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 第21章 大和朝廷の誕生

初代になった応神天皇

 これまで見てきたように、神功皇后とは、『記紀』編纂時にかなり意図的に描かれた人物であり、実際は渡来系勢力をまとめた武内宿禰主導の王権であった可能性が高い。その王権は、九州周辺から畿内に入るにあたり、西日本や、日本海勢力、製鉄技術を持つ天日槍の末裔勢力などを巻き込みながら、畿内の旧来勢力を打ち破り、または取り込みながら、徐々にその王権を確立していった。

 また、その出自から朝鮮半島との往来も一気に進んでいった。その実態は、新羅との不仲や争い、百済との友好であったことは既に述べた通りである。半島に残る高句麗の広開土王碑には、4世紀末から5世紀にかけて、倭国勢力の半島への侵攻や百済、新羅などとの争いの様子が書かれているが、こうした状況を裏付ける資料でもある。

 神功皇后・武内宿禰の王権は、諸状況を勘案してみると、これまで畿内に進出した王権と違い、少なくとも畿内から西日本一帯にかけての地域をその勢力下に置く本格的な王権を誕生させたと言うことが出来る。しかも、半島諸国との往来も盛んになってきたことは、その航路に当たる西日本一帯の制海権を持ったことも意味し、畿内周辺から九州にいたる地域を押さえた倭国の王権として、事実上の大和朝廷の基礎を築き上げることに成功したと言える。

 住吉の港は、古くは墨江之津、住吉津と呼ばれ、畿内から外洋に出る拠点の港であった。神功皇后と・武内宿禰は王権の基盤作りに努め、畿内の安定を図りながら、子である誉田別皇子にやがて王権を委ねた。誉田別皇子は、応神天皇として現在まで続く大和朝廷の事実上の初代天皇になったものと考えている。無論、大和朝廷の成立が高らかに宣言されたわけでも、後の『記紀』にそのように書かれたわけでもないが、当時、西から来た新たな王権誕生は全国に周知されたわけであり、実態としての成立という話である。
しかしその王権の正当性・神話性を示すためにも、やがて『記紀』の編纂時には、九州の邪馬台国連合の畿内入りの話が神格化され、先行した出雲勢力などの話も引き継がれ、万世一系の高天原神話や神武東征の話になった訳である。しかし、これまで述べてきたように、実際には王権は引き継ぐような形ではあるが交代していた。万世一系とは全く別な話であると言うしかない。

 そうした見方で言えば、新王権の本来の初代は第十五代応神天皇であり、その構築にあたったのが神功皇后と武内宿禰である。しかし、既に述べたように『記紀』では、武内宿禰を影の人物として描かざるを得ない事情があったために、仲哀天皇の死や神功皇后との三韓征伐などの出来事は入れながらも、応神天皇は仲哀天皇の子として継承されていて、王権の交代は無い。『記紀』の記載はあくまで初代天皇は神武天皇であるとされた。

 しかし、そうした建前とは別に、応神天皇に真の初代天皇としての神格を密かに与えたのも事実である。胎中天皇としての生誕秘話、気比大神との名前の交換逸話、『古事記』完成に合わせた宇佐神宮の創建、さらには後の和風諡号ではあるが神武天皇、崇神天皇と並んで天皇の名前の中に神の字を持たせたことなどである。そのほかにも、第二十五代武烈天皇に子が無く、皇統を捜し求めて越前三国から応神天皇五世の孫である男大迹王(おとどおう)を捜し出して、第二十六代継体天皇にした話も有名である。皇統断絶の危機に際し、かろうじて保たれた皇統も、応神天皇の血脈を持ち出して納得させたのであろうか。通常なら通用しない五代前との血脈も、実質初代の応神天皇との結びつきであったからこそ説得力を有したのかも知れない。

