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第15章 タラシ系王権

万世一系への疑問

 イリ系王権からタラシ系王権への変遷は、『記紀』では一切触れられていない。もとより『記紀』は、万世一系の系譜として皇位の継承が当たり前のようになされているが、これまで述べてきたように、それは決して最初から系統立てて継承されたものではない。特に第十代崇神天皇から第十五代の応神天皇までの系譜は疑問が多い。諸氏の研究も各論あって通説も定まっていない状況である。各天皇の実在性への疑問、王朝交代への疑問などさまざまである。

 『古事記』は上巻、中巻、下巻の三部構成となっており、それぞれ上巻が宇宙の初めから日向三代まで、中巻が神武天皇から応神天皇まで、下巻が仁徳天皇から推古天皇までとなっている。上巻に記された事柄は高天原を中心とした神々の話であり、下巻に書かれた事柄は、ほぼ実在とされる天皇を中心とした人代の話であることにほぼ異論がないが、神武天皇から応神天皇までの中巻に書かれている事柄が、多くの解釈を招いているわけである。第十代の崇神天皇以前の天皇の実在を否定する説や、古事記中巻に書かれたことは本来葦原中国の神々の話を天皇の話に置き換えられたものとして、その間の全天皇の実在を否定する説もある。

 よく知られた説として、水野祐氏の三王朝交替説がある。崇神天皇から始まる古王朝、応神、仁徳天皇から始まる中王朝、継体天皇から始まる新王朝の交替があり、特に応神、仁徳天皇から始まる中王朝を河内地方に展開したため河内王朝と呼び、今でも多くの支持を集めている説である。古田武彦氏は、九州王朝の存在を主張し、畿内大和王朝中心の史観で書かれた『記紀』の中に、九州王朝の事柄が後に組み入れられたとしている。前章で紹介した坂田隆氏も、景行天皇に始まる九州景行王朝の存在を提起している。

 私も、タラシ系王権の存在を九州に求めている一人であるが、ここで、この「古代史ロマン」で書いてきた天皇系譜、大和朝廷にかかわることを改めて整理してみよう。私は、王朝や朝廷、天皇という言葉、称号は実体として倭国全体を統治する体制、すなわち律令制などがが出来て初めて使う言葉と考えているので、意識して王権、大王という言葉を使ってきた。それではいつの時点で倭国全体を統治する天皇制国家体制が出来たと見るのが妥当かというと、やはり、律令制度が築かれていく7世紀から8世紀にかけての天智・天武天皇の頃かと思っている。しかし、その天皇制の真の系譜となる系統は、応神・仁徳天皇の代から始まったとも見ているので、この応神天皇の代から実体としては大和朝廷が始まったとも見ている。このことは後で詳しく述べることとして、それ以前の王権の実体について改めて要約してみたい。

 唐古・鍵遺跡などに見られるように、弥生末期の大和地方は米作など農業の発達した形跡はあるが、大陸との交流はあまり見られずむしろ後進地域であった。200年頃以降、丹後や出雲、吉備、九州などの先進地から畿内大和地方に多くの人々が移住してきて、三輪山周辺、纏向地方などに定着していった。これらの勢力はやがて出雲の大物主神を祀り、三輪山信仰を作り上げ、3世紀の半ば頃から纏向の地に初期古墳を作り始めるなど次第に権力集団を形成していった。この勢力を、私は初期三輪王権と呼び、『記紀』に記されている九代までの天皇に相当するような大王たちが存在していたものと見ている。それらの中の代表的な人物が神武天皇東征(実際は投馬国王で後の崇神天皇)に協力したニギハヤヒであり、また抵抗したナガスネヒコらであったろうと思われる。それらは無論系統だてたものではなく、むしろ群雄割拠の混迷の中での王権であり、その勢力範囲は大和地方に限定されたものであったと思われる。

