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第7章 邪馬台国

邪馬台国と卑弥呼の宮殿

 これまで、『魏志倭人伝』の記載に従って邪馬台国への道すじをたどり、邪馬台国をめぐる諸状況の検討を進めてきたが、ようやく私達はその入り口に立ち、足を踏み入れる所までたどり着いたと言える。

 これまでの検討の結果、邪馬台国の女王の居所は、伊都国の津から東南方向に行程距離で約60キロ前後と予見されている。そこで実際の地図で現実的な行程を考えてみたい。糸島半島の泊(とまり)付近が伊都国の津であるとした場合、邪馬台国へ道のりは高祖山の北側を回り込む形で東行し、一大卒の置かれた早良平野から奴国、不弥国(春日市付近)を通過し、東南方向に進路を取ると、目的地は甘木市から朝倉町付近になるのではないかと思う。(2006年、甘木市・朝倉町・杷木町が合併して朝倉市になった) この地は、安本美典氏、村山義男氏を始め、何人かが邪馬台国の地に比定している所でもある。ここでは、第6章で記したように、大規模な環濠を持つ平塚川添遺跡が発見されている。もしここが邪馬台国の本拠地であったなら、そこから南西に広がる筑後川に沿う広大な筑紫平野が、戸数七万余戸と書かれた邪馬台国の存在地として成り立つ可能性が高い。

 卑弥呼はいつから女王となり、どんな居所、すなわち宮殿はどんな建物でどこにあったのであろうか。『魏志倭人伝』の記載を要約すると次のようになっている。「邪馬台国はもともと男子が王の国であった。男王の統治のもと七、八十年過ぎ、倭国が大きく乱れ、諸国は相争って数年が過ぎ、諸国は一人の女子を共立し王とした。その女子の名前は卑弥呼といい、鬼道に仕えてよく人々を惑わす霊力を持っていた。歳は既に長大であるが夫は無く、ただ一人男弟が出入りし飲食を給仕するとともに、卑弥呼の辞を伝え補佐していた。卑弥呼が王となってからは彼女を見た人はほとんどなく、婢女千人を侍らしていた。女王の居所の宮室、楼観(ろうかん・みはりやぐら)は城柵を厳しく設置し常に兵士が守衛していた」

 こうした記載から、邪馬台国はもともと男王が支配していたことがわかるが、第2章で書いたように紀元107年、中国に朝貢した倭面土国王帥升が実は邪馬台国の男王であった可能性が高くなり、倭面土国はやはりヤマトと読むのが正しいと思う。卑弥呼が共立された倭国の大乱は諸説があるが2世紀後半であることは間違いなく、それ以前七、八十年前に紀元107年は含まれることになる。また争いのあと共立された時の卑弥呼の年齢はわからないが、卑弥呼が亡くなったのを248年頃とすれば、この倭人伝に描写された時期は魏使の往来のあった240年代であるから、卑弥呼が既に歳が長大であったというのも正確な記述と言える。

 この記述によれば、厳しい警護に囲まれた宮室にこもるシャーマンとしての卑弥呼の神秘性と、一人の男弟が伝える神託による祭政一致の政治状況が想定される。一人の男弟と記載された人物が邪馬台国の官である「伊支馬(イキマ)」なのかどうかは判明しないが、その周辺の人物であったと思う。卑弥呼は鏡を好んだとの記載も別にあるので、想像をたくましくすれば卑弥呼の辞を受けて、伊支馬等が大衆の前で日光の光を反射する鏡の威力を発揮した光景なども想像される。さらに卑弥呼の宮室は、その記述から山の高台のような所が想定される。甘木、朝倉付近から南には大きく開けた筑紫平野とその中央部を九州一の大河である筑後川が流れており、それらを望む国見の場所、山の高台、そこが女王の宮殿のイメージに合う気がする。

