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第19章 『記紀』編纂のほころび

タラシ系王権の終焉

 『古事記』・『日本書紀』は、内容に違いがあるにせよ、我が国の歴史書として大きな価値ある文書である。『古事記』が天皇家にまつわる伝承を中心に推古天皇までという限定的な範囲で、歌を中心とした叙事詩的な記述であるのに対し、『日本書紀』は、広く各豪族や各地にある伝承を収集し、形式的にも通史としての正式な国史の体裁を整えている。そしてともに目指したのは万世一系の大和朝廷の歴史である。天皇による親政政治を実現するため、天皇の権威と支配権の正当性、不可侵性を高めるためさまざまな工夫が施されている。
 
 壬申の乱(672年)以降、天武天皇から持統天皇への継承を経て720年完成した『日本書紀』は、その最終的な仕上げに持統天皇のもとで中枢の人物であった藤原不比等の意向が大きく関わっていたと思われ、万世一系の皇統はこの人物によって完成されたと言える。しかし、いかに綿密な編纂であっても、数多くの伝承や創作された系譜、さらには『魏志倭人伝』などとの整合性などの制約、最大の課題である万世一系の歴史にするという制約のもとでの歴史編纂は、色々な伝承や史実、創作部分などの繋ぎ合わせに終始せざるを得ず、多くのほころびも露呈している。

 中でもイリ王権とタラシ系王権の繋ぎ合わせ、そして今検討している応神天皇の出自前後に関するに部分は、大きな創作を強いられた部分であるため、その分ほころびも目立っている。このほころびを解きほぐしていけば、真実に近づけるものと確信している。以下にまとめてみる。

 旧投馬国や邪馬台国の後継勢力は、大和に進出したミマキイリヒコ(崇神天皇)を輩出した、いわば本流の後継者意識を持っていたものと思われる。しかしミマキイリヒコの東征後は勢力が衰え、熊襲(旧狗奴国)などに押される状況にあった。しかし4世紀の半ば以降、北九州一帯に半島からの渡来が増え、豊前や長門などの関門海峡の近辺、まさに瀬戸内海のトバ口付近にその勢力を築きつつあった。むろん邪馬台国の残存勢力等とも融合してやがて大きな力、すなわち北九州における新王権を持つようになっていった。それから九州内陸部の熊襲(元の狗奴国勢力)征伐等の制圧が進んだ。そのことが記されたのが、タラシ系王権としての景行天皇の九州征伐であり、ヤマトタケルの熊襲征伐記事である。

 一方、畿内のイリ王権は、三代目の五十瓊敷入彦命が東国で死を迎えたことにより衰退し、混乱の時期に入っていった。しかし、後世の編纂者たちはこのことを隠すため、九州の本流であるタラシ系王権に繋ぐことを考えた。このために創作されたのがヤマトタケルであり、二人の人物を一人のヤマトタケルとして描くことになった。実際のモデルは、西国熊襲征伐のヤマトタケルが景行天皇の子であるワカタラシヒコ(成務天皇)であり、東国征伐のヤマトタケルのモデルは五十瓊敷入彦が担った。そのため五十瓊敷入彦命は、正式にはイリ王権3代目の天皇として扱われることなく終わり、ワカタラシヒコ(成務天皇)はその事績の大半をヤマトタケルの熊襲征伐記事に奪われる結果となった。

 こうして繋がれたイリ王権とタラシ系王権は一見順当な継承がなされたかの如く記載されたが、それぞれの活動拠点の違いを隠せるはずもなく、今まで述べてようにきたように矛盾に満ちた継承王権となった。

 しかし、改編の意図はこれからが本番であった。つまり九州にあったタラシ系王権は、あくまで畿内にあったイリ王権の後継で、畿内から熊襲征伐や三韓征伐のために九州に出向いたものであり、仲哀天皇、神功皇后の王権がそのまま畿内に帰還し、仲哀天皇の子である誉田別皇子(ホムタワケ)が応神天皇として即位していくことが至上命令であった。ここで異なる王権を繋ぎ、万世一系を持続させるという意図のもとに編纂がなされたと言える。こうして『記紀』では一見自然な形で継承されたような記載になっているが実際に九州に発生したタラシ系王権は、新たな渡来系の勢力が中心となった新王権であった。

