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第12章 畿内進出の状況証拠

地名の一致

 前章で、九州などからの勢力が畿内大和地方に入った痕跡を『記紀』の神話の中から検証したが、考古学やその他の状況証拠とも言えるものからの検証をしてみる。

 安本美典氏の『封印された邪馬台国』によれば、我が国の万葉仮名は中国の音韻に基づくもので、邪馬台国の台という字は、『日本書紀』にある例などから「と」と読めること、したがって邪馬台国はやまと国と読めるとし、大和朝廷との関連があること。さらに、古事記に出てくる地名は、九州が畿内の3倍以上であること、九州の甘木市周辺と畿内大和地方に名前と方角が一致する地名が数多くあることなどを指摘している。

 九州の甘木市の北方にある笠置山から順に時計の針の方向と逆に一周すると、笠置山→春日→三笠山→住吉神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲提(うなで)→筑前高田→長谷山→加美→朝倉→久留米→三猪(みずま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)→玖珠(くす)→鳥屋山→上山田→山田市→田原→笠置山といった地名が続くが、これとほぼ重なるように畿内の大和郷を中心とした地域にも同様の地名がある。

 大和郷の北方の笠置山から順に時計の針の方向と逆に一周すると、笠置山→春日→三笠山→住吉神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→賀美→朝倉→久米→水間→天の香山→高取山→天ヶ瀬→国樔(くず)→鳥見山→上山田→山田→田原→笠置山となり、一部に漢字表現が違っているのもあるが、方角もほぼ同じであり驚くほどの一致と言うほかない。そのほか九州の住吉神社の近くには、草ヶ江(畿内は日下)、野方(畿内は額田)などの類似地名があるほか朝倉周辺にも類似地名が多数存在するという。

 地名学者の鏡味完二氏によれば、さらに広範囲で考えると九州が海の方へ怡土(いと)、志摩とあるのを、近畿では伊勢、志摩とあり、山の方へは耳納、日田、熊とあるのを近畿では美濃、飛騨、熊野と類似している。さらに九州の金印出土地、志賀の島と近畿の滋賀も共に北方にあることを指摘している。こうした地名の一致は「民団が移住する場合には、その地名がもって選ばれた」とする折口信夫氏の説を紹介し、北九州と近畿の間に大きな集団の移住があったことを示しているとした。(『日本地名学 科学編』)

 こうした九州と近畿地方の地名類似について安本美典氏は、『記紀』にある天の安川や天の香山に一致する地名の残る甘木市周辺を高天原のモデル地としており、この地にあった集団がやがて畿内に東征して大和朝廷につながったとしている。ただし安本氏は、邪馬台国の勢力が3世紀の後半に日向地方に移動し、これが天孫降臨のもとになったとし、南九州一帯に広がった邪馬台国勢力が3世紀末に畿内に東征したとする説を主張し、天孫降臨から日向三代にあたる神話をほぼ史実に基づいたものとして、南九州にあるその痕跡を詳しく検証している。(『邪馬台国はその後どうなったか』廣済堂)

 私は、これまで述べてきたように、卑弥呼の死後の争乱の後、邪馬台国・伊都国から邪馬台国・投馬国の連合体に実権が移り、やがて投馬国を中心とした邪馬台国連合勢力と吉備等との連携のもと、畿内に進出し、地域の平定後、初期大和王権の成立を果たしたと考えている。この進出には、邪馬台国連合の中枢で神格化している邪馬台国の女王、すなわち卑弥呼・台与の後継者一族を招き入れたものと考えている。

 なお、現在の大和地方にあたる奈良県には、ヤマトの古地名はないが、九州の邪馬台国周辺には山門などの古地名がいくつかある。また、上記にあるように、畿内に築く新たな王権の正当性、神格化を図るためにも、九州の邪馬台国周辺の地名が畿内一帯にに付けられたものと思っている。こうして、畿内一帯に邪馬台国周辺と同じ地名が付けら、一気に神格化も図られ、初期大和王権が築かれたものと考えている。私は前記したが、邪馬台国そのものの読み方が最初からヤマト国であったとも思っている。

