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第14章 活目入彦(垂仁天皇)の時代

活目入彦と渡来人

 御間城入彦(ミマキイリヒコ)に始まる大和イリ系王権は、先住の初期三輪王権の勢力と、争いや懐柔を重ねながらその統治地域を広めてきたが、投馬国王であり九州吉備連合のリーダーとして畿内に新王権を作り上げた偉大な御間城入彦の死は、その王権に大きな動揺をもたらしたものと想定される。まだ旧来の勢力の強い影響を受けざるを得ない状況に加え、支配地の拡大に伴うさまざまな抵抗の中で後を継いだ活目入彦(イクメイリヒコ・垂仁天皇)の王権は、決して強固なものではなかったと考えられる。

 『記紀』では天皇系譜は継承されているが、私は二代続いたイリ系王権は、活目入彦(イクメイリヒコ)のあと弱体化し、新興の九州タラシ系の王権に作為的につながれたと見ている。この点については後に詳しく述べることにしたい。

 『日本書紀』よれば、活目入彦は御間城入彦と御間城姫の間に生まれ、都を纒向の珠城宮(たまきのみや)に定めたとある。『古事記』では師木の玉垣宮とあるので、纒向の磯城に都を定めたようである。活目入彦の時代の出来事について、まず『記紀』を検証してみよう。

 『日本書紀』には活目入彦の代についていろいろな記述があるが、そのなかで注目すべきは渡来人についての記述である。御間城入彦の代の末期に、任那(みまな)国が蘇那曷智(ソナカチ)を派遣して朝貢してきたという記事がある。その蘇那曷智が、活目入彦の代になってから「国に帰りたい」というので赤絹百匹を持たせて帰国させたところ、途中で新羅の人にこれを奪われたことにより、両国の争いはこのときに始まったという由来が書かれている。

 この話には別の説もある。崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が越の国の笥飯(けひ)の浦に着いた。そのためにそこを角鹿(つぬが・敦賀)と呼ぶようになった。「何処の国の人か」と訪ねると「大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)と言い、日本の国に聖王がおいでになると聞きやって来たという。穴門(あなと・長門)から出雲を回り大和にやってきたところ、崇神天皇の崩御にあい、垂仁天皇に使えることになった。帰国にあたり垂仁天皇は赤絹を与え、お前の国を先帝(御間城入彦)の名前を取り「任那」と呼ぶようにせよと命じた。ツヌガアラヒトの帰国後、任那の国名が決まったが、倉庫に入れた赤絹を新羅の兵に奪われ、これから両国の争いが始まったと記している。

 この二つの話は同じ出来事を伝える伝承であるが、渡来した人物の名前が違っている。さらに複雑なのは、また一説として、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)の渡来に関して別な話がいくつか記されていることである。ツヌガアラヒトが国にいたころ、黄牛に農具を背負わせて田舎に行ったところ、急に牛がいなくなった。邑の役人が食べてしまったことがわかり、その代価に村にお祀りしてある白い石をもらった。その石を自宅に持ち帰り寝室に置いていたところ、石は美しい娘に変身した。ツヌガアラヒトは大変喜んだが少し目を離したときに娘はいなくなってしまった。妻に聞いたところ「東の方に行った」というのでそのあとを追い、日本にやって来た。捜し求めたところ娘は、難波の比売語曽社(ひめこそのやしろ)の神になり、また大分の国東郡に入って比売語曽社の神になったという。

 また一説として、『日本書紀』は、天日槍(アメノヒボコ)渡来の話も記している。垂仁天皇の3年、新羅の王の子、天日槍が渡来し、七つの宝、すなわち羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、熊の神籬一具(ひもろぎひとそなえ)を持参し但馬の国の神宝としたという。

 また一説では、天日槍は播磨の国にいて、天皇が使いを出して尋ねると「自分は新羅の国の王子で、日本に聖王がおいでになると知りやって来ました」と言い、天皇は更に住みたいところを尋ねると、「各地をめぐり私の気に入ったところに住ませていただきたい」と申し出、許しを得た。天日槍は近江国、若狭国を回り但馬国にその居所を定めたという。やがてその地で妻を得て、その子孫に田道間守(タジマモリ)がいると記している。

