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第13章 邪馬台国から大和王権へ

御間城入彦(崇神天皇)の擁立

  卑弥呼の死後以降、邪馬台国連合の実権を握った投馬国は、その九州の邪馬台国連合(倭人伝に書かれていた30カ国はもっと少なく統一されていた可能性が高い)を統率し、海洋国家として国力、軍事力も持ち、さらには吉備等との進んだ交流の結果,情報収集力に特に優れ、畿内の様子も良く知り得る立場にあった。先行した出雲、丹後や吉備などの地方勢力の進出で、まさに倭国の中原中枢部分になろうとしていた畿内大和地方に進出を考えて不思議ではない。その点九州内陸部にあって水軍を持たず、シャーマニズム社会から脱却できずにいた邪馬台国が主導権を持てなかったのも当然であった。

 台与の時代、魏の滅亡及び帯方郡の滅亡、朝鮮半島の動乱期を迎え、高句麗の南下の圧力、狗奴国、熊襲の圧力等、シャーマニズムから武力中心の社会への移行が切実な問題となっていった。これは邪馬台国連合国家内の共通関心事項であり、特に九州の要所も押さえていた投馬国は、畿内の情報も多く入手できる立場にあり、次第に国力を蓄え、半島情勢や畿内の情報をもとにリーダーシップを発揮できる状況にあった。さらに、連合のシンボルである邪馬台国とも密接な関係にあり、台与の一族等が入っていた可能性も強い。また、畿内に先入していた出雲や吉備などの一部勢力に刺激を受けた可能性もある。投馬国王は、中国での国家建設を見習い、倭国の奥地で肥沃な中原である畿内への進出を決意、連合国の盟主として邪馬台国連合の一部勢力とともに畿内への進出をリードし実行したものと考える。畿内進出に絶対的に必要な水軍勢力があったことや、九州東海岸の沿岸諸国や吉備等の瀬戸内海勢力との協力体制があったことが実行を容易にしたものと考えている。

 こうして畿内進出は、投馬国が中心となり邪馬台国の勢力や九州の東海岸一帯の諸国から勢力を集め、吉備との協力関係のなかで進められた。そして3世紀の末頃、投馬国、邪馬台国連合は、吉備国などの協力も得て畿内進出が成り先行した出雲・吉備等勢力による初期三輪王権に代わって、畿内大和・纏向の地に初期の大和イリ系王権を成立させた。大和という文字は後に付けられたとしても、この地名はこの時にヤマト(邪馬台)と名付けられた可能性が高い。ただしヤマトと言う呼び名であり、邪馬台という漢字表現はあくまでも『魏志倭人伝』にある表現文字であり、また大和も後の好字表記である。

 この連合の中から御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ・以後御間城入彦)と呼ばれた人物、すなわち崇神天皇が大和イリ系王権の盟主として誕生した。御間城入彦の名前はいろいろな説があり、「ミマ」を任那、「キ」を城として任那の城から畿内に入った騎馬民族の王であるとする説(江上波夫氏の騎馬民族渡来説)や、「ミマ」を神や貴人を表す言葉や樹木を表す言葉とする説などいろいろあるが、私は単純に纒向(まきむく)つまり「マキ」に入ってきた男王「入り彦」、これに美称の「ミ」がついて「御間城入彦・ミマキイリヒコ」と呼ばれたのではないかと考えている。私は投馬国のリーダーが選ばれ御間城入彦を名乗った可能性が高いと思っている。崇神天皇という名は後世に付けられたものである。

 こうした畿内進出にともない、鏡を中心にした三種の神器の文化、鉄器文化、儀式化したシャーマニズム信仰や墓制など、九州や・吉備等のさまざまな文化も一気に畿内に浸透していくことになる。その中心地となった纏向遺跡一帯には、これらの浸透を裏付けるよう名地名が付けられていた。10章にも記したが、纏向遺跡付近は、当初出雲庄(いづものしょう)と呼ばれていたことがわかっている。初期三輪王権の時に付けられたと思われる。これは先行してこの地に入って、支配権を目指した出雲勢力等の存在を裏付ける。他にも三輪山麓の桜井市には、「吉備」「豊前」、天理市に「備前」などの地名もあり、これらは九州や吉備や備前等の勢力の畿内進出説を裏付けるものである。

