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第20章 新たな王権の成立

渡来系の王権


 天日槍は、但馬の出石神社の祭神となってはいるが、但馬に辿り着くまでに、西日本各地を転々としており、その上陸地点も各地に点在している。これは、天日槍に相当するリーダーのほかに、大きな集団が渡来したことを物語っている。これらの集団は、製鉄技術などを持ち、九州、西中国地方、敦賀など日本海地方、但馬などの西日本一帯に展開したもので、各地に天日槍伝説を残している。 天日槍とは、こうした渡来系集団のシンボル的な存在であったのではないかと思っている。

 北九州周辺地域にいた神功皇后や武内宿禰も、こうした集団と何らかの関係があったものと思われる。神功皇后の三韓征伐の話や、応神天皇の生誕秘話なども、こうした事情と通じるものである。

 神功皇后と武内宿禰の畿内進出は、瀬戸内海を熟知した海洋氏族などの協力も得ながら、各地に点在する渡来系勢力の連携の中で成立したものであろう。神功皇后と渡来系の勢力である武内宿禰の勢力は、九州・西国をその支配下に置き、渡来系勢力やイリ系王権残存勢力の一部とも連携を進めながら畿内に進出し、その足場を固めていった。その時期は4世紀後半頃と見られる。

 『日本書紀』によれば、仲哀天皇の先の后、大中媛の御子である香坂皇子、忍熊皇子の勢力が、神功皇后の帰還に抵抗したことが描かれているが、畿内にまで浸透しつつあった渡来系勢力の結集の前に、抵抗むなしく敗れ去った。畿内は、五十瓊敷入彦命の死後、事実上の盟主不在状態にあり、残存勢力の混乱の中、新たな秩序が求められる状況であったと見られる。
また、神功皇后と共に畿内入りした別系統の武内宿禰に抵抗したと見られる可能性もある。

 『記紀』では、神功皇后が幼い誉田別皇子(応神天皇)の摂政として天皇のように描かれているが、これまで述べてきたように事実上は武内宿禰と
共にした王権であり、武内宿禰は、子である誉田別が即位し、全国を支配下におく王権を作り上げることを目指して、畿内及びその周辺における基盤作りに奔走したものと見ている。そうした基盤作りの一環を物語るのが、神功皇后の出自に関する息長氏の記述であり、気比大神との名前の交換逸話である。これらは、あくまでも『記紀』の建前である万世一系に基づいた畿内における皇位継承の裏側に、新たな畿内入りした新勢力が、先住の勢力との大きな妥協や連携を進めていったことを物語る記述でもある。

 
新王権といっても、実際は、武内宿禰を中心とした進出勢力が新王権の確立にまだ動いていた時期であり、名目上そう呼ぶに過ぎない。そうした状況の中で、武内宿称にとって、既に畿内周辺に浸透しつつあった渡来系の勢力との連携が最も大事なことであったことは想像できる。このことで大きな役割を果たしたのが、神功皇后、すなわち気長足姫であると思われる。

 息長氏に関しては、5〜6世紀ごろの近江一帯が息長氏の本拠地とされるなど、近江や日本海地方一帯に勢力があったことから、気長足姫の出自は、一般的には近江周辺と見られている。また、天皇系譜には、気長足姫の父として近江の息長宿彌王が記されて、息長氏と気長足姫との繋がりを示している。

 しかし、これまで述べてきたように、気長足姫は北九州か長門一帯に展開した渡来系集団の人物である。系譜は、気長足姫や仲哀天皇を最初から畿内の人物と見る立場の見方であり、後世の作為が入った可能性が高い。息長氏は、4〜6世紀には近江一帯を中心に大きな勢力を持ったが、その出自は謎が多く判然としない。息長という字は気長とも書かれ、半島から製鉄の技術を持ってきた一族で製鉄の民とも言われている。

 また、息長氏の本拠地とされる近江の旧息長村一帯には、天日槍(ツヌガアラヒトと同一人物)の伝説が多くあり、息長氏の勢力は渡来系であることは明らかである。したがって、気長足姫・武内宿称を中心とする九州・西中国地方一帯の渡来系集団が畿内進出を果たし、畿内の渡来系集団との連携を進める中で出来上がった関係が、天皇系譜での息長氏の存在であると見るのが自然である。

 息長氏は、徐々に勢力を強めながら、系譜の中に天皇や皇后などとの関係を組み込んでいったものと見られ、天皇家を支える大きな存在となっていった。その祖達が、武内宿称の王権の基盤作りに協力したものと思われる。

