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第2章 『三国志』の邪馬台国

さまよえる邪馬台国

  2世紀から3世紀にかけて、倭国の中のいずれかの地域に邪馬台国という国があったことは確実である。中国の史書『三国志』の『魏志倭人伝』に、約二千文字という長さでかなり詳しい情報が書かれているのに、いまだにそれがどこにあったのかはっきりしない。まさに日本古代史上の最大の謎といえる。

 今、手元にある全国邪馬台国マップをみるだけでも、北は新潟、富山、石川、長野、山梨、愛知、京都、奈良、大阪、高知、徳島、岡山、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、鹿児島各県など中部地方から西日本一帯にかけてその候補地が乱立している。変わった所では、沖縄説、フィリッピン説、ジャワ説、エジプト説まで揃っている。この混乱状況は、主として『魏志倭人伝』の地理的な説明に里程表現や日程表現の混在など一貫性がなく、各人の理解の仕方によっては博多湾沿岸から中部地方以遠まで広がってしまうからである。 中には単なる地名の発音の類似や地元意識によるものなど首をかしげるものも多いが、まじめに取り組んでいる多くの研究の中でもいまだに決定的なものが見当たらない状況である。

 そこで、地理の記述だけでなく『魏志倭人伝』に書かれたその他の多くの情報、すなわち自然描写、政治状況、戸数や生活のありさま、考古学、その他の中国資料などから辿り着こうとする研究も熱心に行なわれているが、それでも大きく分けて九州説と畿内説との対立の構図は、いまだに変わらない。まさに、さまよえる邪馬台国と言える

 私は、この絡み合った状況を解きほぐし、邪馬台国の痕跡を確定していく作業は決して難しくはないと考えている。『三国志』が書かれた状況、意図、さらに陳寿が置かれた状況や立場をよく検討し、その原典なり原情報を見定め、陳寿の立場になって考えていくと、なぜこう書いたのかということがわかってくると思う。それは、古田武彦氏のように最初から「陳寿を信じきる」という立場ではなく、陳寿の置かれた状況の中で、書かれた内容の蓋然性を検討していくという立場である。そもそも倭国に来てもいない陳寿が編纂した探訪記なのだから、どんな資料をもとにどう判断したかということがもっとも肝心な解読要因であり、地理記述もその前提で解読していくことが必要である。

 さらに大切なことは、邪馬台国の所在地に加えて、その勢力が大和朝廷の成立にどう関わっていたのかということである。中国資料によって時代が明確になっている邪馬台国の、所在地とその後の変遷がわかれば、大和朝廷成立の時期や形態、『古事記』や『日本書紀』などの信憑性、大陸との交渉経緯など多くのことが明らかになってくるのである。そのことは神話世界から脱却し、現実味を帯びた日本の歴史が明確になってくる意味を持つわけである。

『魏志倭人伝』とは

 『三国志』とは陳寿により魏、呉、蜀の三国時代についてかかれた歴史書で、後の西晋の正史となったものである。『魏志倭人伝』は『三国志』の中の『魏志』東夷伝倭人の条を指すもので280年から289年にかけてまとめられたものである。三国時代についての書物は『魏書』、『魏略』、『魏史』、『呉書』などがあったが、『三国志』中の倭人伝については『魏略』の記述を大幅に取り入れている。『魏志倭人伝』は先行した『魏略』(魚拳)より2〜3年遅れて陳寿がまとめた。四夷伝(四方の野蛮人・南蛮、東夷、西戎、北狄)の特徴として四夷の国々の記述には、邪馬台国、卑弥呼など卑字を使っている。『魏志倭人伝』は倭国についてのさまざまな知識、情報、報告書など参照したと思われるが、もっとも参考にしたのは『魏略』であったとされている。『魏略』とは、280年魚拳により書かれた魏の歴史書であり、残念ながら現存しない。しかし『翰宛』という書物に魏略の逸文があり倭国の記事がある。

 
 魚拳が書いた『魏略』の倭国記事は、190年頃倭国に旅した人の旅行記をもとにしたものである。『魏志倭人伝』とは『魏略』から引用した部分を主にして、それに魏の外交記録や手元にあるその他の資料等を加えて、陳寿が完成させた物である。