「親魏倭王」の金印とヤマト

 邪馬台国の位置論争においては、卑弥呼が魏から頂いた「親魏倭王」の金印が墓から見つかれば、それが卑弥呼の墓であり邪馬台国の場所もわかるとされているが、私はそれはなかなか難しいことと考えている。なぜなら、この金印は引き継がれた可能性が高く、卑弥呼の墓に埋葬されたとは考えにくいからである。受け継がれたとすれば、台与又はその後継者である。投馬国、邪馬台国連合の畿内進出に伴い、その勢力・新王権の神格化のために、台与又はその後継者と共に、畿内に持ち込まれた可能性が高く、この金印の出土する場所は、大和の纏向遺跡周辺の古墳から出る可能性を想定している。なぜならこの金印は、畿内進出に際しては極めて有効で必要なものであり,必ず畿内に持ち込まれたものと考えられるからである。中国の魏帝から受けた「親魏倭王」の金印は、新たな進出の地において権威の正当性を裏付ける大切なものであり、九州から進出した女王一族に引き継がれた可能性が高いからである。

 また、投馬国を中心とした進出勢力は畿内に新たな大和王権を築いたのであるが、この大和という名称も先にあげた類似地名と同じく、先にも記したように邪馬台国(ヤマト)の名を引き継いだ可能性が高いのではないかと思っている。投馬国は、畿内進出の中心勢力であるにもかかわらず、邪馬台国のヤマトという名を付けた可能性が高い。卑弥呼が魏より下賜された親魏倭王の印を受け継ぐ邪馬台国の名称を受け継ぐことで、吉備や九州諸国・邪馬台国連合の協力を得やすかったのと、畿内進出の大義名分をもつ必要があったのであろう。ただし、大和という漢字は、後に好字として改められて表現であり、また邪馬台という字も魏による卑字を用いた表現の為、漢字のまだ無い当時の表現としてはわからないと言うほかない。ヤマトと書くしかないのであるが、ここは大和と記しておきます。

 さらに後世の話となるが、『記紀』が作られる時点で、シャーマンとしての卑弥呼の存在とこの九州・邪馬台国からの畿内進出者の話が、万世一系の神格化のため活用された。邪馬台国の勢力が、先行した出雲の勢力等を従え、大和国家を築いたという言い伝えとして受け継がれてきたため、その神格化・正当性を図るため、出雲平定や天孫降臨、神武東征の話になり、その結果、邪馬台国、卑弥呼のことが、高天原神話となっていったことが明らかになりつつある。 『記紀』の神話時代の書きぶりは、こうした投馬国・邪馬台国連合による畿内進出と、先入していた出雲勢力などを従えさせたことや、その後の親魏倭王の金印の畿内持ち込みなどを裏付ける話になっていると言える。

トミ地方の先住者達

 投馬国を中心に、邪馬台国連合勢力や吉備などの勢力を結集して畿内に進出した集団は、やがて御間城入彦と呼ばれる大王を擁立、大和の地に王権を樹立した。しかしそれは容易に樹立されたものではなく、在来勢力の様々な抵抗があったものと思われる。

 私は、『古事記』や『日本書紀』のなかで特に神話部分について、創作性が強いが全くの架空話ではなく、その根底には当時の知られた言い伝え、すなわち大まかな史実を含んでいるとの立場をとっている。その立場から見ると神武東征神話は、御間城入彦の大和進出をモデルに創作されたと思われるのである。『記紀』の神武東征神話の内容を参照することにより実際の経緯を推定してみよう。

 『記紀』の中には、神武天皇、すなわちカムヤマトイワレビコの命の兄であるイツセノ命が、ナガスネヒコなどの在来勢力との戦闘中に流れ矢にあたって死んだほか、熊野まで海を迂回南下して険しい山の中からの進軍を余儀なくされ、各地で様々な抵抗を受けたことが書かれている。

 そして注目すべき記事としては、ニギハヤヒノ命が支援勢力として描かれていることである。ニギハヤヒノ命とは神武天皇より先に大和に天下った神とされ、のちの物部氏の祖で出雲系と見られている。これらのことは実際の御間城入彦の入畿に際しても、様々な抵抗勢力や先行して入っていた出雲などの協力勢力があったことを暗示していると考えられる。それではここで御間城入彦が王権を樹立する前の大和の状況はどうであったのか検討してみよう。

