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第6章 邪馬台国への旅立ち

海上の道

 『魏志倭人伝』に出てくる主な数値基準や行程がわかってきたので、いよいよ邪馬台国への探訪を始めてみたい。これまで細かい数値や各説の検討などの文章が続いたので、これから少しの間、古代の旅行者になったつもりで旅を楽しんでみたい。

 『魏志倭人伝』には、郡から狗邪韓国までの記事は、「郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国七千余里」と書かれている。郡の役所(ソウルの付近)から水行で出発し、倭国への数々の下賜品を満載した船は、韓国の西海岸を南下し、さらに東に迂回し倭人の住む国、狗邪韓国までの航海をする。韓国の西海岸は多数の小さな島が入り組み、また潮流が激しく恐らく難しい航海であったと思われる。暦韓国と言うのは海岸に沿って水行したことを物語る言葉である。

 狗邪韓国は、弁韓十二カ国のなかの一国で、前述したように倭人の居住地区でもあった。加羅(カラ)とか伽耶(カヤ)とも呼ばれていた。今の韓国の南西海岸、釜山のあたりと思ってよく、当時の港は釜山か鎮海あたりと思われる。日本でも「釜山港へ帰れ」など歌で知られている釜山の近くには、有名な金海遺跡がある。倭国の甕棺と共通したものが出土し、文化の共有圏であることを物語っている。その近くには亀旨(クジ)峰という小高い丘があり、日本の天孫降臨の神話によく似た伽耶国の始祖伝説があることが、韓国の『三国遺事』という史書に記されている。

 それは、天からこの亀旨峰に黄金の卵が六個降りてきて、その中から六人の王子が現れそれぞれ六伽耶の王になったという伝説である。天から降臨して王になることや、その地名が日本の天孫降臨の神話にある「久士布流(クシフル)峯」に発音が似ているなど、伽耶国の始祖伝説と日本の天孫降臨の神話が類似しているのも偶然とは思えない。伊都国の津に近いところに秀麗な形をしてシンボル的に存在している加也山という山があるが、九州に来た倭人が故郷の伽耶を偲んでつけられた名前であることは容易に想像できる。この狗邪韓国は、まさに弁韓諸国の中にあって倭人の文化圏を構成する一国であることが明らかであり、倭人と韓人の混在した国であった。また後に任那と呼ばれて大和朝廷の日本府が置かれたとされるなど、日本とのかかわりの多いところである。

 狗邪韓国に到着した魏使一行は、彼らの認識による倭国の北岸の地に到着し、ここで倭人達から倭国の情報を入手したに違いない。魏使は、このあと初めて一海を渡り、千余里で対馬に至った。対馬は山が海に迫り、耕地がわずかで、住人は海人というにふさわしく南北の国々との交易で生計を立てていた事が記されている。官に卑狗(ヒコ?)副官に卑奴母離(ヒナモリ)がいたと記されている。

 対馬の北端にある比田勝の港から釜山まで50キロであり、戦前はここから釜山までの定期行路があり日常的に往来していたし、晴れた日は最北端にある韓国展望台から朝鮮半島が良く見えるという。前述したように古代の船を再現した「なみはや号」による実験航海でも、対馬から釜山まで一日で行けたのであるからまさに近い関係と言える。

 次に、南に渡海千余里して一大国に至るとあるが一大は壱岐で、一大は一支の書写の間違いと思われる。対馬より平野が多く畑があるがその収穫だけでは生きていけず、やはり南北に交易をしていると書かれている。対馬と同じく官に卑狗、副官に卑奴母離がいたと記されている。近年原の辻遺跡が発掘され、壱岐国の中心部の全容が明らかになりつつある。