 一方、『古事記』では、ずっと後の応神天皇の項に昔の話として、新羅の王子、天之日矛(アメノヒボコ)の渡来の話を記している。ここで不思議なのは、その渡来の理由が、先に紹介したツヌガアラヒトが娘を追ってやってくる話と酷似していることである。アメノヒボコの妻は、母の国に行くとして海を渡り、難波の比売語曽社に入り、阿加流比売(アカルヒメ)という神になったという。あとを追ったアメノヒボコは難波には入れず、但馬国に留まり、妻を娶り多くの子孫を誕生させた。その中に田道間守も記されているが、注目されるのは子孫の中の葛城之高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)という比売が息長帯比売命(気長足姫尊・キナガタラシヒメノミコト・神功皇后)の母として記されていることである。

 これらの話は、元々ひとつの話がいくつかの伝承となって記されていることであり、まとめるとソナカチとツヌガアラヒトとアメノヒボコは同一人物で新羅の貴人であること、活目入彦(垂仁天皇)の御世ごろ渡来したこと、その子孫に田道間守や息長帯比売命(神功皇后・応神天皇の母)がいることなどが記されていることになる。

 また、もうひとつ注目されるのは、ツヌガアラヒトが最初に穴門(長門)に着いたことである。ここは、神功皇后の夫である仲哀天皇が最初に都を作った長門の穴門の豊浦宮の地と一致することである。このことは、後の応神天皇の出自に関する重要事項を示唆しているとも言える。いずれにしても活目入彦の時代以降、有力な渡来系の勢力が九州や但馬、敦賀などの地域に流入して来て勢力を築き始めたということを想定させる記事である。このことは、イリ王権の消長や、タラシ系王権の誕生にに深くかかわってくることになったと考えている。

活目入彦の事績

 『日本書紀』の活目入彦時代の記述には、たくさんの逸話があるが、その中で特異なものをここで紹介してみよう。一つは最初の相撲の話である。相撲は角力とも呼ばれるが、その最初の角力が野見宿禰(ノミノスクネ)とされている。活目入彦の7年、当麻邑に当麻蹶速(タギマノクエハヤ)という天下の力持ちがいることを聞き、天皇は「これに並ぶものがいるか」と問うたところ、臣下のものが「出雲の国に野見宿禰という勇士がいます。この二人を組ませたらいかがですか」と言うので、さっそく使いを出し、野見宿禰を呼び寄せた。さっそく当麻蹶速と組ませて角力をさせたが、結果は野見宿禰の一方的な勝ち相撲で、当麻蹶速の土地を没収、野見宿禰はこれらを与えられたという記事がある。相撲の歴史の古さを思わせる逸話である。

 また、伊勢神宮の創建にかかわる話もある。天皇の25年、天皇は臣下の者に対して「先帝の御間城入彦天皇は聡明で聖人であった。また政治を行い、神々をよく祀られたため天下泰平であった。今、自分も神々をお祀りすることを怠ってはならない」と言われた。そこで天照大神(大御神・『記』)を豊鍬入姫命から離して倭姫命に祀りを託した。

 倭姫命は、天照大神の鎮座するふさわしい場所を求めて宇陀に行き、さらに近江の国に入り、東の美濃を回りやがて伊勢国に到った。そのときに天照大神は倭姫命に対して「この神風の伊勢の国は、常世の浪の打ち寄せる傍国の美しい国である。この国に居りたいと思う」と告げられ、そこで伊勢国に祠を立てることにした。そのために斎宮(いつきのみや)を五十鈴川のほとりに建てられ、これを磯宮(いそのみや)と呼んだと言う。磯は伊勢の古地名とも言われている。