 大和地方の弥生遺跡としては、唐古・鍵遺跡が有名である。弥生時代を通して営まれた大規模な遺跡で、稲作が営まれ、環濠に囲まれた広大な住居跡や倉庫跡などが発見されている。また、絵画が描かれた土器が多く発見され、二階建ての楼閣の描かれた土器まで発見された。その屋根には鳥の絵が描かれており、鳥への何らかの信仰があったことが想定される。大和の地は、この唐古・鍵遺跡を中心に弥生の農耕文化が発達し、銅鐸の鋳型も見つかっている。

 やがて3世紀の中頃、出雲、日本海方面や吉備等から徐々にこの地に新入してくる勢力があり、彼らは新たな纒向という地方にその拠点を築いていった。纒向が連綿とした弥生遺跡ではなく突然と出現したのは、新興の地だからである。やがて彼らは出雲の神を祀った三輪山を中心とする信仰を中心に、纒向の地で大規模な水路や建物群を築くなど、大和の地に新たな中心を作り始めた。その後吉備などの瀬戸内勢力が中心となり、初期古墳文化の発生を見た。古墳の発生には権力の発生がなければならず、纒向を中心に相当な権力の発生が想定される。それは唐古・鍵遺跡などに見られる原住民による発展形態というより、纒向の地に入った新入者を中心勢力として発生したと見るのが妥当である。私はこの王権を、第9章でも書いたように初期三輪王権(仮称)と名付けている。

 大和地方は、大和という名前がつく前は、トミ(登美、鳥見)という名で呼ばれていたようである。カムヤマトイワレビコノ命(神武天皇)の東征にあたり、抵抗勢力の中心であったとなったナガスネヒコは古事記では登美の地に住む長いスネを持つ男と記されている。『日本書紀』によれば、ナガスネとはもともと邑(むら)の名前でありそれを名前にしたもので、皇軍がナガスネヒコを討つとき、トビの瑞兆を得たことからトビの邑と名づけたもの、すなわち登美であり、今、鳥見というのはこれが訛ったものであると記している。

 『記紀』の話をそのまま信用することは出来ないが、奈良県の地図を見ると、桜井市の東に鳥見山という山があり、鳥と関係した地名があったことは確かのようである。ナガスネヒコは、カムヤマトイワレビコノ命(神武天皇)が攻めこんでくると聞き、「きっと我が国を奪おうとするのだろう」といって全軍を率いて日下(くさか)の地で待ち受けたとあるので、ナガスネヒコは大和の地、すなわち登美の地の王として描かれている。これが、先に畿内入りした勢力たちが作っていた初期三輪王権の勢力と考えられる。

 一方、カムヤマトイワレビコノ命の大和入りに際し、協力を申し出たニギハヤヒノ命は、『日本書紀』ではナガスネヒコを殺し、その部下達を引き連れて帰順したと記されている。さらにニギハヤヒノ命は、カムヤマトイワレビコノ命よりも先にこの地に天下った神であり、物部氏の祖であると記されている。そうなると、大和、すなわちトミの地には、ナガスネヒコを中心とする先住民系とニギハヤヒノ命を中心とする出雲、吉備系とが二つの有力集団を築いていたことになる。カムヤマトイワレビコノ命一行は、その他にも多くの勢力との戦いを余儀なくされており、各地にそれぞれの氏族が勢力を築いていたことも想定される。

 実際の御間城入彦による大和への進出も、先住民の勢力のほか、出雲や吉備などからの先入勢力の築いた初期三輪王権勢力との戦いや提携など様々な経緯があったことと思われる。

 谷川健一氏の『白鳥伝説』よれば、ナガスネヒコは先住民の蝦夷であり、ニギハヤヒに代表される物部氏は倭国争乱後に畿内入りした九州からの和種であり、その結合により大和の勢力が築き上げられ、その後に九州から邪馬台国の東征があったとしている。また物部氏は、先祖を白鳥と意識していた氏族であり各地に鳥にまつわる伝承を残しているという。大和の地がトミ、すなわち登美、鳥見と呼ばれたのもそうしたことと関係があるかも知れない。そういえば飛鳥(あすか)も鳥に関係した名前であり、神武東征神話にもヤタ烏やトビなど鳥が活躍している。御間城入彦の大和入りにあたっても、先住していた抵抗勢力や協力勢力の中に、トミの地にあった鳥を信仰の対象にする勢力がいた可能性もある。