 それではこの時期、一体どれくらいの渡来系の集団が倭国にやってきたのであろうか。『韓国から見た古代』(韓国文化院監修)のなかで日本自然人類学である埴原和郎氏による日本の人口動態の研究によれば、縄文後期の日本の推定人口160,300人であったが、縄文晩期には寒冷化と食糧難のため75,800人に減少した。その後紀元前3世紀に北九州で弥生文化が発生、稲作の普及でそれから千年後の7世紀には539万9800人と推定され、そのためにはその間に150万人が他から日本列島にやってきたはずだという。

 実際朝鮮半島状況の不安定により4世紀半ば以降ごろから大挙して渡来しており、特に北九州や山陰地方、北陸地方などに集中して住み着いていったことが分かってきている。中でも北九州は倭国の最前面であり、多くの渡来系の人々が弥生時代の早期から住み着いた所である。特に半島南部には、倭人と呼ばれた人たちがいたらしく、倭国内に住んでいる倭人とも渡来時期の違いがあるだけでもとは同じ系統で、邪馬台国や伊都国、その他連合国の人々も渡来系の人々と言って良いくらいである。その後倭国内に広がった渡来系の人々の数は多く、実際近畿地方の古墳人は縄文直系1に対し渡来系9、中国地方は2対8という調査もある。

 タラシ系王権に話を戻すと、景行天皇、成務天皇(九州征伐のヤマトタケルか?)、仲哀天皇と続いた王権はその後どう展開したのであろうか。この王権は旧勢力と渡来系の勢力を中心に発展してきたと記してきたが、仲哀天皇の代に大きな変化があった。この時期に色々特異な出来事が起き、それはこの王権の変質を物語っていると思えるのである。この王権が『記紀』の記載と違って九州内に発生した新王権である可能性が高いことは既に述べたが、仲哀天皇の突然の死、神功皇后の三韓征伐、畿内生還などの伝説的な出来事の続いた時期に、更なる変質があったのだが、『記紀』はそのことを必死に隠そうと取り繕ったようである。つまりここに『記紀』編纂の大きなほころびを感じるのである。それは下記のような記述に起因している。

@仲哀天皇にもこれといった事績がなく、その死因は謎に包まれている。
  『住吉大社神代記』には、仲哀天皇が亡くなった晩に「是に皇后、大神と密事あり」と
  記してあるのは何を意味するのか。誉田別皇子(後の応神天皇)の父親は誰か。
A 応神天皇からタラシの名前が変わるのはなぜか。
B 武内宿禰の存在。神功皇后との関係や応神朝で武内宿禰が実質的な権力者だった
  理由はなにか。

C 神功皇后が天皇にならず、誉田別皇子の摂政を69年間も続けた理由は。
D 神功皇后は敦賀から来た事になっているがその出自はどこか。
E 三韓征伐の前になぜ熊襲征伐を行ったのか。
F 三韓征伐記事の信憑性、この時期以降、なぜ三韓など半島との交流が活発化するのか。

 これらの出来事は、今まで数多くの人々によって研究され続けてきたが、応神天皇の出自を含めたこの時期の政治状況を無理なく説明できる学説はなかなか見出せず、古代史上最大の謎とも言える問題を提起している。ここで私なりに説明するためには、次のような仮説を立てて考えて見たい。タラシ系王権の実態は、旧邪馬台国勢力に加え渡来系の勢力がその中枢を占めるようになってきたが、この王権の系統は仲哀天皇の時に終焉したものと見ることである。つまり仲哀天皇は渡来系の勢力に抹殺されて王権の交代があり、さらにその事件の中心人物が渡来系の武内宿禰であったとする仮説である。この仮説を立ててこの時期を見てみると、多くのことが見えてきて、前述したようないくつもの事柄が無理なく説明がつくのである。
 そこで、次にその仮説に基づいて話を進めてみよう。