 神功皇后と武内宿称による新王権づくりは、渡来系集団の力を源泉としながらも、在来の各集団・氏族などを徐々に取り込みながら進められていった。後の有力氏族である蘇我氏、紀氏、平群氏、臣勢氏なども、系譜の祖に武内宿禰を置いているのは、多くの氏族の協力関係を物語るとともに、事実上大和朝廷の祖となった武内宿禰との繋がりを持つことの意義が、後世に於いても広く認識されていたことを物語る。

 この王権は『日本書紀』では大和の磐余(いわれ)に都を造営とあるが、実際は河内平野に拠点を持ち、徐々に力をつけて大和に進出していったものと想定される。後に応神天皇・仁徳天皇と続く王権は、実質的な大和朝廷の成立であるが、河内にその拠点や墳墓を置いたことから河内王朝とも呼ばれるようになる。

応神天皇の神格化

進出王権にとって、その基盤の確立は最大の眼目である。神功皇后と武内宿禰にとっては、事実上二人の間の子である誉田別皇子を、新王権の正当な後継者として権威をつけることが必要である。なぜなら、武内宿称は新たな渡来系の人物であり、九州のタラシ系王権の血脈を引く人物ではない。

 前述したように、『記紀』ともに第八代孝元天皇の巻に武内宿禰の出生に関する記事が書かれていたり、『日本書紀』では景行天皇の皇統に無理やり第3子として組み入れられていたり、苦心した様子があるが、かえってそのことが異系統であることを物語っている。さらに、武内宿禰が、ミマキイリヒコ(崇神天皇)を輩出した九州の投馬国・邪馬台国連合などの末裔勢力の流れ汲むタラシ系王権の、仲哀天皇の后であった神功皇后を事実上の妻としたことは、その子である誉田別皇子に、王権の正当性を持たせるための方策でもあった。

 誉田別皇子については、その神格化に繋がる話として、誉田別皇子が気比大神と名前を交換した逸話が『日本書紀』に記されている。これによると、皇太子として敦賀の気比大神にお参りに行った際、大神と名前を交換したという。それ以来、大神を去来紗別神(イザサワケノカミ)といい、太子を誉田別尊(ホムタワケノミコト)と名づけたという。『日本書紀』は、それだと生来の名前がその逆になることになり、正確な記録はつまびらかではないと奇妙な書き方をしている。

 このことは、一般に不可解な記事として扱われているが、私は、あることを暗示している記事だと思っている。つまり、新王権にとって誉田別の神格化は絶対条件であり、渡来系勢力圏の有力な神である気比大神との名前の交換といった逸話には、真実味があると見ている。実際に何が行われたかは不明であるが、誉田別を、神の分身のような存在にするためにさまざまな方策がなされた中で、ひとつの象徴的な出来事を暗示している逸話であるということである。

 しかし、万世一系を旨とする後世の『日本書紀』の編纂者にとっては、系譜上、仲哀天皇の正当な後継者である誉田別皇太子に、この時点でことさら神格化を与える必要性はなく、むしろ不自然さを抑えるために意味不明の記事として残したと言えるのではなかろうか。

しかし、現実的には神功皇后と武内宿禰王権の後継者である誉田別皇子、すなわち応神天皇は、その代に初めて事実上の全国的な統一王権、すなわち大和朝廷の成立を見たことで、事実上大和朝廷初代の天皇という意味合いを持つことになった。そのために、その人物を祀るさまざまな施策が後世に施された。その代表的なものが、出身地である九州にある宇佐神宮と難波の住吉大社である。

 後の天皇家にとって最も重要な神社は、伊勢神宮と宇佐神宮である。伊勢神宮には、皇室のご先祖である天照大御神が祀られている。しかし、初代の天皇である神武天皇は祀られていない。宇佐神宮は宇佐八幡とも呼ばれ、全国に約四万社点在する八幡神社の総本宮である。歴代の皇室は、伊勢神宮に次ぐ宗廟として特別な敬拝をされてきた。宇佐神宮本宮には三つの神殿があり、一之御殿には応神天皇、二之御殿には比売大神、三之御殿には神功皇后が祀られている。このように、皇室が特別に扱う宇佐神宮に応神天皇とその母である神功皇后を祀り、伊勢神宮に天照大御神を祀っているのは、神武ではなく応神天皇が事実上の初代天皇であることを示しているとも言える。尚、神武天皇を祀る橿原神宮は、明治23年に創建されたもので、それまでは、古くから神武天皇を祀る主要な神社は無かったようである。