御間城入彦の王権

 抵抗勢力を打ち破り、大和の地に入った投馬国を中心とする邪馬台国連合と、吉備等の勢力は、在来の勢力との融合も図りつつ、新たな王権の樹立に向けて地域統一を図った。新入集団は、在来の勢力である初期三輪王権の中にあって、協力姿勢を見せた吉備や九州からの先入勢力を取りこみ、先行した一部の出雲勢力などとも協調を図りながら、新王権の樹立に向けて歩みだした。

 その中から御間城入彦大王(崇神天皇)が誕生したわけであるが、前述したように投馬国王が御間城入彦を名乗った可能性が高いと思っている。また、東征に同行した安曇氏、倭氏、物部氏、吉備氏、海部氏、紀氏などの名前を後に名乗った一族たちも、王権樹立とその経営に参画したものと思われる。御間城入彦の意味は諸説があるが、既に述べたように纒向のマキに入ったヒコ、すなわちマキイリヒコに尊称のミがついたものと考えるのが最も自然かと考えている。

 御間城入彦は、『記紀』では第十代崇神天皇として記載され、第九代の開化天皇(稚日本根子彦大日日命・ワカヤマトネコヒコオオヒヒノ命)の第二子という事になっている。しかし、第二代の綏靖から第九代の開化までの八代は、『記紀』にも帝紀のみで事績の記事がなく実在性に疑問がついている。これは万世一系という観点から見ると実在性に疑問がでるが、全く別な系統の混入と考えると理解できるのではと思っている。

 すなわち、御間城入彦の前に存在した初期三輪王権の大王系図がのちに加えられ、架空の初代神武天皇(実際は御間城入彦)の東征神話と第十代崇神天皇(御間城入彦)の間に繋がれたのである。つまり御間城入彦は崇神天皇であるが、初代神武天皇の東征神話のモデルになった人物なのである。『記紀』ともに神武天皇と崇神天皇をハツクニシラススメラミコト(初めて国を治めた天皇)と記しているのはこのためである。『古事記』に初国御真木天皇(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)、『日本書紀』に御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)とあり、ハツクニ、すなわち建国を物語る尊称をつけている。

 尚、天皇という称号が使われるのは、6世紀に入り天武天皇の時代から呼ばれたとする説が有力であり、それまでは倭王や大王と呼ばれていた。天皇の称号についてはよく知られている神武、崇神などの名前は平安時代に淡海三船という人が諸天皇の事績をもとに名づけた漢風諡号(かんぷうしごう)である。したがって歴史を考えていく場合は、その天皇の活躍した時代のいわば本名である諱(いみな)か、死後のおくり名である和風諡号(わふうしごう)と呼ばれる名前を使った方が適当である。またそのほうが、崇神天皇すなわち御間城入彦などのイリ系統、景行天皇すなわち大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)などのタラシ系統など系統を理解しやすい面がある。名実ともに統一国家としての大和朝廷の成立に至る応神天皇以前の諸天皇については、和風諡号で呼ぶことの方が実態にあっていると考えている。

 さらに、王権という呼び名については、御間城入彦(崇神天皇)が王権を成立させた頃は、まだ天皇称号もなく、その支配地域も畿内の一部とその周辺、吉備や九州の一部など限られていて統一王朝とはまだ呼べない状態であったため、朝廷ではなく王権と呼ぶほうがより実態に合っていると考えているためである。しかしここに大和朝廷の原型が成立したことは間違いなく、私はミマキイリヒコ、イクメイリヒコと続くため大和イリ系王権と呼んでいる。

 『記紀』によれば、御間城入彦大王は大彦命の娘御間城姫を皇后として、活目入彦五十狭芽(イクメイリヒコイサチ・垂仁天皇・以後活目入彦)、彦五十狭芽命など、紀伊の荒河戸畔の娘遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクワシヒメ)との間に豊城入彦命(トヨキイリヒコ)など多くの子を持つとともに、都を磯城(しき)の瑞垣の宮(ミズガキの宮・桜井市)に定めたと記されている。

 新入勢力として御間城入彦王権の最大の課題は、在来の勢力をいかに協力体制に参画させるかであるが、こうした婚姻関係にもその工夫が読み取れるようである。そして最大の課題は出雲勢力との融合であるが、その点についても『記紀』が暗示をしていると思われるので、次にみてみよう。