武内宿禰と神功皇后が鍵

 前項で記した数々の疑問点を、私の仮説に基づき解いてみたい。@の、天皇の死因に関する謎と誉田別皇子の出生に関する疑問である。前述したように『記紀』では仲哀天皇は神功皇后が伝える神の言葉を信じないために死んだ事になっているが、その死に立ち会ったのは武内宿禰と神功皇后である。仲哀天皇が病死したのか殺害されたのかは不明だが、神意に背いたため死んだというのは何らかの理由で殺害かれた可能性が高いと見るのが自然である。

 仲哀天皇が死んだその晩に「是に皇后、大神と密事(住吉の神との秘め事)あり」とあるのも謎めいた話であり、事件性を物語っている。この日から十月十日後に誉田別皇子が誕生するわけだが、このことは生まれてくる誉田別皇子に神聖性をもたらすための表現であり、具体的には仲哀天皇ではない住吉の神にたとえられた人物が父親であることを暗示していると思う。ただし『記紀』ともに、誉田別皇子は仲哀天皇と神功皇后の子としていて、特に『日本書紀』は天皇の死んだ日を2月9日、三韓征伐から凱旋した神功皇后が宇美で皇子を生んだのが12月14日と記し、ちょうど十月十日後に生まれたのだから仲哀天皇の子だと主張している。どうしても万世一系につなげたい編纂者の意図がありありと見える部分でもあるが、このことはかえって仲哀天皇が誉田別皇子の父親でないことを示している証のように見える。また誉田別皇子がAにあるようにタラシという和風諡号を名乗らない理由もわかるのである。

 これらのことを勘案すると、誉田別皇子は仲哀天皇の子ではなく、むしろ武内宿禰と神功皇后の子であることを暗示する結果となっている。私は武内宿禰こそが誉田別皇子(応神天皇)の父親であった可能性が高いと思っている。武内宿禰は父親だからこそ、三韓征伐の話の後、誉田別皇子を伴い神功皇后とともに畿内に入った中心人物となったのである。

 さらにBの応神朝での役割についても、神功皇后による摂政時代から応神天皇の即位後にわたり、武内宿禰が実質的な天皇の役割を果たした理由も、実の父親であったからと考えると納得がいくのである。それでは何故、武内宿称が『記紀』の記述上では天皇になれず、神功皇后も長すぎるくらい摂政の時代を持ったのであろうか。それは『日本書紀』編纂時に、『魏志倭人伝』にある卑弥呼の記事にとらわれたからである。前にも記したように、『記紀』は、
中国の辛酉革命説を採り、実際の天皇の在位期間を無視して遡らせたため、『魏志倭人伝』などにある倭の女王の記事に相当する人物を、卑弥呼の時代(3世紀前半)に置かざるを得なかったのである。しかし天皇が魏に朝貢するのはあり得ないとしたため、神功皇后という大きな存在を創作し、『魏志』の編者が皇后を女王のような存在と見たのだろうということにしているのである。 実際『日本書紀』にどう書かれているか、第1章にも書いたが再度記してみよう。

 「(神功皇后の)、摂政39年、この歳太歳己未。『魏志倭人伝』によると、明帝の景初3年6月に、倭の女王は大夫難升米らを遣わせて帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守のケ夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。40年、『魏志』にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。43年、『魏志』にいう。正始4年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、8人を遣わして献上品を届けた」(『全現代語訳日本書紀』宇治谷孟)

 これは、『魏志倭人伝』にある倭の女王の朝貢記事、また魏の使者の来訪記事は神功皇后の時代のことであるとする主張である。また、台与の時代にあたる晋の武帝の泰初2年、倭の女王が何度も通訳を重ねて朝貢したとある記事についても、『日本書紀』は神功皇后摂政66年のこととして記している。これらはいずれも中国の史書が、神功皇后の活躍を伝聞して記事にしたものに過ぎないということを暗に示している。

 このことは、この時期に合わせて、大和朝廷の中に倭の女王にふさわしい皇后の存在を必要とし、かつ実際の台与の朝貢までを含めるために長い在位期間が必要だったことを物語っている。その結果誕生したのが半島まで活躍が及び、在位期間の長い皇后の存在であり、神功皇后が誕生した理由でもあるのである。そして武内宿称が実際は天皇に準ずる立場であったが、影の存在に追いやられた理由のひとつでもある。Cの長い摂政の疑問もこれで理解できると思う。

