トップページへ
目次のページへ

第8章 卑弥呼と狗奴国との戦い

卑弥呼の鬼道と役割

 『魏志倭人伝』では卑弥呼のことを、「倭国が大きく乱れ、諸国は相争って数年が過ぎ、諸国は一人の女子を共立し王とした。その女子の名前は卑弥呼といい、鬼道に仕えてよく人々を惑わす霊力を持っていた。歳は既に長大であるが夫は無く、ただ一人男弟が出入りし飲食を給仕するとともに、卑弥呼の辞を伝え補佐していた。卑弥呼が王となってからは彼女を見た人はほとんどなく、婢女千人を侍らしていた。女王の居所の宮室、楼観(ろうかん・みはりやぐら)は城柵を厳しく設置し常に兵士が守衛していた」 と記している。

 卑弥呼は鬼道に仕えよく人々を惑わすとある鬼道とはなんであろうか。中国に鬼道はない。当時の中国で盛んであった土俗的な信仰である道教のようなものと見る見方もあるが、それよりもむしろ、中国に無い呪術的な信仰、ト占(ぼくせん)、アジア各地に見られるシャーマンのような存在を鬼道と表現したとする説が多い。

 山崎謙氏によれば、この鬼と言う文字は中国では「大きな丸い頭をして足元のさだかでない亡霊を描いた象形文字(学研漢和大辞典)」とされ地下の世界(冥界)の住人と考えられており、卑弥呼のシャーマニズムはこうした先祖霊、鬼神を呼び起こす神懸り的な行為を言ったのではないかとしている。このような神懸り的な形態で予言や宣託を述べる信仰は、今でも下北半島などに存在している。

 しかし、私はめったに人に会うことの無い卑弥呼がよく人々を惑わすとあるのが不思議な感じがしてならない。神懸り的な行為でご宣託を述べても、よく人々を惑わすことになるだろうか。無論そうした一面も否定できないがそれだけでは密室の行為である。そこで私は卑弥呼が景初3年に洛陽に使者を送り、「親魏倭王」の金印とともに百枚の鏡を授受したときに、中国の天子が「汝に好物を賜う。国の衆に知らしむべし」と述べた鏡に着目したい。卑弥呼は鏡を好み、百枚の鏡を下賜されたのである。日、すなわち太陽の光を反射し人々を驚かせたのが鏡である。日本ではシャーマンを巫女(みこ)と呼んでいるが、鏡を祭神とし日を操る巫女,すなわち日の巫女(ひのみこ)と呼ばれていた女王が卑弥呼と表現されたのではないかと考えている。

 こう考えると卑弥呼の果たした役割の「よく人々を惑わす」という言葉がわかりやすくなる。鬼道という言葉のみを考えると神懸り的な巫女を連想しがちだが、日の巫女と考えると、男弟を通して神託による祭政一致の政り事と、よく人々を惑わす卑弥呼のイメージが浮かんでくる。いずれにしても神秘に包まれた謎の部分であるが、邪馬台国の鏡の文化がその後の九州勢による畿内進出に伴い移行し、草薙の剣・勾玉とともに八咫鏡が、三種の神器としてシンボルになったと考えると繋がりを持つことになる。

 一般に卑弥呼は邪馬台国の女王とされ、大きな支配力を持っていた女王と見られている。しかしその共立された経緯からみると、邪馬台国連合の象徴のような存在の女王であり、鬼道を操るシャーマンであり、政治的に大きな力を持つ女王ではなかった。依然としてト占いやシャーマニズムの影響の強い時代ではあったが、時代の流れとしては交易権や生産土地を巡る勢力争い、軍事的衝突の時代に突入しており、軍事的な現実の力がシャーマニズムの世界を席捲していった時代というべきであろう。

 こうした中で卑弥呼の果たした役割を考えてみると、日常生活上のことはともかく、政治的な判断はむしろ実際権力者の判断を追認する儀式的行事にとどまっていたのではなかろうか。ただ一人の男弟のみが出入りするのみで、人に会うことの少ない「見えない神」の存在に近い卑弥呼が果たせた役割と存在価値は、まさに連合統治のシンボルであったと言える。