 この話で思い出すのは、前章で紹介した『日本書紀』の崇神天皇の記事にある疫病の流行のため、大和大国魂と天照大神との御殿内の合祀をやめ、天照大神を豊鍬入姫命に託して大和の笠縫村に祀らせたことである。垂仁天皇も同様に天照大神を他所に祀らせたことになる。まさにさまよえるアマテラスということになる。このことは、イリ系王権のアマテラス祭祀権が強いものではなく、三輪山を中心とした出雲系の在来勢力(原始三輪王権)の大物主信仰の力を打ち破れず、逆に天照大神を伊勢に鎮座せざるを得なかったこと、更には伊勢神宮の創建には、イリ王権がかかわっていることなどを示していることになる。

 ただし現在の研究(永藤靖氏・『伊勢神宮』)では、アマテラスすなわち太陽信仰は各地にもあり、伊勢にはもともと地方神が存在していたが、天武・持統朝の時期(7世紀)に天皇家の王権の神としての最終的に伊勢神宮が成立されたとしている。

 伊勢神宮のホームページを見ると、《倭姫命が旅の果てに伊勢を宮地と決めてから、今年でちょうど二千年が経ちました。彼女の巡幸についての多くは、古代史の謎に包まれています。記録が残っている古い文献は、『日本書紀』、『皇大神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』『倭姫命世記(やまとひめのみことのせいき)』》などとあるので、『日本書紀』の記述が、その成立の歴史にそのままなっていることがわかる。

 特筆すべきことに、この時代に殉死の習わしが廃止になった記事がある。天皇の母の弟である倭彦命の死に際し、多くの近習の者が墓の周りに生き埋めされたが、その泣き声を聞いた天皇は、今後はこの習わしを止めるようにと言われ、皇后の日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)の葬儀に際しては、野見宿禰の言を入れて、出雲から土部(はじべ)百人を呼び寄せ埴輪を製作し、陵の周りに立てかけ殉死の人間の替わりとして殉葬をやめたとある。

 それまで日本に殉葬の習わしがあったのか不明であるが、『魏志倭人伝』にも卑弥呼の死に際し、奴婢百余人を殉葬したとあるから、そうしたことが行われたことは確実のようである。後世、古墳から埴輪が出土するのもこうした経緯があったとするとわかり易いことになる。

 また、『日本書紀』には崇神天皇が「河内の狭山の田園は水が少ない」と述べられ池や溝を掘ることを指示し、依網池や苅坂池、反折池を造ったと言う記録があり、垂仁天皇は、河内に高石池や大和に狭城池などいくつかの池を造ったという記事もある。古事記では崇神天皇が依網池、酒折池、垂仁天皇が血沼池、狭山池、日下の高津池などを造ったという記事があり、この時代、農業のための灌漑池の構築が進んだことを記している。

 ただし、森浩一氏の前記書の中に、狭山池の調査のことが書かれており、堤の築造時期に人為的に敷かれた草や木の腐った堆積を年代測定したところ、580年ごろという結果が得られたという。実際の築造は6世紀後半から7世紀にかけてのもので、『記紀』の記述とはかなりの年代差があるとして、崇神、垂仁紀の記述に疑問を呈している。森氏は「崇神・垂仁の時期にヤマト王権の基礎づくりが行われたという理念が『記紀』の編纂時にあって、それによって狭山池の構築の文献上の年代が決定されたとみてよかろう」と述べている。

 光谷拓実氏も、『最新考古学発掘情報と記紀』(歴史読本)のなかで、狭山池の発掘調査の詳細についての報告のなかで「狭山池の築造は4世紀代ではなく、7世紀初めであることが確実になった。このことから狭山池と河内平野の4世紀代の大開発と結びつけてきた見方は、否定される結果となり、実際には聖徳太子の時代まで下がることが明らかになった」と述べている。

 こうした諸説話は、森氏の言うように、たまたまこの時期に合わせて記述されたと見て間違いないと思う。垂仁天皇の時期にイリ系王権は事実上衰退に向かうのだが、万世一系の歴史の記述とすると崇神天皇以後のこの時期、さまざまな出来事がありこの王権が安定期に向かうことを示す必要があったと見るのが正解であろう。『記紀』の編纂が意図的な部分に注意していけば、逆に真実が見えてくることもある。


