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第18章 タラシ系王権と神功皇后

王権の系譜と成務天皇の謎

 景行天皇、すなわち大足彦命の九州征伐と、ヤマトタケルの熊襲征伐記事についてはすでに詳しく述べてきたが、ここから導かれる推論は、大足彦命は九州にいた人物であり、熊襲征伐記事にあるヤマトタケルと呼ばれた人物も、その子であって同じく九州にいた人物である可能性が高いということである。

 『日本書紀』によれば、景行天皇とヤマトタケルの事績は、その大半が九州地方に偏在しており、とくに景行天皇については、豊前の周辺から征伐記事が始まっていること、日向で約6年間も過ごしたこと、さらに浮羽から日田を経由して京(京都郡)を目指したこと(『豊後国風土記』)など、もともと九州にあった人物としか思えないような行動が多い。ヤマトタケルも、大和にいて東国征伐に向かった人物とは別人のようである。 さらに二人とも、九州内の土蜘蛛や熊襲をはじめとする在来の勢力との戦いに明け暮れている。大和の王権、すなわち天皇自らの制圧行動とは到底思えないことである。

 このように見てくると、この二人は、豊前辺りに発生した九州における新たな王権の祖であり、九州内における勢力拡大に奔走した人物達であると推定できる。『古事記』には景行天皇の宮は纏向日代宮(ひしろのみや)に置かれたとされているが、同じ宮が雄略天皇の代に書かれているため、後世に創作された宮であった可能性も高い。

 さらに
『記紀』における系譜を見れば、景行天皇や西国征伐のヤマトタケル、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后などもその活躍の場の大半が九州である。これらの人物たちも景行天皇に続くタラシ系王権にかかわった人物たちであった可能性が高い。(ただし成務天皇については、記述がほとんど無く、九州関連の記事も皆無であり例外的である。その理由はあとで述べる)

 したがってこれらの勢力は、オオタラシヒコ(景行天皇)を祖とする新興勢力で、後に神功皇后が武内宿禰(タケウチノスクネ)や誉田別(ホムタワケ)皇子とともに畿内に入ったと『記紀』に記されたまでの間、北九州周辺に存在したいわば九州王権のリーダーであったと推察される。

 オオタラシヒコが直接渡来系の人物かどうかは断定できないが、その可能性はあると思っている。しかし、渡来人がいきなり王権を作ったと考えるよりも、徐々にその勢力を増してきた渡来系の人々が、旧邪馬台国の後継勢力と手を結んでその中から出来上がった融合王権と見るのが妥当かと思う。こうした渡来系の新しい力が無ければ、落ち込んでいた旧投馬国、邪馬台国などの後継勢力から新たな王権の発生もないし、また、景行天皇の九州内征伐も京都郡から始まり、日向から肥後を回り浮羽に終わるなど、旧投馬国、邪馬台国の地域がその活動地域にあたることなどから、そうした融合が進んだことを示していると思う。景行天皇の九州征伐の冒頭に登場する神夏磯媛が、旧邪馬台国などの後継勢力、中でも台与の後継者であった可能性もあることは既に述べ通りである。

 次に、このタラシ系王権の系譜をたどってみよう。『日本書紀』によれば、稚足彦(ワカタラシヒコ・成務天皇)は、大足彦命(オオタラシヒコ・景行天皇)の子で景行天皇の46年に皇太子になったとある。播磨稲日大郎姫皇后(はりまのいなめのおおいらつめ)の子である大碓命、小碓命(ヤマトタケル)などと並んで、八坂入媛を后として生まれたとある。景行天皇の子たちについて『記紀』は必ずしも一致しないが、その数については80人と一致していて驚くほどの人数である。

 稚足彦(成務天皇)については、『記紀』ともに大和にいた天皇としているが、その事績記事に乏しく、わずかに国境を定めたなどの記録があるのみである。また子も無く、その存在感はほとんど無い。しかし『日本書紀』では治世60年で没年齢は107歳、『古事記』でも没年齢は95歳とあり、実年齢ではないにしろ実際は多くの事績を残したはずである。一体これはどうしたことであろうか。これには深い作為的なものがあるように思える。

 注目すべきは事柄が二点ある。一点目は稚足彦(ワカタラシヒコ)に子が無く、次の天皇である足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀天皇)は、ヤマトタケル(小碓命)の子としていることである。二点目は景行天皇の子である、稚足彦と同じ誕生日に武内宿禰も生まれたとある。『日本書紀』で稚足彦は後に即位後、武内宿禰を大臣として任命していることである