 1992年、甘木市で吉野ヶ里を上回る大規模な環濠集落遺跡が発見された。平塚川添遺跡で、一部に我が国初の六重環濠と物見やぐらを持つもので2世紀から3世紀後半にかけた日本最大級規模の弥生遺跡であり、環濠の幅は最大で15メートル、深さ1.8メートルもあった。一部に七重環濠と見られる部分もある。これは、倭国大乱と邪馬台国の時代にぴったり重なった注目される遺跡である。しかしここからは弥生後期の大溝から硬玉製勾玉は出土しているが、鉄剣、鉄刀、鉄矛は出土していない。しかしこの平塚川添遺跡に接した一ツ木・小田台地上には、多数の遺跡があり、たくさんの鉄剣や鉄製品、前漢鏡などが出土しており、邪馬台国から古墳時代にかけての遺跡群として知られている。ただ残念なことにこの大地の中心部は既に工業団地化されており、十分な調査が出来ない状況にあるという。(邪馬台国と高天原伝承・安本美典著) 安本氏は、平塚川添遺跡からその後台地上に中心部が移り、邪馬台国の中心部になった可能性が強いと指摘している。まさに邪馬台国の最有力地ともいえる地区である。 また、甘木市の北方にある菩提寺・堤地区や、近接する朝倉町山田地区にも邪馬台国時代のものと思われる鉄製遺物が多く出土しているとし、特に山田の地名は邪馬台との音の近似も気になると記している。

 さらに、甘木市周辺には注目される地名が集積している。『古事記』に登場する高天原に関連した地名がこの地に残っている。「天の安の川」にあたる夜須郡の夜須川(安川)、天の香具山(香山)にあたる甘木市の香山(高山)などである。さらに木の神を祭る高木神社などのほか、天(アマ)の名を冠した多数の神社の存在、さらにその周辺に大和と類似した地名が多数残っている。この事についてはのちに詳しく記すが、この甘木・朝倉地区を中心とした周辺の地名が、後に高天原の神話にある神々や地名や川の名前の根拠になるとともに、東征の際に一部の地名も大和に移った可能性が強いことを示している。これらを総合的に考えると、『古事記』に高天原が描かれた際、卑弥呼時代の邪馬台国のことが高天原神話として取り上げられた可能性があることを示すとともに、卑弥呼が天照大御神のモデルであったことが推定される。甘木市周辺は北九州でも特異な存在の地であり、日本の建国神話の古里であった可能性が強いと言える。


邪馬台国連合

 邪馬台国は、戸数七万余戸と表現された大国である。その中枢部は甘木、朝倉周辺にあったとしても、その南面に広がる筑紫平野一帯に展開していた国であった。邪馬台国連合の中での最大の国であり、連合のシンボル卑弥呼の宮殿があった国である。卑弥呼は、単に邪馬台国の王ではなく、邪馬台国連合の和を得るために共立された連合国の女王である。邪馬台国自身の国家運営は、官と記された伊支馬を中心に行われていた。邪馬台国連合の構造はそれぞれの国に王に相当する首長がいたと思われるが、連合の女王卑弥呼のもとで統一されていた。

 『魏志倭人伝』には、それぞれの国の官名が記載されている。山田孝雄氏の推考を参考にして考えられる日本名を当てはめてみると、対馬国と壱岐国には官が卑狗(ヒコ、彦か?)、副に卑奴母離(ヒナモリ、夷守か?)、伊都国には官に爾支(ニシ、主か?)、副に泄謨觚(イモコ、妹子か?)、柄渠觚(ヒココ、彦子か?)、投馬国には官が弥弥(ミミ、御身又は耳か?)、副に弥弥那利(ミミナリ、御身または耳成か?)、邪馬台国には官が伊支馬(イキマ)、副に弥馬升(ミマショ)、弥馬獲支(ミマカキ)など各国に官が置かれた。はたして女王が任命した官なのか、女王国連合体制の中で各国の首長が自ら名乗ったものなのか問題であるが、共通する官名が少なく、各国独自の名前が多いことから、それぞれの首長(国王に相当)の名前だと思われる。したがって部族国家として誕生した国の長が、そのまま連合国の一員となり連合国家の官を名乗ったものと思われる。