  しかし、『魏略』にあった旅行記録には思い違いや独り合点が多く、正確な通訳も無く倭国ではまだ文字も使われていない頃の記録で誤りも多く、特に地理描写が不確かであったと思われる。こうした『魏略』や他の断片的な諸資料を集約し、倭国の地形、地理を想像し書き上げたのが『魏志倭人伝』である。また、中国中心の物の見方からの記述も多く、さらに倭国への里程が長大なことや倭国の国々の戸数が誇大な点から、当時魏が対立していた呉を意識して、自らの属国である倭国をことさら遠方に置き、その支配圏を誇示した面があるとする見解も多い。私もこの誇大説の立場をとっている。

 ただし、それらは陳寿の筆によるというより、陳寿の採用した各種の文書(政治的な誇大誇示の文章)によるところが多いと思われる。三国志の記述には簡略化したものが多かったが、130年後(5世紀)裴松之という人により『三国志注』という注釈書が書かれ、よりわかり易いかたちで一層浸透していった。

 
『魏志倭人伝』を書いた陳寿という人物は、233年に蜀で生まれ、若くして才能に恵まれ蜀の朝廷に仕えた。263年、蜀は魏に統合され陳寿は魏の都である洛陽に移り住んだ。陳寿31歳の時である。やがてその魏も司馬懿により西晋に変わった。やがて西晋の役人である張華に見出され、『三国志』の編纂を命じられた。『三国志』は太康年間(280年〜289年)に完成したが当初の評判は必ずしも良くなかった。陳寿は時の権力者に迎合することなく資料に忠実で客観的な記述を旨としたためである。陳寿は297年、65歳で亡くなったが、死後『三国志』の評価が高まり正史に採用された。

 陳寿の作法を推定すると、『魏略』をほぼ全面的に採用し、その後の魏や西晋の役人達の外交記録や各書の報告者等を忠実に追加した可能性が高い。先に述べた里程表現や日程表現の混在や、文脈の不自然さなどが目に付くのもそうした事情があるからである。したがって一つの文章として読んだ場合、どうしても不自然さや錯簡は避けられない宿命があったのである。陳寿にとっては未知の国の記述ゆえにそうした矛盾点については、極力想像を交えながら整合を図ったものと思われる。われわれが『魏志倭人伝』を読む場合は、そうした陳寿の作法をよく考慮しながら糸をほぐしていく必要がある。

原始的資料

  次に、邪馬台国を考える上でその他の中国資料について記してみたい。倭人のことが初めて記されているのは『山海経』と言う書物である。それによれば「倭は燕に従っている」と記されている。 また後漢の王充が書いた『論衝』(ろんこう)という資料には、周の時代に倭人が香り草をささげに来たという伝説的な記述がある。ただしこれらにある倭は、いまの日本列島の倭人をさしていたのか疑問がある。

 鳥越憲三郎氏によれば,紀元前5世紀頃、呉、越など揚子江下流の江南地方に倭人が住んでいたが、争いと呉の滅亡により流民化、朝鮮半島南部と日本に数多く流入、稲作技術を伝えたとしている。後に記述するが、『後漢書』や『三国志』のなかで、馬韓や新羅について「南は倭と接す」と書かれていたり、邪馬台国の倭人が「呉の太伯の後」と名乗っているなど、それらを裏付ける資料もあるので倭人が大陸、半島にも存在した可能性が高い。

 その後、倭国についてやや詳しく記されているのが『漢書地理志』である。後漢の班固が書いたもので完成は紀元82年。前漢の滅亡は紀元8年であるが、前漢の武帝は紀元前108年頃、朝鮮半島北部を制圧し楽浪郡を設置した。そうした朝鮮半島支配の状況の中での倭国の情報が記されたものである。

 「夫れ楽浪の海中に倭人有り。分れて百余国と為る・歳時を以って来りて献見すと云う」

 これにより、1世紀前後の倭国は百余国に分れ、その中のいくつかの国が時々中国に朝貢していた事がわかる。この倭国の範囲が問題であるが、その後の『魏志倭人伝』等の記述から考えると、地理的な関係で交易をしていた九州地方や中国地方の一部に収まる範囲での倭国を考えるのが妥当と言えるのではないかと思う。中国や韓半島から見れば、関門海峡は単なる川幅程度であり、九州と中国地方は日本海に面した一体的な地域とみなされていたと思われる。