イリ系王権の後継者

 私は、この王権を御間城入彦(ミマキイリヒコ・崇神天皇)、その後を継いだ活目入彦(イクメイリヒコ・垂仁天皇)、さらにその子五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)の三代で終わる王権であったと考えていて、その名前にイリがつくためイリ系王権と呼んでいる。イリは前述したように纒向に入ったイリ王との意味である。『記紀』では、活目入彦(垂仁天皇)の後は大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ・景行天皇)につながれているが、ここに大きな謎があると思っている。

 つまり、本来の後継者である五十瓊敷入彦命が抹殺されてイリ系統が中断し、新たなタラシ系の系統につながれた可能性が高く、垂仁までのイリ系王権と景行からのタラシ系王権に断続性を感じるのである。ちなみに『記紀』では、大足彦忍代別(オオタラシヒコオシホワケ・景行天皇)のあとは稚足彦(ワカタラシヒコ・成務天皇)、足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀天皇)、さらには息長帯比売命(オキナガタラシヒメ・(神功皇后)とタラシ系の人物が続いており、その活動場所も九州に集中している。明らかに系統の交代を暗示していると見るのが自然である。ここで、活目入彦の後継者について考えてみよう。

 『日本書紀』によれば、活目入彦は最初に狭穂姫(サホヒメ)を皇后とされ、誉津別命(ホムツワケノミコト)が生まれたが、この御子は言葉を言えなかった。30歳になってから、あることがきっかけになり話すことが出来るようになるが、影が薄い皇子である。皇后の狭穂姫は兄の狭穂彦王の反乱事件に巻き込まれ、兄とともに死を迎えてしまった。天皇は、次に丹波の5人の女を迎え入れ、一番上の日葉酢姫(ヒバスヒメ)を皇后とされ、日葉酢姫は三男二女を生んだ。第一子が五十瓊敷入彦命で第二子が大足彦命(景行天皇)であった。他にも多くの御子がいるが、この二人を除くとほとんど記述が無いため、この二人の行動について検討してみたい。

 活目入彦天皇の治世30年の時、天皇は二人の兄弟に対して「お前たちの願うものは何か」と問いただしたところ、兄の五十瓊敷入彦命は「弓矢を得んと思う」と答え、弟の大足彦命は「皇の位を得んと思う」と答えたため、天皇は「その情のままにせよ」といわれて、五十瓊敷入彦命には弓矢を、大足彦命には「必ずわが位を継げ」といわれて大足彦命の後継が決まったとある。

 実際には狭穂彦王の反乱など厳しい状況にある活目入彦にとって、頼もしい後継者は五十瓊敷入彦命のほうだったはずで、奇妙な後継者の決定記事である。実際これ以降、五十瓊敷入彦命の行動は、天皇の命を受けた重要な事柄が描かれているが、大足彦命については皆無であり、後に皇太子に立てたとあるのみである。


 天皇の35年、天皇は五十瓊敷入彦命を河内国に派遣して、高石池、茅渟池(ちぬのいけ)を造らせた。また倭(やまと)の狭城池(さきのいけ)、迹見池(とみのいけ)を造るとともに諸国に池や水路溝を造らせ、農業の発達を図ったとある。こうした工事の信憑性、時期については前項で疑問があることを述べたが、注目すべきはこうした工事の指揮を五十瓊敷入彦命にさせていることである。このことは、活目入彦の実際の片腕となって働いているのは大足彦命ではなく五十瓊敷入彦命であったことを示している。

 さらに五十瓊敷入彦命は、石上(いそのかみ)神宮の創建にも深くかかわっていることが記されている。五十瓊敷入彦命は茅渟の川上宮において剣一千口(川上部)を造らせ、石上神宮に納めたこと、天皇は五十瓊敷入彦命にこの神宝を掌ることを命じたこと、また一説によれば、このとき盾部、玉作部、神弓削部など十の品部(とものみやっこ)を五十瓊敷入彦命に賜ったことなどが記されている。こうしたことで五十瓊敷入彦命は、石上神宮の創建にかかわり、後にこの神宮を治めることになる物部氏との関係もあったことが記されている。