 一方、大陸との交流を盛んにしていた九州地方では、邪馬台国を中心に伊都国、投馬国などが邪馬台国連合を形成し、鏡や鉄器など大陸文化を取り入れ、先進地を形成していた。瀬戸内海地方もその海路を使った交通網を生かし、早くから開けていた。こうした状況の中で、魏との関係、狗奴国との争い、卑弥呼の死と邪馬台国連合内の争いなどから投馬国がその主導権を握り、やがて魏の滅亡、不穏な半島情勢、国家意識の高まりなどから、投馬国王は国家中原の畿内への進出を実行するに至った。投馬国王は吉備の海洋勢力との連携を図り、邪馬台国連合を率いて九州から畿内に進出した。このときの記憶が、後に『記紀』に神武天皇の東征説話として描かれた元になったものである。

 この勢力は、大和の纏向地方に入り、投馬国王は纏向に入った大王、すなわち御間城入彦(崇神天皇)と呼ばれ、初期三輪王権などの旧勢力を制圧や懐柔をまじえながら新たな王権として大和イリ系王権を築き上げた。大和に九州の地名などが多数持ち込まれたのもこの時である。この後、この王権は実体として倭国統一王朝となる応神、仁徳天皇からの大和朝廷につながるのかどうかが、今まさに取り上げる課題である。一般的には崇神天皇から景行天皇までを大和王権と呼び、景行すなわち大足彦忍代別を大和の人物としているが、ここで提起しているのは崇神、垂仁、景行、成務、仲哀と続く王権のうち、崇神、垂仁を纏向にあったイリ系王権、景行から仲哀までを九州に起こった新たなタラシ系王権、それも後に『記紀』に万世一系の元に繋がれた王権と見る見方である。大足彦忍代別がその謎の中心にいる。本格的な大和朝廷の成立を前にした新たな混沌の中で、九州タラシ系王権の祖とみられる大足彦忍代別(景行天皇)の実体について、次に検討してみよう。

不可解な景行天皇の記事

 崇神,垂仁、景行天皇の三代は、三輪山付近にその宮殿をかまえ、陵もその近辺にあるとされ、三輪王朝、または三輪王権等とも呼ばれている。しかし、宮内庁の指定によれば、崇神天皇陵は天理市柳本町にある行燈山古墳、景行天皇陵は天理市渋谷町にある渋谷向山古墳とされているが、なぜか垂仁天皇陵だけは近鉄橿原線の尼ガ辻駅の西にある宝莱山古墳に比定され、一つだけ離れている。

 これは垂仁天皇陵について『古事記』には「菅原の御立野の中にあり」、『日本書紀』には「菅原の伏見陵に葬った」とあるためである。しかし、不自然な点は否めない。古墳の比定はもとより不確定な要素が多い。日本の古墳にはその埋葬者を示す墓標はなく、埋葬者を現す古墳名も定まっていない。

 現在天皇陵に比定されている古墳も、有名な仁徳天皇陵や応神天皇陵も含めて確実なものはないと言って過言ではない。それは、天皇および皇族の陵墓に指定されている古墳が宮内庁の管理のもとにあって発掘調査が出来ないことに加え、そもそもその指定に明確な根拠が無いためである。『記紀』にある記事を元にその参考地にある古墳の中から、伝承や規模などを考慮して選んだに過ぎないからである。

 前記した纏向遺跡最大の箸墓古墳も、倭迹迹日百襲姫命の墓とされているが、当時の政治的な状況を考えると、むしろ纏向の王となった御間城入彦(崇神天皇)の陵である可能性があることについても既に述べた。そう考えていくと、『記紀』にある垂仁天皇の陵についての記事についても疑ってかかるべきかも知れない。

 次に、この三代に関わる和風諡号にあるイリタラシについて考えてみよう。崇神天皇は御間城入彦(ミマキイリヒコイニエ)、垂仁天皇は活目入彦五十狭芽(イクメイリヒコイサチ)でともにイリがつく。ところが垂仁の子である景行天皇(大足彦忍代別・オオタラシヒコオシロワケ)にはイリがつかないが、その他の子には、前章で垂仁の後継者にふさわしいとして取り上げた五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)や稚城瓊入彦命(ワカキニイリヒコノミコト)などイリがつく子もいるのである。また景行天皇の子にも五百城入彦命(イオキイリヒコノミコト)、五百城入姫(イオキイリヒメ)、高城入姫(タカキイリヒメ)などイリのつく子もいるため、通説では景行天皇本人はイリがつかなくとも、その兄弟、子にイリのつくのがかなりあるため、その宮殿、陵の場所と合わせてやはりイリ系の天皇とされ、崇神、垂仁、景行の三代を三輪王朝、または三輪王権等と呼んでいる。