 いずれにしても、『記紀』上でも応神天皇は特別な存在の天皇であることは確かである。次に、事実上の大和朝廷初代の応神天皇と次の仁徳天皇の事績について見てみよう。

応神・仁徳天皇の時代

 応神天皇は、神功皇后の摂政3年の時に皇太子となり、摂政69年、100歳の時、皇后の崩御で皇位についたことになっている。しかし、皇后の没年時については、前述したように『晋書』の台与と思われる記事に合わせるため意図的に伸ばされたのであり、信憑性は無い。応神天皇の実際の即位は、父である武内宿称の死を継ぐ時期であったと見るのが自然である。しかし、武内宿称は後の仁徳天皇の代にも登場するなど、天皇ではなく300年以上にわたり活躍する超人的な存在として描かれているため、天皇の実際の即位年は不明である。『日本書紀』では、神功皇后65年の百済辰斯王の記事が、応神天皇3年の記事として書かれるなど、時代がだぶっているものがあり、応神天皇の即位は神功皇后の崩御した69年ではなくもっと早かったことを示している。そうすると、実際の武内宿禰の死も、神功皇后より早かった可能性もある。

 応神天皇の時代には、東の蝦夷が皆朝貢してきたとする記事があり、西日本だけでなく、東日本もその支配下におく全国的な王権、すなわち大和朝廷としての力を持つようになっていった。5年には、全国に海人部、山守部を定めるなど、全国的に統治組織を進めたことが推定される。

 この時期にも半島に関する記事は増加している。百済辰斯王が倭国に礼を失したため、紀角宿称などを派遣して辰斯王を殺し、阿花王を立てたこと。7年には高麗人、百済人、任那人、新羅人などが来朝し、韓人池などの土木工事にあたったこと。8年には百済王からの使者来朝などである。

 16年には、日本に漢字や論語などをもたらした王仁という学者が帰化している。また、百済から弓月君が新羅の抵抗を受けながらも多くの人民を連れて来朝した。この人々は秦氏の祖となったといわれている氏族で、機織りや養蚕、仏像彫刻など多くの技術や文明をわが国にもたらした。後に漢氏と並ぶ渡来人集団の代表的な氏族となった。

 応神天皇の皇居は、大和の明宮と難波の大隅宮の二つとされている。次の仁徳天皇の皇居は難波高津宮であり、二人の陵墓も難波にある。この時期、難波と大和に活動拠点を置き、時に移動していたものと思われる。

 仁徳天皇は、応神天皇の第四子で大鷦鷯(おおさざき)皇子と呼ばれた。本来の皇太子は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)であるが、応神天皇崩御後、兄は弟の大鷦鷯に皇位を譲ろうとした。弟にどうしても固辞され、たまりかねた菟道稚郎子が自殺したため、やむなく大鷦鷯皇子が皇位を継いだとされている。仁徳天皇の代には、難波の堀江の開削や茨田堤の築造、灌漑池の築造などの土木工事を進めたという記事のほかはあまり事績は無い。

 逸話としては、高殿に登り遥かに眺めると、民のかまどから煙が見られない。これは人民が貧しくて炊く人がいないからだろうと言って、今後3年間の全ての課税をやめ、自身の衣食の倹約、皇居も一切の修理などを控えるなどの徳政をした話がよく知られている。この逸話は、和風諡号である「仁徳」の根拠になった話のようである。

対外的な記事としては、53年、新羅が朝貢を怠ったため、臣下を派遣して攻めたこと。55年、蝦夷が叛いたため、やはり臣下を派遣したこと、58年には呉国、高麗国が朝貢に来たことなどが記されている。

 仁徳天皇は87年に崩御、その墓は、難波の百舌鳥野稜(もずののみささぎ)に葬られた。現在の堺市の大仙古墳が比定されており、全長486メートルで国内最大の古墳となっている。一方、応神天皇稜は、大阪府羽曳野市の誉田山(こんだやま)古墳とされ、これも全長425メートルで第2位の規模の古墳である。皇室陵墓で調査が出来ないため考古学的に確定されたわけではないが、この親子の二つの長大な古墳が、大和朝廷の成立期の力を誇示する建造物として、両親が開いた難波の地に存在することは、大きな意味を持っているような気がしてならない。渡来系王権の後継者として自らの墳墓の地を、大和ではなく、先祖の地九州や半島に通じる地として難波を選んだと考えるのは、思いが過ぎるであろうか。