 近畿説を唱える人の中には、地名の異動を近畿から九州へと逆に考える人もいるが、九州の地名がある一定の地域に集中を見せているのに対し、畿内のほうは地域的に拡大しており、畿内に後から広まったと考えるほうが自然な形である。一般的にも北海道の開拓地に入って開拓民が各地に故郷の地名をつけたように、先進地の名前が移動するのが普通であり、先進地であった北九州の地名が人々の進出に伴い移動したと考えられる。地名の一致は、九州勢力による畿内進出の状況証拠の一つと言う事ができる。
 

銅鐸の消滅

 銅鐸は、畿内を中心に西は出雲や吉備、東は関東までの範囲に分布し、銅鐸文化圏として九州を中心とする銅矛文化圏と対比されている。銅鐸の使途はまだ定説がないが、農耕に関わる祭器説が有力である。当初は鳴らす楽器の祭器として用いられたらしいが、終末期には大型化し見せるためのものに変わっていったようである。

 銅鐸の研究で著名な藤森栄一氏も、「農耕の根源を左右する水と、やがてその土地、水田の祭事に関連したものと確信する」と述べている。(『銅鐸』学生社) 尚、個人的なことで恐縮だが、私は学生時代、親しい友人の父親が藤森栄一氏であることを知り、旅館も経営していたので、何度か訪れ宿泊をし、いろいろなお話もさせて頂いた思い出がある。銅鐸や石器等も室内に飾られていたが、自分が八ヶ岳登山もして周辺で拾ってきた石器らしきものをお見せして先生に笑われてこともなど、懐かしい思い出が残っている。

 大型化した銅鐸の絵柄には、シカ、亀、水鳥、カマキリ、虫、イモリ、カエル、イノシシなどの動物や、人物、高床家屋、舟などの図柄が多く描かれ、それらを取り巻くように流水文や渦文などが描かれている場合が多い。古代人の生活を窺い知る貴重な絵画と言えるものである。藤森氏の『銅鐸』の中にこんな記述のところがある。「伝鳥取県鐸を熟視した。これは何だ。邪視文の下に鶴らしい水鳥が一羽。水鳥がいる空白のスペース。それは水面でなくて何だ。水だ。渦文も水だ。それから流水文。これは、もちろん、いうにおよばない。水だ。われわれはいままで、水鳥が描かれていれば、それを具象の水鳥と読み、ツルかサギかを論じた。これは画ではない象徴の文字である。水鳥のいるスペース、それは沼だ。木に登る猿が描いてあれば、それは猿でなくて梢だ。トンボは空だ。…」藤森氏は銅鐸に描かれた画の中に、古代人の意志の表示があるとした。さらに長野県諏訪大社にいまも残る誓約の鈴「鉄鐸」と銅鐸の関連性に着目、その祭器性を裏付けた。そして「いま一度、復習してみれば、われわれは、流水文を、銅鐸の属性である文様と考えすぎていたのではないか。流水は、鐸の本質を表現するテーマだったのである」と主張した。

 確かに銅鐸の図柄は、農耕や生活に必需の水を取り巻く生活の叙事詩的なものが多く、水、すなわち農耕との関わりのある祭器として使われたことを物語っている。ただし、農耕の祭器として実際に使われたのは初期の小型のもので、農耕の水源などの場所で竿頭につるされて振られ、そのままその地に埋葬されたようである。やがて次第に大型化し、振られることはなくなり置かれる祭器に変化し、「神との誓約の成立する大型祭器」(藤森氏)になっていったようである。


 銅鐸の祖型は朝鮮、中国にあり、まず九州北部に伝来した。福岡県春日市の須玖岡本遺跡からは小銅鐸鋳型が出土している。1980年福岡市西区今宿五郎遺跡から朝鮮式と和製式の特長を併せ持つ完全な小銅鐸が発見された。1世紀半ば頃のものと思われる。その後の九州内の倭国動乱により、九州からの移住集団による九州から畿内への流れがあった。それ以降の九州では銅製武具に関心が移行し、銅鐸は使われることはなかったようで、いまだに発見されていないし、来日した魏使達も見かけなかったのか『魏志倭人伝』にも銅鐸のことは書かれていない。その後銅鐸は、農耕祭器用に畿内中心に広まり、3世紀初め頃に最盛期を迎えたようで、芸術性に富んだ銅鐸が多数作られた。