出雲の神との葛藤

 先行して畿内進出を果たしていた出雲や丹後などからの日本海勢力は、オオモノヌシ(大物主)を祭り、三輪山をそのご神体としてあがめてきた。この勢力は、吉備や一部九州などからの流入勢力と連携や対立を交えながら、ニギハヤヒの一族を中心に三輪山の麓である登美地方に初期王権を形成していた。御間城入彦集団は大和入りに際し、この王権勢力の一部を制圧し、一部と協力しながら総じて在来勢力を懐柔する戦略をとったようである。そのことが、『記紀』の天皇系譜に崇神天皇を始祖とせず架空の神武天皇を始祖として、その間に八代の天皇、すなわち初期三輪王権の王たちの系譜を加えた理由だと思っている。

 これら八代の実態については検討を要する問題である。この八代の天皇は、系譜のみで事績の記録がないため架空の天皇とされ欠史八代と言われている。しかし、全くの架空の創作なのか、それともある実態に基づいて加えられたものなのか、私は後者の可能性を考えている。

 第1章に書いたように、後の『記紀』の編纂者達は、中国の辛酉革命説を採り、初代天皇の即位を紀元前660年の1月1日(陽暦の2月11日)に遡らせた。その結果古代の天皇の寿命が異常な程長くなった。『日本書紀』によれば初代神武が127歳、二代綏靖が84歳、五代考昭が113歳、六代孝安が137歳、七代孝霊が128歳、八代孝元が116歳、九代開化が115歳、十代崇神が120歳、十一代垂仁が140歳、十三代景行が140歳、十五代応神が110歳など長い寿命になっている。

 これはあきらかに不自然な寿命であるが、もし欠史八代とよばれる間の天皇たちが全くのフィクションであるならば、もっと代数を増し、より自然な系譜に出来たはずである。そこで、ある事情により組みこまれた八代の系図が先にあって、その後神武天皇の即位を遡らせる必要があったため、無理な形の寿命になったと考えられるのである。そう考えていくとこの八代は、御間城入彦による統治以前の初期三輪王権の王たちと考えると無理がない。

 御間城入彦の入畿を3世紀末頃と仮定し、今注目されている畿内初期古墳の発生や権力の発生を3世紀前半後期まで遡ると考えてもその間5〜60年位になり、世代交代ではないと思われるので八代くらいの王達の存在はやはり無理はなくなる。ただしまだ確固たる基盤のない王権であり、系統立てた『記紀』の系譜とは違い、むしろ各氏族間の先祖伝説などを繋いだものでものであったと見るのが妥当であろう。見事なくらいの親子相続になっているのも、創作された系図を思わせる。

 御間城入彦王権が、三輪山信仰勢力との融合を図ったことを暗示している記事が『記紀』にあるので紹介してみよう。『日本書紀』によれば、崇神天皇(御間城入彦)の5年、国内に疫病が蔓延し、民の半分が死亡するほどであった。翌年には百姓の多くが流離したり反逆し、国内が乱れた。そこで天皇は天照大御神と大和大国魂の二神を御殿内に合祀するのを取りやめ、天照大御神を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)命に託して笠縫邑に祀り、大和大国魂を淳名城入姫命(ヌナキイリヒメノノミコト)に託して祀つられた。

 しかし、淳名城入姫命は髪が落ち、身体が痩せてお祀つりすることができなかった。そこで再度占いをしたところ、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神懸りして、「吾を我が子、大田田根子に祀らせたら、たちどころに国が収まるであろう」と告げた。また別に大和大国魂神を市磯長尾市(イチシノナガオチ)に祀らせたらよいと知らされ、天皇はさっそく大田田根子を探しだし、大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市を大国魂神の祭主としたところ、疫病は止み国中がようやく収まったとある。

 このことは、実際には御間城入彦が畿内に持ち込んだアマテラス信仰(卑弥呼信仰)と土着の大物主・大和大国魂信仰(三輪山信仰)との葛藤を描いており、先住民との融合を図るために多くの困難があったことを暗示していると言えるものである。また、大田田根子は後の三輪君の先祖となったと記されている。

 その8年、高橋邑の活日(イクメ)を大物主神に奉る酒を司る人にし、大田田根子に大物主神を祀らせたところ、活日は御酒を天皇に奉り、歌を読んだ。「この御酒は わが御酒ならず やまとなす 大物主神 醸(かみ)し酒 いく久 いく久」(この御酒は、私が造ったものではなく、倭(やまと)の国をお造りになった大物主神が醸造された神酒です。幾久しく栄えよ、栄えよ) この歌にある倭の国を造った大物主神という文言が、天皇の前でも歌われた歌にあるということは、倭の国は天皇(御間城入彦)が最初に造ったのではなく、天皇は新入者であることを物語っていると同時に、先住の出雲の神を祭ることによって先住民との融和を目指した御間城入彦の実態が読み取れるのである。

