏によると、この麻氏良(マテラ)山の神社は、大日女(おおひるめ)の貴の命(天照大御神)やイザナミ、イザナギの命などを祭神とする神社で、927年に出来た「延喜式」の「神名式」には「麻氏良布神社(マテラフのかみやしろ)と記載されている。同じく「延喜式」に記載されている中に、対馬の下県にある神社が「阿麻氏留神社」(アマテルのかみやしろ)と記載されており、これを考慮すると甘木市の麻氏良(マテラ)神社は、「阿麻氏良」の「阿」が抜けたものであろうと指摘している。そうであれば、甘木市周辺には天照大御神を祭った神社がいくつかあるが、アマテラスを名乗った神社があって現存していることになる。

 さらに、『日本書紀』ではアマテラス大御神の神田として「天の長田」があり、これをスサノオが荒らしたことになっているが、長田という地名も現存し一致する。甘木市から三輪町をはさんで北方に夜須町がある。この夜須町のある夜須郡は、古くは安(やす)と呼ばれたいたことが知られている。夜須町には須佐神社もあり、スサノオを須佐の男の命とすると名前も一致する。(夜須町は、2005年(平成17年)三輪町と合併して現在は筑前町になっている)

 甘木市周辺を邪馬台国に比定している安本美典氏は、この地が高天原神話のもとになった地であるとしている。すなわち卑弥呼がアマテラス大御神のモデルであり、邪馬台国時代の出来事が高天原神話の原型になったとしている。さらに、天の岩屋に入る前と出てきてからのアマテラス大御神の記述が変わることに着目して、二人のアマテラスが卑弥呼と台与の交代を思わせるとしている。 この点は和辻哲郎氏が最初に指摘したようであるが、最初のアマテラス大御神は自ら命令を下す存在であったのだが、二人目のアマテラス大御神は、存在が薄くなり常にタカギノ神(最初の名はタカミムスビノ神)のリードのもとに隠れるようになってしまう。これは卑弥呼から台与への交代を意味すると言う。

 さらに安本美典氏は、統計学的な年代論に基づいて、歴史的に在位年数が分かっている歴代天皇の統計により、すべての天皇が実在としても神武天皇の在位時期は280年から290年頃、その五代前のアマテラス大御神は240年前後となり、卑弥呼の存在時期と合致するという。『古事記』に書かれていた神話も、実在した人物に基づく可能性を指摘したものとして注目されるものである。

 私はさらに、タカギノ神を投馬国王の投影と想定しており、幼少の台与(二人目のアマテラス)を擁立して邪馬台国連合の実権を握った経緯と一致すると考えている。そうすると、最初の名前のタカミムスビノ神は卑弥呼女王のもとで隠れた実力者であった伊都国王を指すことになり、卑弥呼の死後、投馬国王に実権が移ったためタカギノ神に名前が変わったという事になろうか。尚、『日本書紀』では一貫してタカミムスビノ尊として記され、自分の娘である万幡姫(ヨロズハタヒメ)とアマテラス大御神の子アメノオシホミミノ尊の子であるニニギノ尊を降臨させている。

 
いづれにしても『記紀』の編纂に際し、かつての邪馬台国の地を高天原に、卑弥呼、台与の女王を二人のアマテラス大御神に、実権を持っていた伊都国王や投馬国王をタカミムスビノ尊やタカギノ神に見立てて神話を構成した可能性が強いと言える。そして実在したモデルがいた可能性が強いと言える。さらに、 高天原から命を発して、地上の豊葦原中津国を治めるために出雲の国譲りの話があるが、地上の国と見立てた葦原中津国とは、広義では日本国のことだが、現実には中国地方のことと見て間違いない。そう見ると、高天原のアマテラス大御神はまさに卑弥呼のことであり、スサノオノ命はまさに出雲地方の国王を連想させる。また卑弥呼の死後の内乱を治めて邪馬台国の実権を持ったタカギノ神も、投馬国の実権を持つ一族であったものと思えるのである。

 また、神話にある神武東征、すなわちカムヤマトイワレビコノ命一行が日向(投馬国)から畿内東征に向けて出発し、最初に宇佐に立ち寄り、筑紫の岡田宮、安芸、吉備などに滞在したのは、投馬国の影響力の強い地域からからの勢力の結集を物語るものと思われる。尚、なぜ最初の出発地が日向なのかは、色々なことが推測されている。日向を含めた南九州には、日向三代といわれる神々の痕跡や墓と想定される遺物遺跡が多数存在している。一部邪馬台国(高天原)とのつながりを示す遺物も発見されているほか、畿内大和地方との地名の一致も多数存在している。安本美典氏は、その著「邪馬台国はその後どうなったか」の中で、詳しく述べているが、台与以降の邪馬台国勢力が南九州までその勢力の一部を浸透し、実際に神武(狭野尊・神日本磐余彦尊・カムヤマトイワレビコノ命)一行が日向から九州北部と瀬戸内を経て,大和入りをしたことを指摘している。

 私は邪馬台国連合の新たな実権を持った国が日向地方にあった投馬国と考えているので、邪馬台国の女王とのとの系統を持つ一族もここに居た可能性も強く、畿内進出に向けた勢力の統合の為にも、そうした繋がりを持って出発したものと考えている。尚、日向国という地名は7世紀に付いたものであるが、最初はどうであったかわからない。ただ、後に大和朝廷の成立後、『記紀』の中で、高天原から降りて、やがて日に向かって進んできて畿内入りしたことの正当性を示すために付けられた可能性が高い。

 神武天皇一行が大和入りをするとき抵抗したナガスネヒコや、協力したニギハヤヒノ命などの勢力は、先行して大和に入っていた各地からの一部勢力であり、これらを征服して神武天皇が即位後、三輪山のオオモノヌシノ神の娘、ヒメタタライスケヨリ姫を正妃としたとするのは、邪馬台国勢力と先行して入っていた出雲勢力等との友好関係を示す話であると言える。

 また、天孫降臨の話であるが、普通なら地上の国を治めるのに、日嗣の御子である成人男子のオシホミミノ命を派遣するはずであるが、なぜ天孫、すなわち幼少のニニギノ命を降ろすことになったのかは、『記紀』の書かれた当時、すなわち持統女帝の意向が強く働いた可能性が強い。この話には、壬申の乱から続く親百済の天智系と、親新羅の天武系の勢力争いが根源にあったようである。

 壬申の乱を経て、天智天皇の娘で天武の后となった鵜野皇女(持統)は、天武天皇の死後、実子である草壁皇子を皇位につけようとしてライバルの天武系の大津皇子を謀反の罪で抹殺したが、程なく草壁皇子も病で亡くなってしまった。そこで孫であり草壁皇子の子である軽皇子(7歳)を皇位につけるため、自ら天皇すなわち持統天皇となり、軽皇子(後の文武天皇)の成長を待った。当時孫への皇位継承は例外的であり、これを確実に権威あるものとするために天孫降臨神話が生まれたのではないか。持統天皇時代から頭角をあらわした藤原不比等が、この神話の創作に加わった可能性があると思っている。


 こうして見てくると『記紀』に書かれた建国神話も、全くの創作ではなくその根底には歴史の真相が隠されていると言えるのである。

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