卑弥呼の鏡

 卑弥呼が魏からもらった鏡百枚が果たしてどんな鏡であったか。この鏡をめぐる論争も果てしなく多い。邪馬台国時代の魏の年号である景初やその後の正始年号が記されたものを含め、畿内で多数発見される三角縁神獣鏡をこれにあてる人が畿内説の中に多い。

 有名な説に京大の考古学者小林行雄氏の同笵鏡理論がある。三角縁神獣鏡とは鏡の縁の断面が三角形をしていて、裏面に中国の神仙思想に基づく想像上の動物などを描いた鏡で、中国製説と国産製説がある。邪馬台国畿内説の人はこの鏡こそ魏の年号が入っているものもあり、卑弥呼が魏から下賜された鏡に違いないとする。そして小林行雄氏は、この三角縁神獣鏡が京都府山城町の椿井大塚古墳から三十二面も大量に出土したが、その同笵鏡(同じ型から製作したもの)が西日本一帯に広がっており、椿井大塚古墳の主が配布したものとした。卑弥呼につながる大和朝廷の勢力が配布したというものである。

 しかし、これには疑問がある。三角縁神獣鏡は一枚も中国で発見されておらず、倭国内で作られた可能性が高いのである。中国の考古学者王仲殊氏は呉からの渡来工人達が作ったものと主張し、中国製と考えられるほど精巧なものはこれらの工人たちが作ったもので、粗末なものは倭人が製作したものとした。また中国には存在しない景初4年の年号があるのも、渡来した工人の錯覚の可能性やもともと年号銘は鏡のシンボルとして書かれたに過ぎないとした。

 畿内説の人は三角縁神獣鏡が中国で一枚も発見されていないのは、わざわざ邪馬台国のために作った特注品であるためと説明しているが、既に日本国内で五百枚以上の発見があっては苦しい説と言わざるを得ない。さらに畿内で発見される三角縁神獣鏡はその全てが4世紀以降の古墳時代の遺跡からの発見で、邪馬台国の時代の弥生遺跡からはほとんど発見されていない。畿内説は、これを鏡が伝世されたためと強弁している感がある。しかもこうして発見された畿内古墳の三角縁神獣鏡は木棺の外に立てかけられることが多く、木棺内には他の鏡があるなど重要視された形跡が無い。近年畿内説で最有力な纒向地内の黒塚古墳から初めて三角縁神獣鏡が出土したが、やはり木棺の外側に葬具のように置かれており、大切な副葬品とは思えない出土状況であった。

 安本美典氏は、三角縁神獣鏡魏鏡説への疑問として次のようにまとめている。(一)中国本土からの出土例が無い。(二)既に五百枚近い出土があり、このまま推移すれば千枚を超える可能性があり未発見の数を想定すれば五千面から一万面となり輸入鏡としては数が多すぎる。(三)ほとんどが4世紀の古墳からの出土で卑弥呼の時代に重なる古墳からの出土例が無い。(四)三角縁神獣鏡の出土地が北は群馬県高崎市、南は宮崎県、鹿児島県に及ぶため、卑弥呼のもらった鏡とするには分布範囲が広すぎる。(五)馬渕久夫氏らの鉛の同位体比研究によれば、三角縁神獣鏡には江南地方の銅が用いられており、魏は華北の国であるから不自然であり、更にデザインも華中、華南の絵柄が使われているのも不思議である。やはり江南の呉の工人達が日本に来て作ったとするのが妥当である。(『最新邪馬台国論争』)

 こうした指摘を踏まえて素直に考えれば、卑弥呼が魏からもらった鏡百枚は、当時魏で流通していた後漢鏡である可能性が最も高いと言える。方格規矩鏡、内行花文鏡などの後漢鏡は邪馬台国時代の九州の遺跡から大量に出土している。奥野正男氏は伊都国の平原遺跡から出土した大型の鏡こそ卑弥呼のもらった鏡ではないかと大胆に推測している。