 しかし、今まで見てきたように、垂仁天皇の陵だけかけ離れていること、垂仁天皇の後継者にふさわしかった五十瓊敷入彦命
に代わってあまり存在感が薄く、しかもイリのつかない大足彦忍代別が後継者となっていること、さらにもっと重要なことには、景行天皇の後を継ぐ成務天皇も和風諡号が稚足彦(ワカタラシヒコ)、その後を継ぐ仲哀天皇(日本武尊の子)も和風諡号が足仲彦(タラシナカツヒコ)となっていてタラシがつくこと、さらにその天皇たちの活躍の場が、大部分九州など西日本であることなどを考慮すると、どう見てもこの大足彦忍代別以降の天皇が、三輪王権としてそのまま大和朝廷を継承したとは思えないのである。『記紀』の系図にいかにイリ系統の人物が含まれていても、肝心の後継天皇本人の名前にイリがつかないのは、やはり景行天皇(大足彦忍代別)は三輪王権の人ではなく、垂仁天皇の実際の後継者とは別の系統、すなわち西日本のタラシ系統に属する人物だったと考えると納得がいくのである。

 それでは、『記紀』にある景行天皇の記事について検証してみよう。まず『古事記』では、纒向の日代の宮に宮殿を定めたこと。さらに皇后や多くの妻達と80人を数えるその子達の系譜がある。その中で吉備の臣の祖先である若建吉備津日子の娘、伊那昆能大郎女(イナビノオオイラツメ)を妻として生んだ御子の中に大碓命(オホウスノミコト)、小碓命(ヲウスノミコト)がいるがこの小碓命は後のヤマトタケル(日本武尊・倭建)である。また八坂之入日売命に生ませたのが稚足彦、のちの成務天皇である。

 記事としてはこのあと、朝廷の他を耕す田部の民を定めたこと、食事のことを奉仕する膳の大伴部、屯倉を定めたことなど、坂手の池を作ったことなどが簡単に記されているのみで、あとの大半はヤマトタケル(倭建)の九州熊襲征伐の記事と、それを終えた後の東国征伐の記事で占められている。


 一方、『日本書紀』ではやはり宮殿を纒向の日代の宮に定めたこと、播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)を皇后として双子の御子、大碓皇子(オオウスノミコ)、小碓尊(オウスノミコト・日本武尊)を生んだこと、影姫を娶って武内宿禰(タケウチノスクネ)を生んだこと、さらに天皇は美濃に行き、八坂入媛との婚姻話があり、その間に稚足彦や多くの子達を生んだことなどが記されている。

 その後天皇の12年、熊襲が背いたので天皇自ら筑紫に出向いた記事が続く。周防から九州に入り、この地の賊を征伐、その後大分で土蜘蛛を退治し、日向から熊本に出かけて熊襲征伐を成し遂げた記事が詳細に続き、その後大和に帰ったとしている。しかし、再び熊襲が背いたので今度はヤマトタケル(日本武尊)を九州に派遣して熊襲征伐をさせ、さらにその後も東国の征伐をさせたのであるが、ヤマトタケルはその帰路、伊吹山で病に倒れ死んでしまった。

 天皇は、後にヤマトタケルの足跡を偲びたいと伊勢から東海道、上総国まで巡行したとある。その後坂手の池を作ったことや、田部や屯倉を作ったことなど古事記と同じ記事があり、やがて近江国に高穴穂宮を作ってお住みになり、その地で亡くなったこと、陵は山辺道上陵にあることなどが記されている。

 これらを比較してみると、『古事記』ではその大半がその子ヤマトタケルの熊襲征伐と東国征伐の記事であるのに対し、『日本書紀』ではヤマトタケルに先立って景行天皇自らの詳細な九州征伐記事と、ヤマトタケルの死後に行った東国巡行記事が簡略に加わっていることが注目される。