 さらに続けて疑問を解いてみたい。 Dは気長足姫の出自に関する疑問でもあるのだが、澤田洋太郎氏は「オキナガ(息長)氏の根拠地とされている近江では、姫を祀る神社は僅かに4社しか無く(略)、最も多くタラシ姫伝説が残るのは山口県の138社であり、そのほとんどが北九州から瀬戸内沿岸にかけて分布しているのである」(澤田洋太郎著『ヤマト国家は渡来国家』)として、西日本や九州、特に山口県に神功皇后を祭神とする神社が集中していることを指摘している。

 また、「肥前国風土記」「筑前国風土記」などにも色濃く残っていることなどを考えれば、気長足姫の出身はやはり九州近辺であり、結果的に夫である仲哀天皇を倒した武内宿禰に協力した人物と見るのが妥当である。そのためにEの疑問にある熊襲征伐もしたのであり、敦賀の気比からやって来たと書かれているのは、仲哀天皇の大和在位の立場からの記事であると同時に渡来系の勢力範囲を物語る話であり、このあとの畿内進出に対して広範囲の勢力との連携があったことを示唆する話であるように思う。

 Fの三韓征伐の記事は、前述した卑弥呼の存在に合わせて創作されたものであろうが、この時期以降、半島との関係がなぜ活発化するのかという疑問も、渡来系のリーダーである武内宿禰が王権を掌握したために、積極的に半島と関わりを持ったと見れば理解しやすいのではないか。半島は動乱期であり、倭人と呼ばれる存在もいて、倭国に渡来するものもいれば新羅や百済、高句麗との間に争いもあり、そうしたことが反映して前述した半島側の資料にも争いや交流の記事が書かれるようになったと見ている。


 以上、九州タラシ系王権を完全に引き継ぐ形で新たな渡来系王権を誕生させたのが、武内宿禰と神功皇后であるという仮説に基づいて数々の疑問を解いてきたわけだが、このように見るとこの激変の時代の真相がおぼろげにも見えてくるのではないだろうか。

畿内に進出した武内宿禰

 私は、これまで『記紀』にある天皇の皇位継承は、天皇という呼称が定着した天武天皇以前においても、すべての天皇は実在した王権の大王にあたる人物の投影という立場で記述してきた。もし『記紀』の編纂者たちが架空の天皇を量産できるのであれば、辛酉革命説に合わせて神武天皇即位を紀元前660年に設定した時に、何人かの天皇を加えれば、無理に古代天皇の年齢を超人的な数字にする必要は無かったはずである。ただし、『記紀』編纂に際しては、万世一系という名の下にいくつかの王権の大王たちが繋ぎ合わされ、一系の天皇系譜が出来上がったと見ている。それらは初期三輪王権、次に初期大和王権としてのイリ系王権、さらに九州タラシ系王権などである。そうした系譜を繋ぐ作為が、このタラシ系王権の最後の天皇である仲哀天皇のところでまた施されることになるのである。

 一般的に神功皇后は架空の人物、従ってその夫である仲哀天皇も架空の人物と見る見方が強いが、私はこれまで見てきたように仲哀天皇も実在の人物であったと見ている。その父であるヤマトタケルが成務天皇のことであるとすれば、その子である仲哀天皇へは自然な皇位継承であると言える。

 しかし、仲哀天皇は、タラシ系王権のなかで徐々に勢力を増してきた新たな渡来系の勢力に圧倒されるようになり、それらのリーダーである武内宿禰に実権を奪われることになった。気長足姫もその協力者であるが、夫の死因にどのように関わったのか、さらに武内宿禰とどういう関係であったかは定かではない。おそらくは渡来系勢力の中の人物であり、半島への三韓征伐記事もその出自が大きく影響しているように見えるし、その祖に新羅より渡来した天日槍がいると記されていることは注目される。