 邪馬台国連合の中で官名でなく王と記載されたものは、卑弥呼女王と伊都国の王だけである。連合の中で伊都国のみが「世王有、皆統属女王国」とあり、代々王がいて女王国を統属していたと書かれている。女王国に統属していたと読むのが一般的だが、私は女王国を統属していたと読んでいる。そうでなければなぜ伊都国のみ王がいたとされる理由が不明となる。伊都国は郡使の往来の留まる所、すなわち実質的な倭国の中心であった。伊都国については、『魏志倭人伝』に世々王ありと記載されており、建武中元2年(紀元57年)漢に朝貢し、のちに志賀島から出土した「漢委奴国王」の刻印のある金印を授かった王が伊都国王であった可能性が高い。倭面土国に先だって発展した国であり、邪馬台国成立後も交易権などその立地条件を生かし大きな力を保持していた。

 2世紀後半の倭国の大乱は、その後の邪馬台国連合諸国を巻き込む争いであったが、注目すべきは争いを静めるために卑弥呼を各国が共立したとあることである。決して邪馬台国が戦いに実力で勝ったとは記していない。恐らくはそれまでの交易権を握る先進国家であった伊都国と内陸部に発展してきた邪馬台国との決着がつかず、卑弥呼の共立ということで妥協が成立し、この二国はその後の連合のなかで枢軸関係を保ったものと考えている。

 こうした状況にある邪馬台国連合の構成の中では、邪馬台国は強国であってもシンボルの卑弥呼を擁していたに過ぎず、一大卒という諸国を恐れさせた検察機能と軍隊を持ち、諸国との交易を監督し郡使との外交交渉も行っていた伊都国王こそ、倭国の実質的な盟主だったのである。霊力を持ち人々を惑わすシャーマンの卑弥呼は連合の女王であったが、シンボルとして政治的には利用された存在に過ぎず、伊都国王こそ実質的な盟主であったと言える。したがって邪馬台国と伊都国の関係を示す統属という言葉は微妙に読み取らなければならない。

邪馬台国の誕生

 縄文の末期、大陸の江南地方などから日本列島への流入が相次ぎ、稲作など大陸の進んだ文化が入ってきた。その中には太伯伝説を持つ集団、徐福の一行も九州西岸などに渡来、稲作を中心に進んだ技術力をもたらし、日本列島に弥生の新しい文化が花開いていった。佐賀の吉野ヶ里遺跡などにみられるように多くの部族集団、初期のクニ集団が誕生していった。 

 また、朝鮮半島より北九州、出雲、若狭などに多くの弥生人が渡来し、やがて部族国家の出現に結びついていった。福岡県の板付遺跡からは初期の稲作の水田跡が発見されるなど博多湾沿岸の早良周辺に最も古い古代部族のクニが誕生したようだ。高木吉武遺跡などが当時のありさまを示す重要遺跡である。やがて多くの部族国家が誕生し、九州は「分れて百余国となる」と『漢書地理志』に書かれた状況となっていった。

 しかし、農耕により定住することになると、その適地や水利などを巡って勢力間に争いが起こって来るのは当然のことであった。その後の勢力争いにより、『魏志倭人伝』に書かれた頃の倭国、一部中国地方をを含めた北九州一帯は、「旧は百余国、漢の時朝見する者有り、今使訳の通う所、三十国」とあるように、三十ヵ国程度に集約されていった。すなわち狗邪韓国、対馬国、壱岐国、末羅国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、筑後川上流に邪馬台国、その余の傍国と記載された二十一カ国などである。(ただし、狗邪韓国は半島南部にある韓人との混在地であり、邪馬台国連合に含めるかは検討の余地がある)