 これまで『記紀』の記事については何らかの史実があり、それらが投影、脚色されて出来上がったものと解する立場から検証してきたが、その立場からすれば、『日本書紀』にある詳細な景行天皇の九州征伐記事と簡略な東国巡行記事に注目せざるを得ず、またなぜ『古事記』が記載しなかった点も気にかかる。また、ヤマトタケルの九州征伐と東国征伐記事の中味も、前者が詳細なリアリティを感じさせる記事なのに対し後者は牧歌的な歌と地名説話に終始している点も何らかの作為を感じさせる。次に景行天皇の九州征伐記事の詳細について検証してみよう。

 この地には、景行天皇の熊襲征伐の際に行宮が築かれたことに由来する京都郡、台与(とよ)の名を連想させる地名(豊前・豊後・豊津町など)が多く残り、何よりも宇佐神宮の存在も注目される。後にも記すが、景行天皇から神功皇后までの九州内での存在を推定しているので、仲哀天皇のタラシナカツヒコという名前も、豊前の中津市と関連があるかもしれない。 

景行天皇の九州征伐

 景行天皇(オオタラシヒコ)の九州征伐記事については、『古事記』に記載がなく、『日本書紀』のみに詳細に記載があること、さらにヤマトタケルの死後に行った東国巡行の記事が『日本書紀』に簡略に記載されていることを前項で述べたが、『記紀』の記載では、かなりの違いがあることも多い。たとえば武烈天皇の項では、『古事記』は何も書いていないが『日本書紀』には多くの民を残虐な刑に処すなど、残虐性を好んだことなどが書かれている。全体的に『古事記』は天皇の系図と歌や美辞麗句的な記載が多いが、『日本書紀』にはいわばマイナス記事とも言えるリアリティを感じさせる記事が意外に多く書かれている。

 『古事記』は天皇家の私文書的な記載で、天皇支配の正統性をその根底に置いているのに対し、『日本書紀』には史実を反映した国史を記述していこうとする姿勢が見える。ただし、ともに万世一系の思想を貫いており、そのために不自然な編纂になった所や、作為的な記載が多くあるのも事実である。こうした観点から景行天皇の九州征伐記事を検証してみよう。

 『日本書紀』によれば景行天皇は、即位後の12年、九州の熊襲が背いたので周防の娑麼(さば・山口県佐波)に自ら向かった。天皇は南方を眺めて「南の方に煙が多くたっている。賊が居るに違いない」と言って物見を出すと、そこには神夏磯媛(カムナツソヒメ)という一国の女酋長が多くの手下と共に居た。神夏磯媛は天皇が来たことを聞き、賢木(さかき)に剣や鏡(八咫鏡)などを掛けて船の先につけてやって来て恭順した。そして、他に宇佐の川上に鼻垂(ハナタラシ)という賊、御木の川上に耳垂(ミミタラシ)という略奪を繰り返す賊がいること、高羽の川上に麻剥(アサハギ)という賊、さらに緑野の川上に土折猪折(ツチオリイオリ)という賊がいて、それぞれ要害後に多くの仲間を集めて皆天皇には従わないと言っているので討って欲しいと言った。

 佐波は山口県防府市周辺だが、その南に居たという神夏磯媛は船でやって来たことと、賊が居ると告げた地名はみな九州の豊前地方なので、神夏磯媛やこれらの賊たちは筑紫にいたことになる。そこで天皇は武諸木などを派遣して策略をめぐらし、賊たちをそれぞれ誘い出し皆殺してしまった。ついに天皇は筑紫に入り、豊前国の長峡県(ながおのあがた)に行宮(かりみや)を立ててそこを京(みやこ)と名づけた。長尾とは行橋市にある地名であり、一帯は現在でも京都郡(みやこぐん)と呼ばれている。