持統と不比等の描いた国家像

 我が国の国史と言える史書は『日本書紀』である。また、天皇家を中心とした史書として『古事記』がある。それ以前にも聖徳太子や蘇我馬子らが作ったとされる『国記』『天皇記』などがあったとされるが、蘇我蝦夷・入鹿親子が滅ぼされる時に大部分焼却され、一部分が『記紀』編纂に使われたようである。『日本書紀』は養老4年(720年)に完成したもので、天武天皇10年(681年)天皇の勅命を受けた舎人親王などが長年かかって編纂したものである。

 また、『古事記』編纂も同じく天武天皇によって始められたとされ、元明天皇の命を受けて和銅5年(712年)太安万侶によって献上されたもので、この時代は、律令国家としての体裁を整えるあらゆる作業が開始された時期であり、律令法令や国史編纂への情熱も高まっていた時期でもあった。


 しかし、同じ天武天皇の勅命で二つの歴史書の編纂が始まったというのも、不思議なことでもある。『日本書紀』が天武天皇の勅命を受けて正式な国史として編纂されたのは事実だろう。天武天皇十年の春、川島皇子、忍壁皇子ら、親王、諸王、諸臣を集めて、律令を定め、法令を改めるに際し、帝記及び上古の諸事を集めて、国史の編纂を命じた。

 一方、『古事記』については異論がある。天武天皇の勅命で編纂されたとする根拠は、『古事記』の太安万侶「序」にある。しかし、そこに記してあるいきさつは、『日本書紀』に関するものと同じであり、この序は後世の作と言う研究者もいる。『古事記』の内容は、天皇を中心とした叙事詩とも言えるもので、歌が多く文学的である。また、詳しい記述は、初代神武天皇と十代崇神天皇から二十一代雄略天皇位までで、後は極めて簡略な記述や歌に終始し、しかも三十三代推古天皇の記述で終わっている。四十代天武天皇の勅命で始まった歴史書とするには、あまりに不自然さが付きまとうのも事実である。

 天武天皇10年の指示で始まった国史編纂は『日本書紀』のみで、『古事記』については、同時代にまったく別な流れで編纂されていた文字通り「ふることぶみ」であった可能性がある。それが後に、天武天皇勅命であることを記した「序」文が加わったため、『日本書紀』と同じくスタートした国史編纂と捉えられた可能性があると思っている。これまで『記紀』というくくりで説明してきたのは、同時代を説明する大同小異的な共通部分が多く、比較検討する価値があるからであり、我が国の正史としての歴史書という立場で見れば、あくまでも『日本書紀』であり、その後の『続日本記』であると理解している。

 藤原不比等は、藤原鎌足の子として659年から720年までの時代に生きた人物で、その活躍時期はまさに前記した律令国家体制の整備時期に当たり、大宝律令や養老律令の整備にも関与した。一説によれば天智天皇の御落胤とも言われており、天智系の中の重要人物とされている。

 一方、藤原不比等と関係が深かった人物として持統天皇がいる。天智天皇の娘である鵜野皇女は、政敵である天武天皇の后となり、壬申の乱後、崩御した天武天皇の後を継いで持統天皇となった。持統天皇は天武天皇の死後、当時人望が高かった姉の太田皇女の子である大津皇子を謀反の疑いで殺し、皇太子である草壁皇子のライバルを抹殺した。しかし、草壁皇子が急逝したため自ら即位したのである。その後、694年に藤原京に遷都、697年には天武天皇系を退け、草壁皇子の子、すなわち孫である軽皇子を15歳の年少のまま皇太子に立て、同年に譲位し文武天皇として擁立した。また、藤原不比等は自らの娘である宮子を文武天皇の皇后として嫁がせた。