 しかし、天皇の立場は次第に強化され、その後の60年、天皇は出雲の神宝を見たいと臣下に命じ、出雲に派遣した。この時は出雲振根(イズモノフルネ)が出雲を治めていたが、たまたま筑紫に行って不在であった。弟の飯入根(イイイリネ)は、命に従い、弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)らに神宝を持たせて差し出した。帰ってきた出雲振根はこれを怒り、弟の飯入根を殺してしまった。このことを聞いた天皇は、吉備津彦らを派遣して出雲振根を殺した。出雲臣たちはこの後しばらくの間、出雲大神を祭ることを取りやめるほどであった。

 この話は、御間城入彦が実際に統治を進めていくうちに、先住の出雲勢力の力を削ぎ、その葛藤から抜け出したことを暗示しているものと理解できる。出雲勢力、すなわち初期三輪王権時代の人々があがめて使用した銅鐸の消滅も、こうした事情と連動している可能性がある。

畿内統一と支配権の拡大

 御間城入彦に始まる大和イリ系王権は、出雲勢力、三輪山信仰との融和など先住勢力を制圧または懐柔しながらその支配圏を徐々に拡大していった。纒向を中心とする大和地内から畿内と周辺地域の統一を目指し、さまざまな行動を開始したものと思われる。ここで『日本書紀』にある崇神天皇の勢力拡大の記事を紹介してみよう。

 天皇の治世10年、大物主神を祭ることにより災いを鎮めたのち、「遠国の人々にも教化を広めたい」として、大彦命を北陸に、武渟川別(タケヌナカワワケ)を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命(タニワノミチヌシノミコト)を丹波に派遣し、もし教えに従わなければ兵を以って討てと命じた。これにより畿内から先の周辺地域もことごとく王化のもとに入ったという。これは四道将軍の派遣の記事としてよく知られている話である。

 また、大彦命が旅先で聞いた少女の歌をきっかけに、孝元天皇の皇子である武埴安彦(タケハニヤスヒコ)に謀反の疑いがあるとして、天皇はこれを討った。戦いで武埴安彦軍勢の半分以上の首を切ったとある。

 これらの記事は、御間城入彦の実際の勢力拡大状況を想定させるものである。孝元天皇の皇子である武埴安彦の話は、八代孝元、すなわち初期三輪王権の勢力による反乱を想定させ、畿内統一の苦難が読み取れる。

 それでは御間城入彦の畿内統一がどのように進んだのか検討してみよう。御間城入彦が大和に入った場所はどこであったか。記紀には桜井市の磯城の瑞垣の宮(水垣宮)に都を定めたとある。当時は3世紀初頭頃から出雲や吉備などからの流入集団が、纒向の地にまとまりを見せてやがて初期三輪王権を発展させ、大規模な水路や耕作地、倉庫や建物群などを造ったほか、ホケノ山古墳などの初期古墳を作り上げていた。旧勢力を併合した御間城入彦は、当然この纒向を押さえる地に都を定めたはずである。またその勢力を構成した集団も当然纒向一帯に展開したものと想定される。

 武光誠氏は、奈良盆地の中で三輪川流域と纒向川周辺がもっとも新しく開けた地であり、その中心の纒向の地に2世紀半ばごろから突如として弥生時代の小国6個分の広大な集落が出来たとしている。纒向遺跡はまだその全容が明らかになっていないが、総面積約一平方キロメートルあり、その中に草川、太田北、巻野内、太田、箸中、茅原の6集落があり、それぞれが弥生時代の最大級の集落と同規模であると指摘している。

 この纒向遺跡の中では、全国各地の土器が見つかっている状況がある。関東地方から九州にかけての各地の土器などであり、特に東海地方からの流入土器が一番多いようである。この新天地を目指して各地からの流入が続いたことや、周辺地域の制圧がある程度進んだことを想定させるものである。