 壱岐よりまた海を渡り末羅国に至るとある末羅国は、佐賀県東松浦郡で中心部は唐津付近、津は呼子及び唐津にあったもとの思われる。魏使は呼子に立ち寄った後、沿岸を南下し唐津沖を東方面に向かい、前原周辺にあった伊都国の港に向かったと思われる。「草木多く、行くに前人を見ず」の記事や、「東南陸行五百里」の記事により呼子または唐津から陸行したとする説が一般的であるが、私は沿岸に沿う形で水行したものと考える。そうすると最初に南下し、次に東行するので、陸行すれば東南の方向と認識したのはほぼ正確ではないか。それまで海を渡って島めぐりであったので、ここからは陸地で結ばれているとの説明のための表現であると考えられる。船は伊都国において色々な物資を区分し女王に伝送するものや魏使の荷物など捜露するわけだから、必ず伊都国の津までは行ったと思う。地形を考えてもわざわざ呼子や唐津で上陸しそこから伊都国まで歩く必要はない。草木多し・・などの表現は呼子か唐津に一時寄港した時の描写であろう。官の名前が書いてないのも、本格的に上陸しなかったことを思わせる。

伊都国と一大卒

 伊都国は、末羅国より東南陸行五百里にあり、世々王がいて往来する郡使が常に留まる所と記された特別な存在の国である。現在の福岡の西、糸島半島のある糸島市(平成22年に旧前原市・志摩町・二丈町が合併)周辺及び東の早良平野一帯に展開していた伊都国は、現在の糸島市や旧糸島郡にその名を留めている。糸島郡とは旧怡土(いと)郡と旧志摩郡が一緒になった時の名前であり、怡土と伊都国は同じ地名であり、前原市高租山の麓には吉備真備が築いたとされる怡土城跡が残っている。伊都国は九州における倭国の代表的な津(港)でもあった。

 「自女王国以北、特置一大卒、検察諸国、諸国畏憚之、常治伊都国、於国中有如刺史、・・」と『魏志倭人伝』にあるように、伊都国には一大卒と呼ばれる検察のような役割を果たした組織が置かれていた。『魏志倭人伝』解釈の中で問題の所である。一般には邪馬台国が、一大卒を伊都国に置いて邪馬台国連合諸国を検察したとされているが、邪馬台国と伊都国の関係からみると、私は一大卒を置いた主体は伊都国王で、魏使とともに諸国を検察していたのではないかと思っている。

 また一大卒という名称が一大国と一支国の間違いと一緒で、一支卒の可能性があることから、伊都国内の生(いき)の松原あたりにあって一支卒(イキノ卒)と呼ばれた可能性があり、また「諸国がこれを畏憚す」とあるので、連合国家を統率する上での軍事組織だったのではないかと思っている。魏使が倭国に来た時は、伊都国に常に留まるのも伊都国こそが倭国の中枢部だからであり、軍事組織に守られる安全地帯だったからである。魏使梯儁は3年、張政は2年倭国に留まった。

 松本清張氏は『古代史擬』の中で、「一大卒は、魏の命令を受けて帯方郡より派遣されてきた女王国以北の軍政官と考える」と述べ、治すとは治めるの意味としている。さらに畿内説の邪馬台国派遣説に対して、軍隊を派遣していなければ諸国は畏憚之するはずもなく、そうするとこの時期に畿内から九州をふくむ大和朝廷が成立しているはずがないと説く。また一大卒を女王国の以北に置くとの文章も、畿内説では全く説明不可能とする。この一大卒の存在は、解釈いかんで邪馬台国の畿内説、九州説、倭国と魏の関係が一変するほど重要である。

 伊都国は「世有王皆統属女王国」とあり、一般的には世々王がいて女王国に統属すと読まれているが、これは世々王がいて女王国を統属すと読むべきかと思っている。邪馬台国の卑弥呼がシャーマンとして祭祀を取り仕切り、伊都国王が政治、経済、軍事、外交の実権を握っていたと考えられ、伊都国と邪馬台国はいわば盟友関係にあったのは確かである。したがって伊都国は、世々王の存在があり、一大卒を置いた所であり、「郡使(魏使)の往来常に留まる所」など、他の諸国とは別格の存在であり、倭国の中心地と言っても差し支えない存在であった。

 倭国から郡や京都(洛陽)に行く場合、また郡より船が着いた場合も伊都国の津においてすべて倭国の玄関で検問し、女王に届ける文書や賜物などを区別伝送したとある。恐らく女王と倭王である伊都国王への荷物を区分したのではないかと考えている。港は加布里湾に流れ込む雷山川が今よりずっと切れ込んでいて、博多湾に通じる瑞梅寺川が直結して糸島水道となっており、その中間部の伊都国中心部である現在の糸島市の前原周辺にあったと思われる。伊都国の政庁、魏使の宿泊施設などが前原周辺に立ち並んでいた事であろう。