 持統天皇が、こうした強引な手法で天智系への復帰という命題を押し通せたのも、当代の実力者藤原不比等とともに進められたことが最大の要因であった。幼少の天皇の後見者としての二人の思いは、中国や半島国家に伍して律令国家としての国家構築と、孫であり娘婿である文武天皇の安泰であり、天皇体制不可侵の権威作りであったろうということは想像できる。そのための万世一系の皇統譜と歴史書の編纂はまさに最大事であったのである。

 この二人を含めた『記紀』の編纂者たちが最大に苦労したのは、王権の交代を否定し、連綿と続く万世一系の皇統譜にあったことは間違いない。これについては後に触れるが、実は最大の功績と呼べるものは、また別にあった。それは天皇の神格化である。初代天皇以前に、延々と続く神の世界を創作したことである。そのために天皇は神の子となり、神聖性をもった不可侵の存在となった。『古事記』でいうならば、神代編と呼ばれる上巻の物語である。

 高天原で繰り広げられる神々の物語、そして下界の支配者となるために天からの降臨の話、それらは後々の歴史の中で、悠久に存在し続けた皇室の不可侵性を作り上げる元となったのである。現存する世界の王室の歴史を見ても、初代はみな征服王や英雄であって、神であったという由来を持つ皇室はほとんど無い。イギリス王室も11世紀のウィリアム征服王が始祖とされていて、日本の皇室ほど古い歴史を持つものも無い。

 こうした神格化は、どのようにして生まれたのであろうか。皇室の祖先は西の方の九州からやって来た。しかしその先は高天原という天にある神の世界であった。その神の世界から天孫降臨という神話で地上の統治者となるべき天皇の祖が降りてくるわけだが、この話のルーツは、朝鮮半島の伽耶国の建国神話との類似性が高い。伽耶国の神話では、亀旨(クジ)峰という山に天から金の卵が下ってきて、その卵の中から始祖となる首露王が誕生したというものである。

 しかし、『記紀』の神話では、その以前に神々の世界の時代が長く描かれている点に違いがある。なぜ、神々の世界が描かれたかというと、これもモデルとなった話があったためと思われる。それが邪馬台国の卑弥呼・台与の話である。第11章の「日本建国神話」の中で詳しく記したが、安本美典氏によれば、邪馬台国の想定される甘木市周辺には、高天原神話に出てくる地名との類似地名が数多くある。また、高木の神を祭る高木神社など多くの関連性が見いだされると言う。天照大御神の岩戸隠れの話も、卑弥呼と台与の交代と、当時九州に実際あった日食との関連が想定されるとしている。

 いずれにしても、こうしたモデルを使いながら、神々の世界と統治者たる天皇の降臨の話を作り上げたことが、その後の天皇の神聖性と不可侵性を作り上げたことは間違いなく、その意味では『記紀』編纂者たちの最大の功績と言ってよい。

 こうして、天武天皇から始まった国史編纂ではあるが、その内容と根底にある国家像の構築に、持統と不比等の二人が大きく関わり、神話から悠久に栄える神聖なる天皇中心の国家像を作り上げたと見ている。ちなみに持統天皇の死は703年、藤原不比等の死は720年、『古事記』の完成は712年、『日本書紀』の完成は720年である。不比等は、まさに念願の国史である『日本書紀』の完成を見届けてその生涯を終えたと言える。

意図的な『記紀』編纂

『古代遊人の古代史ロマン』がこれまで述べてきた仮説と、それに基づく大和朝廷成立までのあらすじは次の通りである。

@     九州に『魏志倭人伝』に描かれた邪馬台国及びその連合が存在した。連合国家の中で邪馬台国・卑弥呼はシンボル的な存在で、実権は当初伊都国王が、その後の国中乱れる争いの後、投馬国王が実権を握った。