 これらのことを考慮すると、五十瓊敷入彦命こそまさに垂仁天皇の名代としての活躍ぶりであり、その後継者にふさわしいことが思われ、反面、大足彦命については、大和地方にその活動の痕跡が無く、後継選びの記事とあわせるとその存在が極めて薄いと言わざるを得ないのである。さらに『記紀』の中では、垂仁天皇の後継天皇となった大足彦命(景行天皇)の事績については、なぜか九州とその近辺の山口県付近に集中しており、その子である日本武尊(ヤマトタケル)、さらにはその子になる仲哀天皇も同じく西日本に活動の本拠を置いており、九州方面の色が濃く反映している。

 こう考えると、大足彦忍代別に始まるタラシ系の王権は、実は九州近辺にその根拠をもつ王権であり、後に畿内進出して大和朝廷の成立にかかわり、後の『記紀』の編纂時に万世一系の系図の中につながれた可能性が高いと言えるのである。その繋がれた部分がまさに活目入彦から大足彦命への継承記事なのではないか。そう考えると、実は後継者にふさわしかった五十瓊敷入彦命がなぜ抹殺されてしまったのか、理解しやすくなる。

 私は、御間城入彦が纒向に築き、活目入彦が継承したイリ系王権(大和イリ系王権)は、その第一子五十瓊敷入彦命に実際は継承されるが、命の死で徐々に弱体化し、畿内地方は混乱の時期に入ったと考えている。そのことは、纏向遺跡が4世紀半ば以降衰退期を迎えることと整合する。しかし、実際は九州方面にあったタラシ系の王権(九州への渡来系勢力と邪馬台国の残存勢力など)が後に畿内に進出し、オキナガタラシヒメ(神功皇后)からホムタワケノ尊(応神天皇)に託され、その系譜(大足彦・景行天皇が最初)が『記紀』編纂時に垂仁天皇の後継者として後に繋がれたと見ている。そう見ると、前に記した狭山池の築造記事など、史実に反して『記紀』がイリ系王権の安定性について記している理由も作為的な記事として見えてくるのである。ただし、そうしたタラシ系王権が、九州からそのまま畿内に進出したのかどうかについては、疑問もある。それは仲哀天皇の死や神功皇后と武内宿称との関係などで、王権の継承が変わった後の畿内進出だったのではないかという見方である。このことについては後に詳しく検討したい。

 『記紀』に奇妙な話もある。田道間守(タジマモリ:記では多遅間毛理)が垂仁天皇の命を受け、常世の国に「非時の香菓」(ときじくのかくのみ・橘)を求めて旅に立ち、ようやく入手して帰った時、天皇はすでに没していたため、田道間守は悲歎して自殺したと『日本書紀』にある。『古事記』では太后に半分献上し、残りを垂仁天皇の陵の前に献上して自殺したとある。

 坂田隆氏は、その著『卑弥呼と倭姫命』のなかで、「田道間守が垂仁天皇に復命できなくとも、垂仁天皇の次の天皇に復命することは可能であるし、義務でもある。それなのに、田道間守は次の天皇に復命せずに自殺してしまったのである。(中略)なぜ田道間守は垂仁天皇の次の天皇を無視したのか。不審である。」と述べ、やはり垂仁天皇と景行天皇との間に断絶があり、景行天皇は九州の人物であるとしている。坂田氏は、タラシ系の諸天皇の実態を高天原神話に登場する人物に当てるなど、独自の鋭い視点で古代史を解明している論客である。また、古田武彦氏も九州王朝説を唱え、景行天皇を九州の人物としている。

 多くの謎を秘めた大足彦忍代別(景行天皇)の実体と九州タラシ系王権の可能性について、次章で詳しく検討することにしたい。

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