 現在の糸島市の北に泊(とまり)という地名が残っているが、この周辺に津、すなわち泊りがあったと推定されるので魏使の滞留施設も恐らくはこの付近にあったと思われる。乗ってきた船のある近くが便利だからである。もともとこの糸島半島については、もとは島であり加布里湾と反対側の福岡湾に面した瑞梅寺川が゙流れ込む今津湾と水行でつながっていた時期があった。いつの時期に陸続きになって糸島半島になったのか不明であるが、伊都国の時代には少なくとも両側が水道でつながっていて、前原町はどちらの湾にも行ける所にあり、まさに水陸交通の要の場所だったと思われる。

  伊都国は邪馬台国と密接に結びつき、邪馬台国連合(広義の女王国)における要の国であった。邪馬台国の本家分にあたると言ってもよい。世々王が居て、邪馬台国に居住する女王のもとで邪馬台国連合の実際の政治、経済、軍事、外交などの実権を握っていたのではないか。そのため邪馬台国連合全体を指して女王国を統属という言葉を伊都国に使ったのではないか。ちょうどイギリスの女王陛下と首相のような関係と考えられる。卑弥呼に与えられた親魏倭王の金印を郡からやって来た魏使梯儁(テイシュン)から拝仮したのは、この伊都国王だった可能性があると思っている。

  私は、魏使は常に伊都国に留まり、百里(約8キロ)先にある奴国、不弥国については滞在中に足を伸ばしたかも知れないが、投馬国や邪馬台国には行かなかったと思っている。理由は伊都国で全て役割が果たせたからである。また、『魏志倭人伝』には伊都国の戸数が千余戸と書かれているが、『魏略』には万余戸)と記載されている。伊都国王の存在感から推測すれば万余戸の方がより実態に合っているかと思う。

 この伊都国地内にある平原遺跡の竹割型木棺の四隅から、超大型の国産鏡四面、中国の後漢式鏡が四十二面も出土した。発見者の考古学者原田大六氏は、この大鏡こそ「八咫の鏡」ではないかと疑問を投げかけ天照大神の墓の可能性に言及した。原田氏は伊都国が勢力を増し、やがて畿内に進出して邪馬台国を築き上げたとする説の持ち主で、箸墓古墳を卑弥呼の墓としている。

 伊都国内にはこのほかにも歴代の王墓とみられる遺跡が、三雲、井原ヤリミゾなどあり後漢鏡が大量に出土している。この後漢式鏡こそ卑弥呼が下賜された鏡である可能性が最も高い。

奴国

 奴(ナ)国は、伊都国の東南百里にあると書かれている。伊都国の中心部は前原町周辺であるとしても東の早良平野にも展開していたと思う。この早良周辺は博多湾沿岸で最も早くから開けた所であった。奴国、不弥国は、そこから東南方向に百里〜二百里の地(8キロ〜16キロ前後)のあたりに想定される。私は伊都国から早良平野と地続きの福岡平野に展開するこの二国は、伊都国の高台から望観されたと思う。誇張があるとは言え『魏志倭人伝』に戸数二万余と記された大国はこの大きな平野部にある事でつじつまも合うのではないか。この地が奴国の比定地になった理由の一つに、古代から儺(ナ)の津と呼ばれていたことがある。博多湾に臨むこの地は古代から港町として発展していた所である。

 九州で最も早く弥生文化の流入口となった奴国は、その先進性と稲作を中心とした生産力を背景に部族国家を作り上げ発展していった。平成4年、福岡市西区の吉武高木遺跡で弥生時代最古にして最大の高床式の建物跡が発掘され、王の宮殿か政庁の建物と見られている。弥生時代中期(紀元前2世紀)頃の建物と見られているが、この時期の住居は竪穴式住居というのが考古学の常識であり、この地の先進性を物語る大遺跡である。


 『後漢書』にある紀元57年、後漢に朝貢し、「漢委奴国王」の金印をもらった倭奴国王をこの奴国王とする人が多い。その場合、委の字を倭の略字と見て「漢の倭の奴国王」と読むわけである。後の江戸時代、志賀の島でこの金印は偶然発見された。志賀の島も奴国の地内であり、これが隠匿されるようにして見つかったため、この地が奴国の地であり奴国は没落していった事の傍証となるのではないかと言われている。