 壱岐の原の辻遺跡、唐津市の菜畑遺跡、伊都国の地にある三雲遺跡、平原遺跡、福岡県春日市の須玖岡本遺跡など、その中心となる住居跡や王墓クラス墓が発掘されている。 畿内方面にも近年発掘された池上曽根遺跡など、部族国家が出来ていたがこの時点ではまだ大陸に知られる存在ではなく交流も無かったため、中国史書に記載されることは無かった。

 紀元57年韓に朝貢し、「漢委奴国王」の金印などをもらい、倭奴国王とされた国王は伊都国王の一人と思われ、積極的に半島や中国と交流し、博多湾周辺に勢力を築き上げた。さらに107年、倭面土国の男王「帥升」は、後漢の安帝に朝貢、中国史書に「倭面土国王帥升」と記録された。帥升は北九州の実権を握り、まとめようとしたが各国の反感を呼び、倭国内は騒然として大きな争いの中に入っていった。恐らくはそれまでの実権を握っていた海洋国家伊都国と新興の内陸国家倭面土国(邪馬台国)による主導権争いが中心だったと思われる。

 それから九州北部一帯は部族国家間の大きな争いが起き、『魏志倭人伝』に「その国、もとは男子を王としてとどまる所七、八十年、倭国乱れ相攻伐すること数年、一女子を共立しやっとまとまった。名付けて卑弥呼という」と言われるような戦乱の日々が続いた。

 520年頃に書かれた『後漢書』には、後漢の桓帝と霊帝の間、(147年〜188年)倭国大いに乱れて国々は互いに攻め合い、歴年主なし」と記され、『梁書』には、漢の霊帝の光和年号の間、倭国は大いに乱れて数年の間互いに攻め合ったとある。このことは1世紀末から、北九州を中心に存在した三十ヶ国ほどの全体を倭国という一つのまとまりとして認識し、その中で伊都国や倭面土国(邪馬台国)など勢力の強い国家が誕生し、男子の王が存在していたこと、その後2世紀の後半には倭国が戦乱状態となりやがて卑弥呼の共立でやっと収まったことを示している。

 こうした約三十カ国の連合国家が記載された倭国であり、共立された女王卑弥呼の宮室が置かれたのが邪馬台国である。邪馬台国は、恐らく倭面土国と記された国の後裔であろう。農業生産の中心である筑後川流域を押さえる位置にあった邪馬台国は、連合の中で一番の大国であり、甘木市周辺にその政庁が置かれた。ただその政治的な実権は、必ずしも邪馬台国だけにあった訳ではない。なぜなら、倭国争乱を邪馬台国が勝利して収めたとはどこにも書いてなく、卑弥呼の共立により争いが収まったとしているからである。

 このことは、邪馬台国の軍事的な勝利を示すものではなく、むしろ真の勝利者が他にいて邪馬台国は女王を置いた連合統治のシンボルとされた形跡が強い。実質的な政治の実権は交易権を抑える伊都国に握られていたと思われ、『魏志倭人伝』に「伊都国は世々王あり、皆女王国を統属す」と記されたのはまさにこの状況を示しているものである。しかし戸数七万余戸と記載された邪馬台国は、その人口や生産力において突出した大国であり、伊都国との関係はむしろ倭国統治の盟約を結んだ関係と見たほうが適切かも知れない。また戸数五万戸と書かれた大国である投馬国の存在も、連合国内での強国であったと思われ見逃せない。

邪馬台国の風俗習慣

 『魏志倭人伝』には、魏使が見聞した倭国の風景や生活習慣、習俗、自然や動物のことなど細かい記述がある。魏使の見聞だけではなく、交易に従事した人などからの情報も含まれていたものと思われる。記載された内容は邪馬台国に特定したものではなく、倭国の状況全般を物語るものであり、魏使の滞在した伊都国や往来した諸国の見聞が中心であろうが、邪馬台国の情報も当然含まれるので、ここでは邪馬台国の風俗習慣として紹介をしてみたい。