邪馬台国の戦い

 これまで述べたように、邪馬台国はその南にある狗奴国と戦いを続けていた。『魏志倭人伝』の記述は「其の南に狗奴国があり、男王がいる。官に狗古智卑狗(クコチヒコ・菊池彦か?)がいて女王国(連合)に属していない」とある一文と、「倭の女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼(ヒミココ)と素より和せず、載斯(サイシ)、烏越(ウエツ)など使者を帯方郡に派遣して相攻撃する状況を説明した。郡の太守は張政などの郡使を派遣して、詔書と黄幢(こうどう)を難升米にさずけ、檄文を発して告諭した」とあり、そのあと「卑弥呼以死」の文になる。

 この記述により、邪馬台国はその南にある狗奴国という国と争いを続けていたことや、その国の男王がヒミココで、官にクコチヒコがいたこと、その争いはかなり激しく、それも邪馬台国が郡に窮状を訴えるほど不利な状況もあったことがわかる。さらに、郡より応援にきた郡使が詔書と黄幢(こうどう)を伊都国王の難升米にさずけ、魏の支援があることを狗奴国に示したことと、郡使が檄文を発して告諭し、その結果卑弥呼が死んだことを暗示している。

 狗奴国の位置については、これも既に述べたように筑肥山脈の南、熊本平野の山鹿市、菊地市、玉名市、熊本市等がある一帯である可能性が強い。その理由は、この地が想定される邪馬台国の南にあたり、邪馬台国を追いこむほどの力を持った国の存在として大きな生産力を持つ熊本平野があり、また、官名の狗古智卑狗(クコチヒコ)の呼称が菊地彦を連想させるため、この地にある菊地郡や菊池市がその名の由来ではないかと考えられるためである。狗奴の読み方もクナと読んでいるが正確にはわからず、クォノ、クマノなどの可能性もあり、九州南部に存在していたクマソと呼ばれる勢力との関連性が注目される。熊本県南部には球磨郡、球磨川などもある。

 倭人伝より後に書かれた『後漢書』には、「女王国より東に海を渡ること千余里、狗奴国に至る、皆倭種だが女王に属さず」とあり、狗奴国は邪馬台国の東方、たとえば四国にあったように記されている。しかしこれは、その前段に「建武中元2年に朝貢した倭奴国は倭国の極南海」という不確実な情報記事があることから、その南にはもう国はないと思い込み、『魏志倭人伝』記載の「女王国より東に海を渡ること千余里、また国があり皆倭種なり」という記事と混同した可能性が高く、やはり南九州にあったとみるべきである。

 邪馬台国と狗奴国との戦いをもう少し検討してみよう。邪馬台国は三十カ国連合の盟主である。ただしその軍事的中枢は伊都国にあり、邪馬台国自体はそれほどの軍事的な力を持っていたわけではなかった。邪馬台国が、その勢力拡大のため狗奴国の地まで遠征し苦戦していた場合もあり得るが、魏に窮状を訴えるほどの状況であったということは、明らかに邪馬台国自体が狗奴国に侵されている状況にあったことを物語っている。実際邪馬台国周辺の甕棺など一般の墓からは、矢じりが骨に刺さったまま埋葬された兵士の遺骨などが多数発掘されているほか、集落の回りには幾重にも環濠が掘られるなど邪馬台国周辺で多くの戦いがあったことを物語っている。

 しかし、魏の支援は、張政らを派遣し詔書と黄幢を難升米にさずけたのみで、実質的な軍事力による支援はなかった。 この状況を収拾するために郡使の張政は、魏の権威を示し、その支援が邪馬台国側にあることを示しただけである。しかし、その結果卑弥呼が死んだのである。更に肝心の狗奴国に何らの制裁や処分を下した様子がないことから、この一連の動きには不自然なものを感じる。伊都国王の難升米の意図があったように思われるが、この点については後で、詳しく検討したい。