 天皇は、さらに碩田国(おおきたこく・大分県)についたが、そこには土蜘蛛と呼ばれる賊たちが多くいて、天皇自ら土蜘蛛退治に向かうことになる。戦いの中で打猿という土蜘蛛には苦戦し、一時は逃げ帰るような状況であったが、やがてこれらも討ち果たした。天皇はさらに進めて日向国に着き、高屋宮という行宮を建てた。

 ここで話がそれるが、神武天皇の東征説話では、天孫降臨の地である日向から出発したことになっており、もし事実なら、後の天皇が最初に自らのルーツである地を訪れたのにもかかわらず、『日本書紀』には何の感慨めいた記載もない。このことは、神武東征の話(実際は御間城入彦入日子・崇神天皇の東征の出発地が日向からではなかったの
か、または景行天皇との不連続性を暗示しているように見える部分でもある。

 日向の高屋宮に留まった天皇は、いよいよ熊襲を討つことを命じ、まず襲の国にいる厚鹿文(アツカヤ)、サ鹿文という熊襲征伐に策略をめぐらした。その娘たちを欺き味方につけ、征伐することに成功した。この間、高屋宮に6年滞在し現地の御刀媛との間に豊国別王子を生んだ。熊襲を平定した天皇は、子湯県(こゆのあがた・宮崎県子湯郡)に出かけた。そのとき日の出の方角に向いて詠んだとされる歌の中に、「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがきやま こもれる やまとしうるわし・・・」の一説を含んだよく知られている「国しのびの歌」がある。しかし『古事記』ではこの歌はヤマトタケルが東国征伐に出かけた帰路、能煩野(のぼの)で詠んだ歌とされている。

 その後、天皇は京に帰るために筑紫の国を巡行し、日向から熊県(くまのあがた・熊本県球磨郡)に行き、そこでさらに熊津彦兄弟を討った。邪馬台国時代の強力な対抗国であった狗奴国の地である。その後、水俣市付近から船で肥前地方に転進し玉名に着いて、その地の土蜘蛛を成敗した。火の国の地名説話、阿蘇の地名説話などの後、筑後の御木に着き高田行宮を設けたのち、八女を経て浮羽(福岡県浮羽郡)に到着した。『日本書紀』の記述はこの後19年、天皇は大和に戻られたとある。

 この景行天皇九州征伐記事には、京に帰ると言って浮羽を最終地にするなど多くの疑問点がある。これらを次に検証してみよう。

景行天皇九州征伐の疑問点

 『古事記』に無く、『日本書紀』にのみある景行天皇(大足彦忍代別)の九州討伐記事の中には数々の疑問点がある。まず問題とすべきは、崇神、垂仁と続いたとはいえ、まだ王権の確立が不安定であり、支配地域も近畿周辺に限られるような状況で、九州の賊が騒ぐからといって天皇自ら征伐に遠征し、7年間も大和の地を不在にすることは考えにくいと言うか、あり得ない話である。崇神天皇の代には、教化に沿わぬ周辺地域に四道将軍の派遣という記事があるが、天皇自らが出向いたわけではない。さらに言えば、大足彦には五十瓊敷入彦命という能力と弓矢に長けた兄王がいて、後継天皇の座も本来ならば難しかった状況であったはずで、長期にわたり大和を不在にすることは危険なだけでなく、王権の継承も難しくなるはずである。

 また、なぜ遠征で最初周防(山口県)に拠点を置いたのか。後に神功皇后の夫である仲哀天皇が最初に都を作ったのが長門(山口県)の穴門の豊浦宮であるが、この地と近接している。長門は、新羅からやってきたツヌガアラヒト(天日槍)が最初に到着した地点でもあり、邪馬台国連合の勢力をが畿内進出後には弱体化し、その後渡来系の人々が多数来ていた地域でもある。さらに、九州に入り周防灘に面した福岡の京都郡に京(みやこ)を定めたが、この地は同様に渡来系が多く入っていたところである。

 景行天皇は、日向で賊を退治してから京に向かおうとしてその後、肥後、筑後地方を回るのだが、その京とはどこなのか。大和の地なのか、それとも福岡の京都郡に定めた京のことなのか。大和であるならそのまま瀬戸内海を船で帰れば良いはずである。『日本書紀』の記事には、肥後で熊襲を退治した後、最終の滞在地が福岡県浮羽郡になっていてここから大和に帰ったとしている。浮羽は卑弥呼の邪馬台国の地である。