 この纒向一帯には、大和、柳本、三輪古墳群があり、古墳時代前期の石塚古墳、勝山古墳、ホケノ山古墳などの初期古墳とともにその集大成のような大型の箸墓古墳が存在している。ある一定の広い支配地域を持った王権でないと、これだけの土木事業は出来ないわけで、少なくとも近畿一帯と、吉備、東海あたりの一部までの統一が進んだとみられる。


 箸墓古墳は、よく卑弥呼の墓と書かれることが多いが、この古墳の築造年代は3世紀末から4世紀初頭ごろであり、纒向がピークを迎えた頃の象徴である古墳である。実際これ以降、古墳時代中期になると纒向はその発展の痕跡が無くなるのである。このことは、箸墓古墳がミマキイリヒコの時代の象徴であるとともに、それ以降、纒向にあった勢力がそのまま発展を続けられなかった可能性を感じさせるものである。このことは、箸墓古墳の埋葬者が誰であるのかという謎の解明として次に取り上げてみることにしたい。

御間城入彦の死と大和古墳群

 ほぼ同時代の中国資料である『魏志倭人伝』などを参照できる邪馬台国に関する考証と違い、大和王権の考証には『記紀』、すなわち『古事記』、『日本書紀』が中心にならざるを得ないが、これらはたとえば御間城入彦大王の時代から、約400年あとの時代に編纂されたものである。しかも大半は言い伝えによるものであろうし、何より前述した辛酉革命説を取り入れて意図的に歴史をさかのぼらせたり、編纂者側の立場を強化する目的で書かれたりしていることが明白なため、そのまま信じられるものではない。

 しかし、これまでの検証の結果、まったくの創作ではなくある程度の史実または言い伝えを含んで書かれていることも事実である。したがって『記紀』を参照する場合、創作された部分、意図的に編集された部分などを除き、時代状況との整合を図り、その中にどういう真実があり得るのかをよく検討しなければならない。無論時代が後になるにつれて記述に真実味はより増してくるのは当然だが、御間城入彦などの初期大和王権の時代については、かなり慎重に参照していかなければならない。

 九州の勢力をまとめ、吉備等の勢力の協力のもと纒向に入り、先住していた初期三輪王権勢力との一部争いに勝ち、自らを祖とする大和イリ系王権を築いた御間城入彦(崇神天皇)は、『日本書紀』では120歳で崩御、古事記では168歳で崩御とある。いつ亡くなったのかを知るにはその崩年を調べなければならないが、『古事記』、『日本書紀』ともに各天皇の崩御年について記してはあるがほとんど一致はしていない。

 『古事記』による天皇の崩御年と実際の西暦年は水野祐氏の研究によれば次のようになる。崇神天皇戌寅318年、成務天皇乙卯355年、仲哀天皇壬戌362年、応神天皇甲午394年、仁徳天皇丁卯427年、履中天皇壬申432年、反正天皇丁丑437年、允恭天皇甲午454年、雄略天皇己巳489年、継体天皇丁未527年、安閑天皇乙卯535年、敏達天皇甲辰584年、用明天皇丁未587年、崇峻天皇壬子592年、推古天皇戌子628年。

 このうち『記紀』ともに干支が一致しているのはわずかに安閑、用明、崇峻、推古天皇のみである。そのなかで推古天皇の崩年戌子(ぼし)については628年にみることは確実視されているが、あとの天皇については絶対的なものはない。『記紀』の記述のままでは崇神天皇は紀元前の人物になってしまうが、もちろん現実的なものではなく、私はこれまでの検討結果から紀元300前後の人物と想定しているのでその崩御の年である戌寅は、318年の戌寅(ぼいん)の年とみる説を支持している。

 しかしその御間城入彦の陵については不可解なことがある。纒向の地で大和イリ系王権を築き、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト・初めて国を治めた天皇)と呼ばれた大王の陵が纒向の地に同時代に築かれた最大の墓ではないのである。 御間城入彦(崇神天皇)の陵について『記紀』では、纒向の古墳である箸墓古墳ではなく、山辺道(やまのべのみち)の勾の岡(記)・山辺道上陵(紀)と記され、柳本町の山辺道沿いにある行燈山(あんどんやま)古墳が崇神天皇陵として比定されている。

 私自身、学生時代にこの山辺道を歩いたことがあるが、大和神社付近から続々と大型の古墳が続き、興味ある古道歩きであった。天理市あたりから南の桜井市にかけて山辺道沿いに大和(おおやまと)古墳群が点在しているが、その古墳群について西殿塚古墳を中心とした大和古墳群、柳本町周辺の行燈山古墳、渋谷向山古墳を中心とする柳本古墳群、その南の桜井市周辺にある箸墓古墳を中心とした三輪古墳群と三つに分類して考えると、御間城入彦の陵はこの中の柳本古墳群にあることになる。