 一点目については、次のことを連想させる。すなわち成務天皇(稚足彦・ワカタラシヒコ)はにこれといった事績がないのは、その実際の出来事を西国征伐でのヤマトタケルの事績として盗用された可能性があるということである。これまで述べたように、『記紀』の編纂者たちは、ヤマトタケルという人物を作り上げ、畿内にあったイリ王権、すなわち崇神天皇、垂仁天皇と五十瓊敷入彦命の系譜と九州に起こった景行天皇の系譜を繋ぎ合わせた形跡がある。大和にあって東国征伐に出向いたヤマトタケルのモデルになったのは五十瓊敷入彦命であった。そうすると景行天皇のもとで熊襲征伐など西国征伐に出向いたヤマトタケルのモデルになったのは、誰であろうか。私はこれが稚足彦であった可能性が高いと見ている。

 『記紀』は二つの系譜を繋ぐために、ヤマトタケルの話を創作したが、実際は九州における景行天皇のもとで熊襲征伐を進めた稚足彦の話と、東国での死を招きイリ系王権の衰退を招いた五十瓊敷入彦命の話が繋ぎ合わされて、東西に活躍したヤマトタケルという一人の人物像に集約されたのである。自らの事績をヤマトタケルに奪われた成務天皇(稚足彦・ワカタラシヒコ)は、悲運にも『記紀』にその事績を重く記されること無く扱われてしまったのである。

 渡来系の勢力を中心として旧邪馬台国の残存勢力とも結んだ大足彦命(景行天皇)からはじまる九州タラシ系王権は、その後も順調にその勢力圏を拡大していったはずである。そうでなければ、その後の神功皇后、武内宿禰と誉田別皇子による畿内進出が達成されるはずがない。しかし系譜上は、景行天皇の後の成務天皇(稚足彦)は全く影が薄く、とても大足彦命の後を受けて九州内の制圧を続けたような痕跡が無いのであるが、成務天皇の実像が西国征伐記事に描かれたヤマトタケルだとすれば、納得がいくはずである。また、成務天皇には子が無く、次の仲哀天皇がなぜヤマトタケルの子であったのかも当然のこととして理解できるのである。

 次に二点目の武内宿禰については、やはり九州においての活躍から始まる人物であり、神功皇后の三韓征伐の話や畿内入りの中心人物である。この後の大和朝廷の成立に大きな役割を果たした人物であるが、『記紀』では、景行・成務・仲哀・神功皇后・応神天皇までの間、300歳前後まで生きたとされるなど謎の多い人物である。『日本書紀』では八代孝元天皇のひ孫として生まれたとあるが、成務天皇と誕生日も同一というのは、その系譜が神話的でなんとも気になる存在である。

 この武内宿禰と仲哀天皇、そして神功皇后にまつわる『記紀』の記事は、意図的に編纂された痕跡の最も多いところである。従って登場人物自体にも大きな謎がある。この後の応神天皇の畿内入りまでのことが古代史研究の上で最大の難関であり、大和朝廷成立の謎を解く大きな鍵を握っている部分である。次にこれらの人物像について迫ってみたい。

神功皇后と三韓征伐伝説

 神功皇后は、まさに伝説上の人物と言っても過言ではない存在である。仲哀天皇の皇后として天皇の死後、三韓征伐など天皇を上回る活躍をし、さらには子である誉田別皇子(応神天皇)を抱いて抵抗勢力と戦って畿内に凱旋、抵抗勢力との戦いに勝利し、誉田別皇子の摂政として69年間も天皇と同様な存在として活躍したとされている人物である。

 『日本書紀』の記述に沿って神功皇后の足跡をたどってみよう。神功皇后は父が気長宿称、母を葛城高額媛(タカヌカヒメ)といい、気長足姫(オキナガタラシヒメ・息長帯比売命)という和風諡号を持ち、その祖は母方が渡来人の天日槍に繋がるとされている。

 仲哀天皇は、最初、大中媛(オオナカツヒメ・大中津姫)を后として、香坂(カゴサカ)皇子と忍熊(オシクマ)皇子を生んだが、この後、気長足姫を皇后とした。天皇の2年2月、敦賀に出向き行宮を建ててそこに滞在することになった。ここは笥飯宮(けひのみや)と呼ばれるところで現在の敦賀気比神宮のことである。天皇は、その後紀伊を訪れていたが、熊襲の反乱を聞き、熊襲征伐に出発した。船で穴門(山口県)に着き、そこに穴門豊浦宮を建てて皇后を敦賀から招いた。