 私は、博多湾沿岸は伊都国の勢力範囲と考えていて、
第2章の「『後漢書東夷伝』と倭国の国々」で記したように「漢委奴国王」の金印をもらった実質的な倭国王は伊都国王であり、金印の読み方については漢の倭の奴国王ではなく、漢の委(倭)奴(ワナ又はワド)国王と考えている。したがって『後漢書』の倭奴国王は奴国の王ではなく、倭国の王を表わす表現である事に変わりはないと思っている。

不弥国

 不弥(フミ)国は奴国の東百里と書かれている。地図上で捜してみると、早良平野中心部から油山の北側を東方向に15五キロほど進むとちょうど今の春日市の北側周辺が当てはまる。春日市には有名な須玖岡本遺跡がある。支石墓であり甕棺の中から前漢鏡三十余面が出土するなど、邪馬台国時代以前からクニが成立していた事を物語る。この地には多くの弥生遺跡が集中しており、弥生銀座とも呼ばれるほどである。

 正確な読み方はわからないが、一般的には不弥国をフミ国と呼んで言葉の類似からさらに東にある宇美町とする説が有力である。ただし畿内説では、この不弥国から投馬国、邪馬台国へ水行で出発することになり、宇美町では内陸で海に面しておらず都合が悪いため不弥国をウミ国と呼んで海辺に求める説もある。なお、時代が変わるが後のオキナガタラシヒメ(神功皇后)が有名な三韓征伐から帰国し、ホムタワケ(応神天皇)を産んだとされるのがこの宇美町で、地名の由来もこのためとされている。しかし宇美町では、伊都国から百里の距離が遠すぎるため、春日市周辺と見るのが妥当だと思う。

 『魏志倭人伝』ではこの不弥国から先は急に記述方法が変わり、この先の投馬国、邪馬台国へは方向と、水行、陸行の日程記事になる。この理由は、日程の問題のところで書いたように魏使の報告書だけでなく、別の資料から倭国の大国である邪馬台国・投馬国への道程が挿入されたものと見ている。

投馬国

 邪馬台国に並ぶ五万余戸の人口を持つと記された大国が、投馬国である。投馬国の読み方はトマ、ツマが一般的であり、邪馬台国畿内説でトマと読む人は広島県の鞆(とも)をあて、岡山県の玉野(たまの)、さらに字の間違いとして兵庫県の但馬(たじま)をあてる説もある。また九州説でツマと読む人は宮崎県の妻(つま)や鹿児島県の薩摩(さつま)、他には島根県出雲(いづも)をあてる人もいる。邪馬台国や卑弥呼をモデルにして高天原、天照大神が描かれたとすれば、高天原と出雲の関係が邪馬台国と投馬国の関係とも読めて出雲説には説得力もある。九州から陸続きに行けないので水行二十日の表現になったという理由も立つ。邪馬台国連合を半島側から見れば九州内だけに比定する理由は無く、出雲地方までを一体として見ることも十分考えられる。郡から邪馬台国までの行程記事の中で、投馬国が通過しないにもかかわらず記載されたのは、女王国連合の中で突出した大国であったからである。しかし、邪馬台国連合の中の大国で争いの後、台与を擁立し実権を持つ立場であったことを考慮すると、出雲では少し無理があり、やはり九州内に存在すると思える。その場合、九州の南部東岸にある日向国であった可能性が高いと思っている。安本美典も投馬国を日向に想定している。

 投馬国の位置については、倭人伝記載によれば二つの条件がある。その出発地点が不記載であるが「南至る投馬国水行二十日」と「女王国の以北」である。その他にもその出発点が不記載であるが「南至る投馬国水行二十日」と、「女王国の以北」である。その他にも五万余戸とあるのも位置に大きく関係する。この中で水行二十日については、前述したように帯方郡からの水行記録であり、水行十日の邪馬台国が実際には糸島半島の伊都国までの水行日程であるので、投馬国が日向であるならば、九州北岸部、九州東岸部を回って至る水行二十日とほぼ一致する。陸行の記述が無いため
海岸部に存在することとも一致する。