 ところで、当時の戦いはどのような武器を使ったのであろうか。『魏志倭人伝』には「兵は矛、楯、木弓を用いる。木弓は下を短く,上を長くし、竹箭は、鉄鏃或いは骨鏃…」とあり、矛や楯と弓を用いたとある。銅鐸の絵にも狩猟に弓を用いる絵が描いてあるものがあり、戦闘にも使われたことは確実である。しかし、銅矛は弥生中期頃には実用型から祭器用の広型銅矛に変わりつつあり、実際の戦闘では銅製、または鉄製の剣が使われたのではないかと考えられている。ところでこの銅矛は、銅剣などと同じくそのほとんどが九州北部と四国で出土していて、畿内からの出土はほとんど無い。当時の畿内は銅鐸文化の地であった。『魏志倭人伝』に銅矛の記事があり銅鐸の記事が無いことはやはり邪馬台国九州説を裏づける材料となる。

狗奴国の行方

 邪馬台国と戦った狗奴国は、その後どうなったのであろうか。『魏志倭人伝』には何の記載もなく不明である。邪馬台国畿内説の中で狗奴国は、紀伊半島南部の熊野説、四国伊予の河野郷、東海地方、北関東毛野国などに比定されているが、いずれも無理があることは既に述べた。畿内の邪馬台国がそのまま大和朝廷になったとすると、狗奴国は制圧されたことになるが、『魏志倭人伝』に記載された戦いの様子からは邪馬台国の圧勝の様子はうかがえない。

 水野祐氏は、この狗奴国が邪馬台国を滅ぼして畿内に進出し、仁徳王朝を作ったという有名な三王朝交代説を出している。水野氏は、狗奴国の範囲を日向や薩摩地方に求めたほか、『魏志倭人伝』の読み方に異論を唱え、それまで邪馬台国の風俗描写とされていた記述を狗奴国の記述と捉え、狗奴国の存在を大きなものとした。更に魏が邪馬台国の要請を受けても狗奴国に追討の軍を派遣しなかったのは、もともと狗奴国も朝貢していた魏の属国であったためであり、卑弥呼の死後、台与と思われる倭女王が晋の建国に朝貢(266年)した記事があるのみでその後の消息がないことから、邪馬台国は狗奴国に敗れ消滅したとした。

 水野説では、狗奴国はその後九州を統一、5世紀初頭畿内に進出したとし、九州を統一したのは応神天皇、畿内進出を果たしたのは仁徳天皇であるとした。さらにこの狗奴国の前身は、元の倭奴国で、紀元前2世紀頃、狗邪韓国や倭奴国に南下してきた北方アジアのツングース系騎馬民族であるとした。この説は、江上波夫氏が唱えた4世紀前半頃、朝鮮半島から渡来した北方アジアのツングース系の騎馬民族が九州に入り、その後大和に侵攻、大和朝廷を作ったとする有名な騎馬民族征服説に対し、ネオ騎馬民族征服説と呼ばれるものである。大家の大胆な構想で興味引かれるが、その後の大和朝廷の成立や高天原の神話の実態などを考慮すると、かなり無理があるかと思う。

 九州中部の熊本地方にあった狗奴国は、邪馬台国を苦しめ、連合の中の内紛と高齢であった卑弥呼の死や、魏の支援などもあったが、狗奴国は消滅することなくその後も九州南部で存在、一定の勢力を維持したものと考えている。 卑弥呼の死後、邪馬台国連合内は混乱し、千人ほどの死者を出す内乱の後、台与が擁立された。こうした邪馬台国連合の変遷については次章で詳しく検証するが、邪馬台国の一部と投馬国の勢力は畿内を目指したと想定しているので、いわば残された九州内の地で狗奴国がその勢力を温存し、やがて熊襲(クマソ)の勢力圏となったのではないかと考えている。『記紀』にある景行天皇の九州征伐説話、ヤマトタケルの熊襲征伐説話が九州内の熊襲勢力の浸透を物語っているのではないかと考えている。6世紀の継体天皇の時、九州の磐井が反乱を起こしたが、これも熊襲の末裔と関係があるかも知れない。

 第9章へ 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送