 8年に、筑紫に出向くにあたり伊都県主の先祖、五十迹手(イトデ)が船の舳先に八尺瓊(やさかに)と白銅鏡を吊るして出迎えに来て、天皇は筑紫の香椎宮に留まった。天皇は群臣に熊襲を討つ相談をされたが、その時神功皇后は神懸りして「なぜ熊襲を討つのか、海を渡ればもっと金銀財宝のある新羅がある。これを討てば熊襲も従うであろう」と神託を述べた。天皇は、高い山に登って大海を眺めたが、新羅は見えず「どうして大海の中に国があるか、なぜ新たな神がおられるのか」と疑問を述べると、皇后は神の言葉として「なぜ神を信じないのか、汝は国を治められない。今皇后は身ごもっているが、その御子こそ国を治めるであろう」と述べたという。天皇はなお信じられず熊襲征伐に出発したが不首尾に終わり、やがて病気になり亡くなってしまった。この部分を『古事記』では神のご神託を聞かない天皇は、勧められた琴を弾き終わると亡くなったことになっている。

 天皇の死は伏せられることになり、武内宿称が遺骸を穴門に移し、仮埋葬された。皇后はその後神を祀り、神の名を尋ねたところ「そのお心は天照大神にあり、取り行うのは底筒男・中筒男・上筒男の三柱(住吉三神)である」という神託を得た。その時、皇后は応神天皇を懐妊したとされているが、住吉三神と神功皇后をまつる住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』には、仲哀天皇が亡くなった晩に「是に皇后、大神と密事あり」と記し、神功皇后と住吉大神が夫婦の交わりを行ったと注を加えている。応神天皇の出生の秘密に関わる謎を秘めた話である。その後熊襲征伐を行い山門県では土蜘蛛、田油津媛を討った。肥前の松浦県に行き西方を討つ神託を得て新羅を討つことになった。

 全国から兵を集め、皇后自ら男装して武内宿禰と共に新羅征伐に出発した。その時、風の神が風を起こし、波の神は波を起こし、海中の魚はすべて浮かんで船を助けたなど神話的な話が続き、やがて新羅を征服、人質と財宝を手に入れた。これを聞きつけた高麗、百済の王はとても勝つことは出来ないと知り、ともに降伏し以後の朝貢を誓った。そこで内官家屯倉(うちつみやけ)を造って以後の拠点とした。これが神功皇后の三韓征伐の要旨である。

 事実とは思えない描写であるが、ただ三韓側の『三国史記』の『新羅本紀』などに393年から400年にかけて倭人が攻め入ってきて新羅城に満ち溢れたという記録があること、また「広開土王碑文」には 399年、百済が倭と通じ、倭人が新羅の国境に満ちあふれていることを伝えていて、「百済と新羅はもともと高句麗の属民であり、朝貢をしてきた。しかし倭は辛卯の年(391年)海を渡って来て、百済、新羅を破りこれを臣民とした」という金石文記述もあるため、こうした事実があったとすれば、この神功皇后伝説はこれらの事柄を念頭に書かれた可能性もある。ただし『記紀』は神功皇后の時代を201年から269年ごろに想定して卑弥呼と重ねているので、三韓の記録にあるような出来事を語っているわけではない。


 三韓征伐から帰った神功皇后は臨月を迎えており、九州に戻って誉田別皇子(応神天皇)を産んだ。その地を宇美(宇美町)と名づけたという。神功皇后は、その後百寮を率いて穴門の豊浦宮に戻り、天皇の遺骸を納めて海路大和へ向かうこととなった。

 『日本書紀』によれば、大和に向かった神功皇后一行に対して仲哀天皇と先の后、大中媛の御子である香坂皇子、忍熊皇子が抵抗したことを記している。東国の兵を集めて陣を張り、針莵餓野(とがの)という所で神意を占うと、赤いいのししが急に飛び出してきて香坂皇子を食い殺してしまった。兵士たちは皆おじけづき、忍熊皇子はここでは勝ち目が無いとして住吉に退却した。武内宿禰は皇子を抱いて紀伊水門に回りこみ、忍熊皇子軍は神功皇后が住吉に迫ると宇治に退却して陣取った。武内宿禰と武振熊は数万の兵を率いて山城に進出し、忍熊皇子軍と対峙した。そこで武内宿禰は一計を案じた。武器を隠したまま和平を装い一気に皇子軍を粉砕し、忍熊皇子は逃げ切れずに川に沈んで自害した。

 一方、『古事記』でも同じく二人の皇子の抵抗に対して、神功皇后、武内宿禰軍は多くの策略を用いて勝利したことを記している。誉田別皇子がすでに死んだとして喪の船を用意し、山城にあっては武内宿禰が神功皇后の死を伝えて和平の策略をめぐらすなど、策略によって勝利した話が記されている。ここに畿内の抵抗が終わり、神功皇后は誉田別皇子の摂政皇太后として大和の磐余(いわれ)に都(若桜宮)を造り即位した。