 その他に、晋の学者郭義恭作の辞書で『広志』があり、後漢時代の倭国について記してあるが資料的価値はないとされている。次に、邪馬台国に関してその成立直前の状況、邪馬台国の初期的状況が記されている『後漢書東夷伝』について考えてみよう。

『後漢書東夷伝』と倭国の国々

 『後漢書東夷伝』は、『魏志倭人伝』よりあとの432年頃、宋の学者范嘩がまとめたもので正史とされる。紀元57年倭奴国王への金印や倭面土国、邪馬台国、卑弥呼のことなどが記してある。魏朝以前の後漢時代について書かれたもので、邪馬台国の状況を知る上で貴重であるが、実際に書かれたのは『魏志倭人伝』より200年以上後であり、逆に『魏志倭人伝』を参照した可能性が高い。一方『魏志倭人伝』に無い倭奴国王への金印や倭面土国に関する記事もあり、貴重な資料と言える。このことは『魏志倭人伝』以外に倭国に関する原資料が別にあり参照した事を物語る。その意味では大変貴重な資料であり、范嘩が参照した原資料には、『魏志倭人伝』の表記と異なる漢字表現で初期邪馬台国周辺の事が書かれていた可能性が高い。

 「建武中元2年(紀元57年)、倭奴国,奉賀朝貢す。使人自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以ってす」
 天明4年(1784年)福岡県志賀島よりこの後漢書の記述を裏付けるような「漢委奴国王」と刻印された金印が出土した。この金印をめぐって、これが『後漢書』にある倭奴国王に授けられた金印であるとする見方から、後世の偽作説なども含めてさまざまな議論がある。この金印の読み方については、委をそのままで委奴(イト)国とよみ、『魏志倭人伝』に伊都国と呼ばれた国に授けられたとする説もあるが、一般的には委は倭の略字と見て三段読みして「漢の倭の奴国王」とする説が有力である。

 他にはそのまま委奴国という国の存在を認める説や、倭奴(ヤマト)とよむ説などもある。
この場合印字の意味するところは、「漢の属臣たる倭国王の印」ということである。中国は周囲の国々に印を授けているが、こうした印綬はその属臣としての認定を意味することが多い。この金印については、漢の文字が最初にあるため、漢の属臣としての倭国という意味の印であろう。しかも金印であるから間違いなく倭国の王としての認識のもとに授けられたものである。従って前記した「漢の倭の奴国王」というような倭国内の一国に授けられたものではない。当時の倭国は百余国に分かれていた(『漢書地理志』)頃でそうした一国ごとに印綬を授けるはずもないからである。従って印字の意味するところは、「漢の属臣たる倭国王の印」というlことである。

 そう考えると、この金印が授けられた紀元57年前後、倭国の王たる存在の国王は誰かという事になる。邪馬台国は卑弥呼の共立(2世紀末)より先に男王の時代が七八十年続いたと記されているからその成立は2世紀初頭ごろと私は見ている。それに先立つ中心的な国ということになると、『魏志倭人伝』に唯一「世々王あり」と記されている有力国である伊都国王の可能性が高いのではないかと思っている。伊都国の比定地である糸島平野周辺は、内陸部より先に開けた地域であり、平原遺跡、三雲、井原ヤリミゾなど王墓とみられる遺跡がいくつか発見され、後漢鏡が多数発見されているのも大きな傍証となる。

 
もし、金印を授けられた王が伊都国王であった場合、その印字の読み方は、先に例をあげた委をそのまま読み委奴(イト)国と呼ぶのが正しいと今まで考えてきたが、最近はやはり倭国王という意味の金印であるとの立場から、委を倭の略字と見て倭奴国という表現が正しいと考えている。『日本書紀』や『法華義流』などにも倭を委と表記した例もある。それではどう読むべきなのであろうか。水野祐氏は奴音のナは国の意味を有し倭奴国とは倭国の意味である(『史観』)と述べている。また『旧唐書』には「倭国者、古ノ倭奴国也」の記事、『新唐書』にも「日本、古ノ倭奴国也」の記事がある。また、中国は周囲の属国を匈奴(キョウド)と呼んだように倭奴と呼んだ可能性も考えられる。こうした指摘や例示を考えると、倭奴国は倭国を意味することは確実で、その読みは倭奴(ワナ)国もしくは倭奴(ワド)国と読める可能性が高いのではないかと思っている。