 また「女王国の以北」とあるのは、「女王国以北はその戸数、道里を略載する事が出来るが、その余の傍(ぼう)国は、遠絶にして詳らかにする事が出来ない」と記されていることである。つまり、狗邪韓国から伊都国、奴国などの記載がある邪馬台国より以北の行路上の国々は戸数や道里を書くことが出来るが、その他の連合国の国々については未知的な部分が大半で、その概要も書くことは出来ないと書かれているわけである。それにより戸数や道理の書かれている投馬国も女王国より以北とする説もあるが、前述したように、この二国についての日程記事は、帯方郡から見た倭国の大国である投馬国と邪馬台国の別な記録であり、投馬国は邪馬台国までの行路上にあり以北にあるということでは無いと見て良い。

 また、その日向地方の投馬国の存在は、熊本南部・南九州の狗奴国勢力を抑える大国でもあったかと思われる。さらに、この地域には、妻町という名前も残っている。(現在は合併して西都市) 投馬(つま)国との関連もあるかもしれない名前である。この町は、かつては日向国の中心地であり、九州でも最大級の300個を超える西都原古墳群が存在し、男狭穂塚・女狭穂塚古墳の巨大古墳も存在する。また律令期には日向国国府、国分寺、国分尼寺も存在した。そしてもっと大きな理由となるのは、やがて邪馬台国連合による畿内進出の中枢となった投馬国が、後に神話化された神武東征話の出発地・日向と重なっていることである。今までも述べてきたが、『記紀』の神話は、その継承にはいくつもの創作があるが、主な出来事についてはほぼ事実に基づいた話が元になっている。投馬国が日向にあったとすれば、邪馬台国・投馬国連合による畿内進出と神武東征神話も出発地が合う原話となる。
 
その余の傍国

  『魏志倭人伝』は女王国までの道のりを記したあと、「女王国以北はその戸数、道里を略載する事が出来るが、その余の傍(ぼう)国は、遠絶にして詳らかにする事が出来ない」 と記して二十一カ国名をあげている。すなわち対馬、壱岐、末羅国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国以外の邪馬台国連合国の国々である。道筋の国々は官名や道のりを詳しく情報を記す事も出来るがその他の国々は道筋から遠く、情報を載せる事が出来ないと述べているのである。

 その余の傍国として上げられた国々は次の通りである。斯馬国、巳百支国、伊邪国、郡支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国。(最後の奴国は行路上にある奴国とは別の国)

 これらの傍国については正確な読み方がわからず、多くの人が語感の類似や漢字の類似から色々な所に比定している。この場合九州説、畿内説により比定地はまったく変わってくる。まさに百花繚乱の如しと言えるほどである。私はこれらの国々について現在の地名を当てはめていくのはやめておくが、はっきりしている事はこれらの国々は対馬から邪馬台国までの行路上の国ではなく、その周囲や遠方の国々であった事である。「遠絶」という表現は、魏使が滞在した伊都国から見て遠絶の地ゆえに、実際に行くこともないため、官名や戸数、道のりなど詳細が書けないということである。

 したがって、豊前や豊後、日向などの他、筑後川中下流や佐賀県、長崎県あたりの国々などのほか、大陸から見れば一体に見える中国地方の一部などであろうと思われる。吉野ヶ里遺跡もこの中の一国であった可能性がある。熊本などの九州南部は邪馬台国連合に属さないで敵対していた狗奴(くな)国の勢力圏と考えられるので、これらの旁国は九州東海岸や西海岸で、九州中部から以北にあった国々を指していると考えるのが妥当である。

 また重要な事は、この一節により対馬国や壱岐国はもちろんだが、末羅国や伊都国、奴国、不弥国なども邪馬台国、すなわち女王国の以北にあったことがわかるのである。仮に邪馬台国が大和にあったとすれば、これらの国々は一体どこに比定されるのか。畿内説を唱える大半の人々も不弥国までは北九州内と認めているので、明らかに方角が違う事になる。たとえ以北を以西の間違いとして改めたとしても、その余の旁国二十一カ国は畿内の邪馬台国より以西の行路上には無いわけだから、東日本方面の国ということになる。伊都国から見て、途中の投馬国や大和の邪馬台国より近くては、遠絶の地という表現も不自然になる。さらにそうなると九州の不弥国から大和の邪馬台国までの間に行路上の国として投馬国一国のみ記載し、そのほかは東日本のその余の旁国を二十一カ国記載したことになり、倭人からの聞き取りだとしてもまったく不思議な話となる。これらにより、その余の旁国の記事からも邪馬台国畿内説には無理があることがわかる。