武内宿禰とは何者か

 神功皇后に常に寄り添い、仲哀天皇の死に立会い、三韓征伐、大和帰還の総大将として活躍、この後の神功皇后摂政時代も常に中心人物として活躍した武内宿禰とは、一体何者なのであろうか。通説では、神功皇后とともに武内宿禰は伝説上の人物とされているが、果たして架空の人物なのであろうか。

 応神天皇は、実在性の高い天皇といわれているが、もし実在の人物であれば父、母がいるのは当然である。神功皇后は応神天皇の母であり伝説上の人物とされるが、実際に母にあたる人がいて、その人物に華々しい神功皇后伝説が加えられたとみることも可能である。何らかの理由で夫である天皇を亡くしたが、以後皇太后として誉田別皇子の摂政になり活躍する必要性があったため、さまざまな伝説が加えられたと見るのである。


 一方、それでは父に当たる人物は誰か。『記紀』は仲哀天皇が父であるとしているが、前述したように仲哀天皇の謎の死や神功皇后と住吉の神との密事など、疑わしいことも多くある。実際に事実上の父親としていたはずの人物が、『記紀』では皇太后の摂政時代を作るため隠れた存在に置かれてしまった。つまり天皇になれなかった人物がいた可能性があるのである。『記紀』編纂時に加えられた意図的な記述が、この間の正確ないきさつを隠していると思われてならない。

 私は、この大きな謎の鍵を握っているのが武内宿禰ではないかと思っている。武内宿禰こそ、タラシ系王権の終焉と新たな王権、事実上の大和朝廷の成立に関わった重要人物であると見ている。それではこの人物について検討を加えてみたい。


 この人物の出生から死までの記述は、謎に包まれている。『記紀』ともに第八代孝元天皇の巻に武内宿禰の出生に関する記事が書かれていて、恐ろしいほどの長命の人物とされる原因になっている。『日本書紀』では第八代孝元天皇と后の伊香色謎命(イカガシコメノミコト)の子である彦太忍信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)の孫であり、屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオオゴゴロノミコト)と影媛の子としている。さらに『古事記』では、孝元天皇と后の伊迦賀色許売女(イカガシコノミコト)の子である比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)の子が武内宿禰であり、その子が七男二女いて、その中の蘇我石川宿禰が蘇我氏の祖であると記している。又前述したように、五代の天皇に使えた謎の長命の人物とされている。 

 また、その他の子供はそれぞれ波多の臣、林の臣、波美の臣、星川の臣、淡青の臣、長谷部の臣、川辺の臣、田中の臣、高向の臣、小治田の臣、桜井の臣、岸田の臣、平群(へぐり)の臣、佐和良の臣、馬御?(うまみくい)の連、木の臣、都奴の臣、坂本の臣、玉手の臣、的(いくわ)の臣、生江の臣、阿芸那の臣、江野間野臣などの祖であると記されている。しかし孝元天皇などの頃の天皇記には、各豪族たちの祖の系譜が織り込まれているのが特徴で、ほとんどが『記紀』編纂時に織り込まれた後世の各豪族の系譜を作るための創作である。

 このように、有力な多数の豪族が武内宿禰を祖として組み込まれていることは、武内宿禰の存在の大きさとそれを求めた豪族が『記紀』編纂時に多数いたことを物語っている。その中にあって、武内宿禰が蘇我氏の祖にあたるという記事は編纂時にそうした認識があったと考えると興味深いものがある。『記紀』編纂に当たっては、蘇我氏が徹底的に悪者にされた形跡があり、私はこのことが武内宿禰の実際の人物像を隠し、存在をあいまいにした理由の一つではないかと考えている。

 私は、武内宿禰はもっと後の時期に渡来した系統の人物であるが、九州に於いてタラシナカツヒコ(仲哀天皇)の死後、神功皇后と事実上の夫婦となり、その後神功皇后が産んだホムタワケノニミコト(後の応神天皇)の事実上の父親であった可能性が高いと考えている。応神天皇に皇位継承の正当性を持たせるために、天皇に就くこともなく、仲哀天皇の子であるとしてホムタワケノニミコト(後の応神天皇)を神功皇后と共に育てたのではないかと見ている。 また、その生誕や活躍の経緯が、『記紀』の中に長年に渡り書かれているのは、武内宿禰が皇統に由来する人物であることを示すためであったと思われる。

 こうした意図的な編纂による複雑に絡んで真相が見えないこの時期の様相を、次章でひとつひとつほぐしながら、少しでも真実に近づくための検討をしてみたい。

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