 後世の息長氏(気長)の本拠地は近江とされているが、気長足姫と関係する集団が、九州以外にも近江や敦賀、丹後などの日本海地方一帯に展開していた可能性を示しているに過ぎない。気長足姫自身の本拠地は、タラシ姫伝説が多く残る山口県か北九州周辺の可能性が高く、北九州か周防周辺に関わりを持つ人物であったと思える。北九州周辺のそうした渡来系集団の中から出た気長足姫が、九州に誕生して引き継いでいたタラシナカツヒコ(仲哀天皇)の后に入り、その後タラシナカツヒコを排除した武内宿称と結ばれたと見ている。武内宿禰もやはり王権の継承の後ろ盾として、神功皇后を求めたとも言える。また、自らの正当性を得るために、それまで九州内で構築されてきたいわゆるタラシ系王権を引き継ぐ形で、実質王権を築いたとも言えるのである。神功皇后の存在が、この王権の継承に大きな影響力を果たしたとも言える。

 いずれにしても、こうして誕生した神功皇后・武内宿禰の王権は、九州タラシ系王権の祖につながる可能性もある旧邪馬台国勢力の畿内イリ系王権の正当な後継を名乗り、イリ系王権が崩壊後混迷を続けていた畿内に進出を図ることとなった。この背景には、動乱の半島情勢や、日本海地方に展開した渡来系勢力の中での畿内進出をめぐる競い合いがあったと見ることが出来る。渡来系の勢力拡大には、製鉄技術による武器や財力、戦術面での優位性などがあったと思われる。余談だが気長足姫の気長(息長)というのは、製鉄に使うフイゴを長く吹き続ける技術を持った集団という意味があったとも言われている。

 この進出は、いわれるような三韓征伐を終えた神功皇后の凱旋といったものではない。神功皇后伝説は、その子である誉田別皇子の出生の神格化と渡来性を物語るものであり、『日本書紀』では、倭の女王卑弥呼に相当する人物に当てはめるために過大に描かれたものであり、進出の主役は九州から日本海勢力との連携をまとめた武内宿称と渡来系の集団であったはずである。

 畿内進出を目指した神功皇后・武内宿禰一行を待ち受けたのが、18章に記したように仲哀天皇と先の后、大中媛の御子とされる香坂皇子、忍熊皇子の勢力である。そうした系譜の勢力であるかは疑問があるが、武内軍は数万の兵を率いて策略などを用いてこれらの勢力を粉砕し、大和の磐余(いわれ)に都を造ったという。『記紀』では計略合戦などやや牧歌的に描いている面があるが、この戦いは実際には『記紀』にあるよりももっと大きな戦いであったろうと思われる。

 それは畿内への進出を窺う各勢力の争いもあったはずであり、日本海勢力との提携を進めながら、数万の兵を集めての戦いであったはずだからである。さらに、その進出の本拠地は大和ではなく難波の住吉であったことも、そう簡単に大和入りが出来なかった状況を物語っている。
 また、香坂皇子、忍熊皇子については、仲哀天皇の先の后との皇子と記されているが、これもイリ系王権とタラシ系王権をつなぐための、作られた系譜である可能性が強く、実際はイリ王権の衰退に伴うその末裔か、畿内の混迷の中で力を持っていた勢力と思われる。

 『記紀』では、神功皇后が大和の磐余に若桜宮を作り、誉田別皇子の摂政皇太后と君臨したように書かれているが、前述したようにこれは『魏志倭人伝』の卑弥呼に想定させるための繕いであり、実際は武内宿禰が王権を掌握し、事実上の天皇の立場にあったと思われる。通常摂政とは、天皇になるべき人物が幼少のため治世を担当できないため、成人になるまで務めるのが普通であるが、神功皇后が誉田別皇子の摂政として69年間、百歳までの長い間勤めたことになっているのかが大きな謎とされてきた。『晋書』の台与の記事に合わせる必要があったため百歳までにした経緯はともかく、神功皇后と武内宿禰が夫婦であり、武内宿禰が事実上の天皇に準ずる立場にあったことを知ると、天皇の崩御を待って応神天皇が即位したことになり、その謎も解けてくる。『日本書紀』では武内宿禰が次の仁徳天皇の代にも登場するが、現実的にはあり得ない話である。

 私は、この王権が徐々に基盤を固め、やがて応神天皇の即位を待って事実上全国統一の王権としての大和朝廷を成立させることになったと見ている。
 

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