 さらに、邪馬台国が大和にあったとすれば、2世紀から3世紀にかけて日本列島の西半分をすっかりおさえ、九州勢力を一大卒の力で押さえ込めるほどの広域的な軍事力を持つ統一国家の邪馬台国(大和王権)が存在していたことになると前に書いたが、その余の旁国を二十一ヶ国記載したことにより、その支配権は東日本一帯にも及ぶ可能性が出てくることになる。そうした統一国家の超大国がこの時期に存在したとするのは一層困難なことである。

 これらのことから、邪馬台国が九州にあったこと、その余の傍国も一部中国地方を含めた九州周辺に収まる範囲にあったとして間違いないと言える。さらに、「女王国の東、海を渡った千余里にもまた国あり皆和種なり」とある。これは四国方面を指していると考えられる。畿内の邪馬台国では、東には伊勢湾しかなく、これも合わない表現となる。

狗奴国

 『魏志倭人伝』には其の南に狗奴(クナ)国があり、女王国に属さず邪馬台国と争っていたと記している。「其の南」の其のがどこをさすのか問題だが、『魏略』には「女王之南又有狗奴国」とあり、狗奴国は女王国の南にあったと記している。邪馬台国は前述したように甘木〜朝倉周辺から南に筑後川流域に開けた地域にあったと想定されるので、狗奴国はその南、筑肥山脈を超えた熊本平野一帯に広がるクニであった可能性が強い。山鹿市、菊地市、玉名市、熊本市等がある一帯である。

 狗奴国は邪馬台国と争っていた国であり、中部から南部九州にかけた強国であったと思われる。男王の名前は卑弥弓呼(ヒミココ)、官に狗古智卑狗(クコチヒコ)がいたと記載されている。卑弥弓呼の名前が卑弥呼に似ているのも気になるところだが、官の狗古智卑狗についてはその読み方から菊地彦が想定されるため、菊池郡、菊池市などがあるこの地域一帯が有力地として比定地される。熊本県南部には球磨郡、球磨川などもあり、狗奴(クナ)国との類似性も注目される。こうした地名の類似に加え、邪馬台国の南にあるという記述との一致から狗奴国の比定地はほぼこの地に特定できるのではないかと思っている。そうなると熊襲と呼ばれた人々との関連も注目される。

 『魏志倭人伝』によれば、正始8年(247年)帯方郡に卑弥呼は使いを送り、狗奴国との戦いの窮状を訴えた。そこで郡の太守は張政等を使者として派遣し、詔書と黄幢(こうどう)を難升米にさずけ、檄文を発して卑弥呼に告諭した。このあと卑弥呼は死に至ることになる。この死の意味については後の項で考えることにするが、卑弥呼の死は狗奴国との戦いに関係していると思われる。

 畿内説では邪馬台国を大和としているため、その南の紀伊半島にある熊野を語感の類似により狗奴国としている説が多い。しかしそうすると前述したように東日本から九州までの西日本一帯を治める形で君臨した超大国の大和邪馬台国が、山国で過疎地にある熊野の一国に苦しめられていたことになり到底考えられないことである。畿内説の立場ではこの狗奴国の比定地に苦しんでいるようで、四国や東海、北陸など候補地は各地に及んでいる。そのなかで特異な説として、東大の山田孝雄氏が大正11年に『「考古学雑誌』に発表した狗奴国を毛野(ケノ)国(群馬、栃木県地方)とするものがある。くしくも私の郷土が狗奴国だったという説である。氏は、その余の傍国のなかで最後にでる奴国をナノクニと呼び、イが省略されたためもとはイナノクニ(信濃国・伊奈郡)であったとし、狗奴国はクナコクと読み、奴国の東にある毛野国のケノがケナと訛ったあとクナに転じたとした。郷土史的には興味ある説だが、弥生時代に九州から信濃までの統一国家邪馬台国を認めることになり、無理があるとするほかない。


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