 次に、宇佐神宮の祭神について詳しく見てみよう。宇佐神宮の創建は和銅五年(712年)とされ、最初は八幡大神(応神天皇)を祀ったとされている。しかし、その創建以前からヒメカミ信仰と呼ばれる信仰の地であった可能性が高い。宇佐神宮は亀山・菱形山と呼ばれる小高い丘の上に鎮座している。この亀山は古墳ではないかとする説がある。邪馬台国宇佐説の人は、ここが卑弥呼の墓だと主張している。さらに、古くから信仰の対象とされてきた御許山(おもとさん)と呼ばれる山があり、宇佐神宮発祥の地とされ、現在は宇佐神宮の奥社がある。

三祭神の内、応神天皇とその母である神功皇后は後から祀られた神であり、中央御殿の比売大神が最初に祭られた地主神である。この比売大神とは何者なのか。宇佐神宮では比売大神を多岐津姫命(タギツヒメノミコト)、市杵嶋姫命(イチキシマヒメニミコト)、多紀理姫命(タキリビメノミコト)としており三人の女性神としている。

 この三女性神は、天照大神とスサノオノ命との誓約(うけい)によって生まれた神で、三女神は、後の筑前宗像神社の祭神となっている。宇佐神宮の奥社のある御許山(おもとやま)には、古い信仰としてヒメカミ信仰、すなわち卑弥呼と台与を祀っていた形跡がある。それは、邪馬台国が投馬国とともに畿内に進出した後も、台与の出身地である豊の国に、古代女王の信仰が色濃く残っていたことを思わせる。古い信仰が、後に宗像の三女神に置き換えられたのであろうか。天皇家にとって特別な神社が、『記紀』の中で消された邪馬台国の女王を祀り続けることはあり得ず、ある時点で神話の三女神に変えられたのではなかろうか。比売大神と卑弥呼・台与との関係も、今後研究されるべき課題である。

 次に、一之御殿の応神天皇であるが、
応神天皇は、別に八幡大神(やはたおおかみ)と呼ばれ、全国に数多くの八幡様と呼ばれる信仰の対象となっている。八幡大神とは、朝鮮からの渡来神八幡神のことである。「宇佐八幡御宣託宣集」によると、八幡神は三歳の小児となって出現し、「辛国の城に始めて八流野端の幡を天降して、吾は日本の神となれり」と言ったという。その母である三之御殿に祭られている神功皇后とともに、渡来系の人物であることを明確に物語っている。

 宇佐神宮の創建が和銅五年(712年)であると記したが、その年はまさに『古事記』完成した年であり、さらに720年が『日本書紀』完成の年である。この時期に宇佐神宮が創建されたことは、『記紀』において第十五代天皇とされる応神天皇が、実は特別な存在で、事実上の大和朝廷の初代天皇であったことを暗示していると思える。

 神功皇后については、大阪難波の住吉大社との関係も重要である。住吉大社の御祭神は、第一宮を底筒男命(そこつつのをのみこと)、第二宮を中筒男(なかつつのをのみこと)、第三宮を表筒男(うわつつのをのみこと)で、第四宮は神功皇后となっている。神功皇后以外の三祭神は、イザナギノミコトが出雲から逃げ帰ってきた後、禊払いの際に生んだ神とされている。

 ここで思い浮かべるのは、『住吉大社神代記』に、仲哀天皇の亡くなったその晩に、「是に皇后、大神と密事あり」とあることである。仲哀天皇の死は謎に包まれているが、『記紀』では、その死の十月十日後に誉田別が生まれており、父親は仲哀天皇であることを強記している。しかし、『住吉大社神代記』では、住吉の神との密事により誉田別が生まれたと暗示している。これは何を意味するのか。仲哀天皇の死に立ち会ったのは神功皇后と武内宿禰である。ここから導かれる推論は、武内宿禰こそが真の誉田別の父親であり、また住吉の神の分身であったということである。そうすると、住吉大社は三祭神と神功皇后を祀っているが、真実は、難波の地に新王権を築いた武内宿禰・神功皇后を祀るものではなかったのかということである。

 宇佐神宮が、卑弥呼・台与を隠して三女神に置き換えられたように、住吉大社でも、渡来人である武内宿称が隠されて、三祭神に置き換えられたのではないだろうか。その仮説が正しければ、宇佐神宮、住吉大社はともに、応神天皇や両親を祀る神社であったということになる。難波の地は、まさに進出王権の本拠地であり、権威のための信仰を集める地になりつつあったのではないだろうか。子である応神天皇、孫である仁徳天皇などの墳墓が、何故大和ではなく難波にあるのかという疑問も、解けそうである。


こうして出身地である九州と、進出拠点である難波の地に、神功皇后と武内宿禰、応神天皇を神格化する神社が創建されたことは、この三人が、大和朝廷にとっていかに特別な人物であるかを示しているのである。まさに大和朝廷の祖とも言うべき存在である。