 この柳本古墳群には、他にも大型古墳として渋谷向山古墳があるが、これは景行天皇陵に比定されている。これらの大型古墳よりも築造年代が古いと見られている箸墓古墳は、纒向の地の盟主墳として存在しているが大王(天皇)墳ではなく、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされている。

 『日本書紀』によれば、倭迹迹日百襲姫命は、第七代の孝霊天皇の皇女で、第十代の崇神天皇(ミマキイリヒコ)の大叔母にあたるとされている。崇神天皇の時、武埴安彦の謀反を占い、また大物主神が神懸りするなど呪術を用いるなど巫女のような存在であった。

 伝承では大物主神の妻となったが、夫の朝の姿がヘビであることに驚き悲鳴をあげると大物主神は「私に恥をかかせた」と怒り三輪山に帰ってしまった。姫は、このことを嘆き悲しみ自分の陰部を箸で突き死んだ。人々は姫のために纒向に壮大な箸墓古墳を作った。この墓は、昼は人々が作り、夜は神が作ったという。この話は『日本書紀』にのみ書かれていて『古事記』にはない伝承ではあるが、史実として認められる話ではない。もし倭迹迹日百襲姫命が御間城入彦の入畿以前に存在した原始大和王権のシャーマン的な存在であったとしても、その死が纒向の中心地に壮大な墓をつくるほど重大事であったとは思われないのである。また、この倭迹迹日百襲姫命の話が卑弥呼の姿を連想させる話でもあるため、邪馬台国畿内説の立場の多くの人が箸墓古墳を卑弥呼の墓とする見解を出している。

 しかし、これまで述べてきたように卑弥呼の死は240年代であり、崇神天皇の時代とかけ離れていることや、倭迹迹日百襲姫命の記述は女王卑弥呼の存在状況と合わないことは明白である。卑弥呼後の台与の墓とする説もあるが、卑弥呼、台与に相当する女王としての存在が『記紀』の中に見当たらず、無理がある。

 箸墓古墳の築造時期については、3世紀末か恐らくは4世紀前半のころと見られており、時代的にはまさに御間城入彦の時代と重なるものである。森浩一著『記紀の考古学』によれば、纒向にある盟主墳の中でその築造の古い順にいえば、箸墓古墳、渋谷向山古墳(景行陵)、行燈山古墳(崇神陵)と言えるとし、通説と違い箸墓古墳を崇神天皇陵、渋谷向山古墳を垂仁天皇陵、行燈山古墳を景行天皇陵とする可能性を指摘している。箸墓は纒向地内の最大の古墳であり時代も合うので、これを御間城入彦の陵とするのは自然な見方である。

 森氏はさらに、『日本書紀』の壬申の乱の記述に天皇陵を意味する「箸陵」の表現のあることから、箸墓こそ大和王権の始祖王の古墳である可能性が強いとしている。また和田萃(あつむ)氏も壬申の乱の記述からこの箸陵について、「倭迹迹日百襲姫命以外のある天皇の陵とする見方が存在していたのかも知れない。箸墓古墳は3世紀末の巨大古墳であり最初の王墓である可能性が強い。その被葬者を、実在した最初の王、御間城入彦と結びつけても何ら矛盾はないものと思われる」と述べていることも紹介している。(森浩一編『日本古代・中世の陵墓』)


 『日本書紀』の記述にある御間城入彦の陵を山辺道上陵とする記事や、倭迹迹日百襲姫命と箸墓古墳の由来の記述などとは合わないが、実態の歴史の観点で見ればもっと議論されてよい仮説であり、私もこれを支持したい。ただし、箸墓古墳の築造は、4世紀前半頃と見ている。私は卑弥呼が魏からもらった「親魏倭王」の金印はミマキイリヒコによって畿内に持ち込まれた可能性あると思っている。将来箸墓古墳が発掘される日が来たとき何が明らかになるか、楽しみである。また、箸墓古墳の「箸」については、伝承にある箸で陰部を突く話からついたと見られているが、所在地は桜井市の箸中という地名であり、その後多くの古墳の造営に関わった土師(はじ)氏との関係にも着目したいと思っている。

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