 『魏志倭人伝』以前の中国史書にある倭国の情報は断片的なものばかりで、細かい風俗習慣などが書かれたものはこの倭人伝が最初であり、日本の歴史上も極めて貴重な記述である。あまり論争の分かれる部分では無いので、わかりやすく解釈した文章で紹介してみたい。ただし陳寿が『前漢書』などにある南方の習俗をそのまま転載した部分もあると思われるので,すべてが倭国の実際の状況ではない可能性もある。

 「倭人の男子は皆、刺青をしている。結髪し木綿の布を頭に巻きつけ、長い布を身体に巻きつけている。婦人は髪を束ねて巻き、中央に穴をあけて頭を出す貫頭衣のようなものを着ている。稲や麻を植えているほか、桑を植え蚕を飼い、絹や木綿も産出している」

 これは、3世紀の倭国で絹織物が存在していたことを物語るが、正始4年の卑弥呼の使いが中国に持参した献上物の中に「倭錦」の記載があるほか、台与の献上物の中にも「異文雑錦」の記載があり、邪馬台国など倭国では絹織物があったことは確実のようである。ただし3世紀に絹織物の存在を示す痕跡は、その大半が九州に集中しており、このことも邪馬台国の九州説を裏付けている。

 「倭国には牛、馬、虎、豹(ひょう)、羊などはいない。兵は矛、楯、木弓を使い、有無する所は海南島と同じである」 この記述で注目されるのは、倭国には牛,馬がいないと記されたことである。日本では熱田の高倉貝塚を始め、いくつかの遺跡から馬の骨が出土しているほか、馬を型どった埴輪も出土しており、馬が生息していたことは確実である。牛については不明であるが、たまたま伊都国など沿岸地域では牛馬を見かけることが無く、このような記述になったのではないかと思われる。また有無する所は南方の海南島と同じとあるのは陳寿の思い込みで、このことにより『魏志倭人伝』の記述が正確ではないと批判されている部分である。

 「倭の地は温暖であり、一年中生野菜を食し、皆、はだしである。住居は父母兄弟が寝起きする所は分かれている。中国の粉のように身体に朱も塗っている。飲食は高杯を使い手で食べる。人が死ぬと棺はあるが槨(かく)が無く、土を盛って墓を作る。喪があけて十日間、喪主は泣きあかし、他人は歌舞飲食する。埋葬が済むと家中で水中に入り沐浴する」「真珠、青玉を産出する。楠、トチ、クヌギ、杉、かし、楓、竹などの木があり、生姜、山椒、茗荷などもあるが倭人はこれらをおいしく食べる方法を知らない。何事かある場合、骨を焼き、ト占(ぼくせん)をして吉凶を占う」 当時の人々は何事か判断を迫られる場合、鹿の骨を焼いて裂け目の方向で占いをする習慣があり、各地にシャーマンのような存在があったと思われる。

 「会合では父子男女の別は無い。人々は酒を好み、年や四節を知らない。春耕秋収を数えて年を数えている。下戸が大人に挨拶する場合、手を打ってひざまずく。この地の人は長生きで、八十〜百歳くらいまで生きる。大人は普通四、五人の婦人を持ち、下戸でも二、三人の婦人を持つ。婦人は淫せず、嫉妬せず、盗みもしない。争い事も少ないが、いったん法を犯すと軽い人でその妻子を奪い、重い場合はその家族や一族を滅ぼす。各々に身分差があり、秩序がある」

 長生きについては,あるいはそう見えたのか、春耕秋収を待って年を数える倭人の説明が違っていたかの、現実的な話とは思えない。女性がつつましかったのは、今も変わらずというべきか…。

 こうしてみると原始的な社会と思われがちな弥生時代も、礼節を重んじ、身分差があり、善悪を裁く法があり、社会の規律が保たれていたことが良くわかる。大人に対して手を打ってひざまずくなどは、今の神社の参拝形式に似ているなど、今の日本人の生活習慣に通じるところもこの頃から多くあったようである。

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