A     3世紀に入ると半島との交流や国家意識の高まりで、出雲や吉備の勢力が畿内に入り、倭国の中枢部に初期三輪王権を作り上げていた。しかし、まだ近畿地方に限定される原始的な王権であった

B     3世紀末から4世紀にかけて、不穏な半島情勢、畿内情報などを受けて、九州の投馬国や邪馬台国を中心とした一大勢力が、本格的に畿内進出を開始し、大和纒向に大和イリ系王権を樹立した。銅鐸の消滅もこの頃である。この出来事が後の神武天皇東征神話のもととなった。おそらくは投馬国王が崇神天皇に比定される人物であった。

C   投馬国・邪馬台国連合の進出で出来た大和王権は、イリ系王権と呼ばれ実質三代続いたが、三代目候補の五十瓊敷入彦命(二人目の東征ヤマトタケルの実像)は、東国との争いの中で死亡し、王権としては滅亡し、畿内は盟主不在状態となった。

D     投馬国・邪馬台国連合東遷後の北九州には、半島から多くの渡来人が来て一大勢力を形成した。邪馬台国連合残存勢力と融合しつつ、狗奴国との争いを経て九州に新たな王権が誕生した。これを九州タラシ系王権と呼ぶ。大足彦(オオタラシヒコ・景行天皇)が最初のリーダーである。さらに、ヤマトタケルのモデルは畿内と九州に二人いた。

E    タラシ系王権の王、足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀天皇)の后である気長足姫(オキナガタラシヒメ・神功皇后)が夫の死後、九州周辺の渡来系勢力のリーダー武内宿禰と再婚し、誉田別皇子(ホムタワケ)を産む。その後大和イリ系王権の消滅で盟主不在状態の畿内に日本海勢力などと結び進出する。畿内勢力との争いに勝ち、協力的な勢力を巻き込みながら難波と大和に拠点を作り、新たな大和王権すなわち
「大和朝廷」
の基礎を開いた。

F   武内宿禰と気長足姫の子である誉田別皇子が、応神天皇として大和朝廷の事実上の初代天皇となった。

 『記紀』編纂、特に国史としての『日本書紀』編纂にあたっては、文字の無かった時代、王となる人が西からやって来たというような人々の記憶と伝承の中に色濃く残っていた歴史的な事象について、無視することは出来なかったはずである。さらに、中国史書に記された倭国情報と整合性を取る必要性にも迫られ、中国や半島情勢に詳しい帰化人たちの知識も生かされたことであろう。また、多くの氏族が伝えていた氏族としての伝承や創作話なども加えなければならない事情もあったものと想定される。その中で最大の課題であり目的である万世一系の皇統譜と歴史をどう保ちながら歴史書としてまとめるのか、膨大な原資料をどう繋ぎ合わせるのか、編纂者たちの苦労は並大抵ではなかったものと想像できる。

しかしながら、この「初期三輪王権」「大和イリ系王権」「九州タラシ系王権」「大和王権」と続いた四つの王権は、大きな争いで前王権を倒したのではなく、極めて平穏な形での王権の継承となっていたのものであり、最終的に一つの王権としてまとめられたことも必ずしも不自然では無いのである。

天皇の神格化と並んで重要なことは、大和地方で繰り返されたいくつかの王権の交代を、一系のものとして繋ぎ合わせる作業であり、当時の軽皇子(文武天皇)の権威の強化と天皇をいただく律令国家としての倭国の国家像をつくりあげることであった。そのため王権の交代も、比較的穏やかな形で前王権の血脈を受け継ぐ形がとられたものと思っている。ただし、皇統は連続してはおらず、意図的に繋がれたことは間違いない。各豪族達も含めて作られた継承の伝説・歴史となっていった。