 しかし『豊後国風土記』には、景行天皇は浮羽から日田郡に行幸したとある。そうすると、日田を経由して京都郡に戻った可能性がある。日向から京を目指すとした記事や『豊後国風土記』を考慮すると、景行天皇は日向で賊を退治した後、肥後熊本に入り、旧邪馬台国の地から日田を経由して実際は京都郡に戻ったのではなかろうか。つまり、景行天皇の九州征伐記事とは、実際には大足彦という豊前周辺の地域に誕生した渡来系の新勢力が、九州地内の征伐をした話なのではないか。その話が景行天皇の記事に挿入された? そう考えると合点がいく記事がさらにある。天皇の軍が打猿などの土蜘蛛に苦戦し、天皇自ら攻め入り逃げ帰るという不自然な記事もある。また、日向の地を訪れた時に、本来なら先祖の降臨の地であり神武東征の原点である地にもかかわらず、何の感慨めいた記述も無かった話は既に述べた。    

 さらに、日向の地で天皇が詠まれたとされる「国しのび歌」が『古事記』では、ヤマトタケルが東国征伐の帰路、三重の能煩野(のぼの)で歌った歌になっていることや、『古事記』に景行天皇の九州征伐記事が欠落しているなどである。

 こうしたことを勘案すると、景行天皇すなわち大足彦とは、実際は九州の人物で、邪馬台国連合の畿内進出後の九州北部、山口地方など豊前や長門周辺地域に興った新たなリーダーであり、九州征伐記事とは、神夏磯媛を除き、狗奴国の後裔勢力である熊襲との戦いの記録である可能性が高いのである。従って征伐の出発地点も帰着地点も、豊前、周防地方になるのである。そう見ていくと、景行天皇の九州征伐の後、再度なぜヤマトタケルが熊襲征伐にあたるのかも新たな解釈が可能になる。

 つまり、ヤマトタケルは大足彦の息子であり、親子二代にわたって九州内の制圧に携わったのであり、『記紀』の東国征伐記事にあるヤマトタケルとは別人であるということである。当然大足彦もヤマトタケルの東国征伐の後を巡行したとする記事のある景行天皇とは別人である。さらに言えば、東国征伐や東国巡行の記事は、後に『記紀』の編纂時に、活目入彦(垂仁天皇)のあと衰退したイリ王権と、新たに九州に発生した大足彦に始まるタラシ系王権の系譜を繋ぐうえで、バランスをとるというか東西に遠征した記事にするために創作されたものと見ている。ヤマトタケルの東西の征伐記事が、かたや九州における熊襲征伐記事に詳細な内容があるのに対し、東国遠征記事が牧歌的な記事に終始すること、景行天皇の九州征伐記事に詳細な内容があるのに対して東国巡行記事が簡略なのは、すべてこのためであると考えられる。また、大足彦に続く天皇たちがタラシの和風諡号を持ち、その主たる活躍の場がなぜ九州方面に多いのかも謎が解けてくるのである。

 次に、この大足彦という人物は、どういう勢力の中から出現したのかということが問題になってくる。今後検討していかなければならないが、その後の応神天皇の出自までの状況を考えると、次のようなことが想定される。邪馬台国の東征後、一時さびれていた北九州一帯に、その後朝鮮半島からの渡来系海洋族の流入が続き、そうした新勢力の中から新たな権力集団が出現した可能性が高いと見ている。特に豊前や豊後地域を中心に新たな勢力の発生と、王権成立への動きとなっていった。無論、邪馬台国の残存勢力等との連携も進んだものと思われる。こうした中で発生したのが、オオタラシヒコ(後の景行天皇)・ワカタラシヒコ(後の成務天皇)・タラシナカツヒコ(後の仲哀天皇)などの、タラシ系一族による王権である。この勢力の伸長と新たな王権の発祥について、次章以下で詳しく検証してみよう。

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