 『後漢書』東夷伝には 「安帝永初元年(107年)倭国王師升等朝貢、生口百六十人を貢ぐ」(『翰苑』所引は倭面上国、『通典』所引は倭面土地王・倭面土国王)の記事がある。この倭国王は原典に倭面土国王とあった可能性が強い。倭面土国についても倭のイト国と読む説、ヤマトと読む説、倭のイト国、マト国と読む説などがある。私はヤマトと読むのが正しいと考えている。なぜなら、漢委奴国王の場合は、金印で倭国に対する主従の関係を記した公的な印であるから漢の委(倭)奴国王としたが、倭面土国については記事の中の単なる国名の記述であるから「倭面土」が国名である。倭の面土国と呼ぶ必要が無い。そうするとこの記述からして、倭奴国、すなわち倭国の王である伊都国の朝貢の後に記された国で、その後の勢力を増してきた国として当然邪馬台国が考えられることになる。

 邪馬台国については『魏志倭人伝』に、倭国乱れるとある倭国大乱(『後漢書東夷伝』では146年〜189年の間、『梁書』では178年〜184年の間)以前、「その国もとまた男子を王となし住まる事七八十年」の記述があり、その成立は2世紀初頭で107年頃の男王の朝貢に適合する。そうであれば、1世紀から2世紀にかけての北九州における状況は、百余国のなかで伊都国が当初勢力を持ち後漢に朝貢、倭国王として金印を収受し、後に邪馬台国に中心が移行し、男王師升が朝貢したということになり、その後の『魏志倭人伝』に記されている伊都国と邪馬台国の関係や状況とよく符合する。

  さらに、この読み方によれば 「倭面土」が国名であるからヤマトと読むと、邪馬台国の読み方は、ヤマタイコクではなくヤマトコクということになる。伊都国の候補地である糸島郡の東,早良地区に山門と言う地名があるが、山門と言う表現は山の裾野の開けた所、山の戸口と言う意味で、当時九州で一般に使われていた名称なのではないかと思う。ちなみに奈良の大和地方には、古地名としてのヤマトがない。

 「倭面土」をヤマトと読む考え方は、古くからあり、内藤虎次郎が明治四十四年『「読史叢録』に「委と倭は古音同一にしてyaの音を有し、面にはmanの音があるから倭面土はヤマトと読まれ邪馬台と同名である。」と記している。

 16世紀、鉄砲を伝えた種子島に来たポルトガル人の航海日誌には種子島をタニシュマと表現している。言葉がわからず初めて訪れた地の名前を現地人の発音を聞いて書き留めた例の一つである。中国史書の場合は何度も何度も筆写されてきているので、間違いや誤字も多くあり、正確な国名をどう表現したのか難しい点がある。

  『後漢書東夷伝』の中の邪馬台国についての記述は、『魏志倭人伝』などの転用が目立ち、あまり資料的価値が無いとされているが、建武中元2年の倭奴国奉賀朝貢と金印授受の記事、倭面土国の記事は『魏志倭人伝』には無いもので、出典は不明であるがその意味で貴重である。古い時代の倭国を記した資料がもっとあったのは確実であり、これから新たな資料の写本などの発見がある可能性もある。


 いずれにしても、1世紀から2世紀にかけてのこうした記録は、金印の出土を含め九州が倭国の先進中心地であったことを物語ってもいる。卑弥呼の擁立前にも男王が支配してい多時代が続き、やがて卑弥呼の擁立となるわけだが、このことは邪馬台国勢力が北九州周辺にあったことを物語る裏図けとなるものである。また、この時期の畿内は、純然たる弥生時代の農耕文化社会であって、王権の発祥の痕跡も無く、大王達が続いた邪馬台国の存在も無いのである。


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