 白石太一郎氏が最近読売新聞に、真の継体天皇稜とされる今城塚古墳の発掘調査終了に関する特集記事の中で、「継体革新」より「王統継承」と見るのがふさわしいと調査結果を表現していたが、実際、倭国の新王権は、前王権を徹底的に破壊するのではなく、むしろ融和策を講じたことは明白である。こうした日本型革命の実態が、万世一系の思想を生む根底にあったことは間違いないと思っている。

 そうした基本方針のもと、最も必要であったのはその正当性を生むためにも初期の王の誕生を巡る神話の創作であった。高天原とはどこのことなのか、なぜ、神武東征が九州の日向からになったのか。出雲の神との葛藤の話は何故加えられたのか。これらのことに@、A、Bの仮説が回答を与えてくれるように思う。

 崇神天皇は何故ハツクニシラススメラミコトと呼ばれたのか。イリ王権とタラシ系王権は繋がっているように記述されているが、タラシ系王権になると何故九州の記述が中心になるのか。ヤマトタケルの伝承が何故別人のように二つの特徴を持つのか。これらのことにC、Dの仮説が回答を与えてくれるように思う。また、架空の人物とされる神功皇后、武内宿禰、さらには誉田別が何故半島と九州に関連した中で描かれ、畿内に戦いながら帰還する話になるのか。大和朝廷はいつ出来たのか。これらのことにE、Fの仮説が回答を与えてくれるようにと思う。

 邪馬台国についても、中国資料に書かれた事実は消せないため、何とか大和にあった神功皇后の話に置き換えたが、そのために神功皇后は偉大な女帝として、長い摂政期間を持つことになり、武内宿称が影に追いやられたことは前章で述べた通りである。そのほかにも、天孫降臨の話も、自らの孫への継承を正当化する持統・不比等の意向が組み込まれたなど、数多くの創作意図が見えている部分がある。

 しかしながら編纂者たちは、いくつもの矛盾点と戦いながらも、時には神話という魔力に助けを求めながら、見事に万世一系の天皇国家としての歴史を書き上げたのである。彼等にしても、決して嘘八百の歴史ではなく、伝承に沿った正確なあらすじに従って書いたことは間違いない。神武天皇東征という説話を組み込んだのもそのためである。中国の辛酉革命説に従い神武天皇即位を紀元前660年に置いても、初期三輪王権から繋ぎ合わせた王権の王たちの中に架空の人物を入れなかったため、古代天皇の寿命を大幅に引き伸ばしたのである。不自然さを承知であらすじを曲げなかった意識が、まさに読み取れるようである。 

こうして出来上がった『古事記』『日本書紀』は、その後も日本の歴史書として存在し、天皇家に対する日本人の意識に大きな影響力を持つことになった。長く続いた武士の時代の政権交代も、諸外国のように本当の意味での革命ではなく、むしろ、神格化した天皇の存在を利用する形で進められたのは、周知の事実である。武家社会になってからも激しい戦いの後で勝ち取った政権も天皇から征夷大将軍などの位を授けられて初めて認証され、政権が権威づけられたわけである。天皇不可侵の思想が、日本人の心底の中に既に定着していたと見るべきであろう。島国の農耕民族に合う統治体制であったのかも知れない。

 戦後は、天皇の神格化の是非が問われ、天皇の人間宣言も出される時代に変わった。『記紀』の編纂者たちは、当面の律令国家体制整備の一環として作り上げた歴史書や万世一系の思想が、後々の日本と日本人にこんな大きな影響を与え続けるとは、想定外のことであったかも知れない。今日、天皇制は日本人の心の中に定着している。最近の男系男子による継承問題の際は、2千年以上一系の皇統を持つ世界最古の天皇制というニュースが駆け巡ったし、神武天皇の即位の日が建国記念日として祝日にもなっている。歴史の真相解明とは別に、今後も我が国は、『記紀』などに基づく天皇制・皇室を持つ国家としてあり続けるであろう。持統天皇と藤原不比等の夢は、まさに果たされたと言えるかも知れない。
                                        (第2部 完)
    
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