神功皇后摂政の謎

 神功皇后は、誉田別皇子の摂政として、その活躍時期は長期間に及んだ。『日本書紀』によれば、摂政3年、正式に皇子を皇太子として立て、大和の磐余に都を造営したとされている。これまで記したように、実際は武内宿称との王権であり、事実上は武内宿禰が天皇的存在であったのであるが、中国史書との整合性をつけるため、倭の女王としての神功皇后の時代として編纂されたものである。しばらくはその記載にしたがって、神功皇后時代の出来事を追ってみよう。

 摂政5年には、新羅王が使者を遣わして朝貢との記事がある。実際は、神功皇后の三韓征伐の再、新羅から人質として連れてきた微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を取り戻そうとしたたくらみであったが、倭国側は使者にうまくだまされて、人質は新羅に逃げ帰ることが出来た。使者たちは捕らえられて殺されが、たくらみに乗せられた襲津彦が新羅に渡り、草羅城を攻め落とし大勢の捕虜を連れ帰ったという。

 三韓征伐伝説といい、この記事といい、この時代からなぜか急激に半島との往来記事が目立ち始めるようになるのであるが、これも武内宿禰・神功皇后の出自と関連していると思えば不自然ではない。

 さらに摂政47年には、百済王が朝貢、新羅の非を訴え、49年には百済とともに新羅を再征伐したとある。また『百済記』にもこの類似の出来事が書かれており、派遣したのは、倭国の天皇とされている。51年には百済王が再朝貢、皇后は武内宿禰とともに百済との友好を確認するような言葉を発している。さらに摂政64年に、百済の貴須王が崩じ、65年には後を継いだ枕流王(ちんりゅうおう)が崩じ、王子の阿花(あくえ)が若いため、伯父の辰斯(しんし)が位を奪ったなど、百済の様子が詳細に書かれている。新羅との争い、百済との友好が神功皇后時代の特徴でもある。おそらくは、王権の中枢勢力の渡来先である半島の複雑な情勢の中で、進められた政策であったものと思われる。 私は、応神天皇の生誕逸話や「宇佐八幡御宣託宣集」にあるように、この王権は新羅系とみているが、追われた故国との対決姿勢の背景には、もっと複雑な事情があったのかも知れない。

 さらに『日本書紀』は、摂政39年の記事として『魏志倭人伝』の記事を引用し、倭の女王の中国天子への朝貢記事を記載、翌年の40年、建忠校尉梯儁らの来訪記事などを挿入、邪馬台国の卑弥呼女王とは神功皇后の時代のことを指しているという立場をとっている。

 特筆すべきは、摂政69年、この年は漢の武帝泰初2年にあたると書き、『晋書・起居注』にある、倭の女王が通訳を重ねてきたという記事を紹介している。これは、卑弥呼の後の台与と思われる記載であるが、『日本書紀』は依然としてこれも神功皇后のことであるという体裁を採っているのである。こうした記事の挿入から考えられることは、後の『記紀』編纂の際に、動かすことが出来ない中国史書、特に『魏志倭人伝』や『晋書』対して、何とか整合性を持たせるための苦肉の編纂がなされたということである。

 これまで書いてきたように、中国史書にある倭の女王、しかも中国に朝貢する女王ということに整合性を持たせるために、実際は武内宿禰が中枢となる王権であるにもかかわらず、天皇ではない皇后の存在を大きく描いたための苦肉の説明なのである。無論、天皇が中国天子に朝貢するはずが無いとの立場である。

 そのために神功皇后は、69年間の摂政を務め百年間生きた人物として描かれ、さらに武内宿禰は影の存在にならざるを得なかったのである。無論、応神天皇は仲哀天皇の子であるという大前提のもとである。さらに卑弥呼のことが中国史書に年代がはっきりと記載されているため、神功皇后はその記載に合わせる形で、卑弥呼の時代である3世紀の人物として『記紀』に登場することになったのである。

 このように、神功皇后とは、実際は武内宿禰の后でありながら、天皇の役割を果たすために誉田別皇子の摂政という役割を与えられ、卑弥呼や台与などを記載した中国資料に合わせるために、69年間の摂政という不自然な役回りを与えられたであった。神功皇后は、こうした、いわばつじつまあわせのために不自然に描かれたため、架空の人物という通説にさらされてきたのである。しかし、事実上は武内宿禰が治めた王権の時代であり、応神天皇の即位が遅れたのは長い摂政のためではなく、父である武内宿禰の死を待って継承したためと見れば、極めて自然なことだったのである。

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