 3世紀中期の周辺地域からの一部勢力の移住や、3世紀末頃の投馬国を中心にした邪馬台国連合の本格的な畿内進出に伴い、祭祀形式の変更を余儀なくされた事態が発生した可能性が高く、恐らくはその廃棄が宣布され、銅鐸が消滅していったものと思われる。銅鐸のあるものは破壊され,あるいは整然と並べて埋められるなど、かなり緊急を要して埋設された感がある。その場所の多くは、山間地など集落(遺跡)から離れた場所であり、従っていまだかつて考古学者による発見例はなく、道路工事などの際に偶然見つけられることがほとんどである。銅鐸の消滅は、銅鐸を使用しない勢力(九州勢力)の畿内進出を物語る状況証拠の一つと言える。

墓制の移行と絹の東伝

 初期古墳につながる方形周溝墓は、弥生時代の九州や吉備に見られるが近畿には見られず、古墳の主要な副葬品である鏡、玉、剣は九州の弥生墳墓からは多量に出土しているが、近畿の弥生墳墓からは出土しておらず、古墳時代に入ってから急激に出土するようになるのである。

 第5章でも触れたが、平成12年3月、桜井市にあるホケノ山古墳の発掘調査の結果が新聞で大きく報じられた。「奈良県桜井市の箸中のホケノ山古墳は、邪馬台国の時代にあたる3世紀中葉の築造で、最古の前方後円墳と確認された」と大大和(おおやまと)古墳調査委員会(委員長=樋口隆康・奈良橿原考古学研究所長)が27日発表した。

 埋葬施設は、石で囲った木槨内に長大な木棺を据えた前例のない三重構造で、弥生時代の墳丘墓と古墳時代前期の前方後円墳との双方の要素を兼ね備え、古墳の発生段階の姿が初めて明らかになったとし、「古墳の出現が邪馬台国の時代に始まることを明確に裏付ける発見で,弥生時代と古墳時代の定義の問題だけでなく、邪馬台国の所在地論争にも波紋を呼びそうだ」(読売新聞)と報じられた。

 確かに古墳は畿内において初期古墳が築かれ、その後全国に広がっていったことは間違いない。このホケノ山古墳は特に重要で纒向の地に古墳の発生があったことを示している。ただ古墳の発生時期については3世紀末とする意見が今までは主流であったが、近年このような発掘が続き、古墳の発生を3世紀中期にあげることで邪馬台国畿内説と結びつける論調が目立っている。

 私は、これまでも述べてきたように、前方後円墳などの古墳のもとになったのは、三種の神器の要素をもつ九州における木棺墓であり、畿内においては連続した形態は見られず、吉備や出雲、北九州からの勢力の移入に伴い発展したものと考えている。前方後円墳は吉備において発生し吉備の特殊器台、出雲の四隅突出型墳丘墓の葺石、北九州の鏡の文化など、3世紀の吉備や出雲勢力の畿内、纒向への進出が畿内の古墳文化の発達をもたらしたものである。登美(大和)地方の初期古墳は、この頃の初期三輪王権の成果であり、畿内地方はその後の投馬国,邪馬台国連合の本格的な進出を経て初期大和王権の成立と本格的な古墳時代へと突入することになる。古墳の発生も、吉備や出雲地方、やがて九州や吉備などからの大集団の移住を物語る状況証拠のひとつである。

 さらに、『魏志倭人伝』には、倭人は蚕を飼い、まゆを集めて絹織物をしていたことが記述されているが、弥生遺跡からの絹織物の出土は北九州に限られている。4世紀の古墳時代に入り畿内からも出土するようになるが、倭人伝の書かれた3世紀の絹の産地と使用していた人々は北九州の邪馬台国周辺のみである。畿内にはその後絹織物が東伝伝播したと考えるのが最も合理的であり、このことも九州勢力の畿内進出を物語る状況証拠のひとつである。

 これまで述べてきた建国神話の真相、地名や墓制、鏡や絹織物の東伝などの諸状況を総合的に判断すれば、3世紀中期頃から吉備や出雲・九州などからの勢力の畿内移住があり、大和王権の初期形態としての初期三輪王権が徐々に形成され、古墳文化の発達を見たとする見方の妥当性が裏付けられるものと考えている。
                       
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