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第9章 卑弥呼の死と邪馬台国連合の変質

卑弥呼の外交

 卑弥呼は邪馬台国の女王であり、倭国(邪馬台国連合)の共立された女王であった。しかし、その実態は今考えられる女王のイメージではなく、連合の象徴としての存在であり、日の巫女として神託を啓示するシャーマンとしての存在であった。ただ中国人から見ると珍しい存在であったので、女王と記したのではないかと思っている。「王となりてより以来、見るもの少なし。ただ男子一人ありて飲食を給し,辞をつたえて出入りす」と言う表現は、女王のイメージではなく、シャーマンそのものである。

 卑弥呼が女王となった頃は、後漢王朝の権威が落ちた末期的状況にあり、諸侯の自立的傾向が進んでいた。ことに遼東郡で自立した公孫氏は、二代目の公孫康のもとで楽浪郡内に帯方郡を分置し、韓を属国とした。ところが220年、曹丕(ソウヒ)が後漢を滅ぼし魏を建国、221年、劉備が蜀を建国、222年孫権が呉を建国、三国鼎立の時代となり、公孫政権は不安定となる。一応魏に属していながら呉と盟約を結ぼうとし、再び魏につくなどあやふやな態度を取り続けたため、234年蜀の諸葛孔明が没した機を見て、魏は238年大尉司馬懿将軍を差し向け公孫淵を殺した。

 卑弥呼は、この翌239年(景初3年)、朝鮮半島の新たな支配者となった魏に対して難升米等を使節として派遣朝貢したのである。すばやい外交をとったといえる。それまで公孫氏に朝貢していたと思われ、新たな魏の来襲を防ぐ目的もあったと言える。しかし、魏も朝鮮半島南部までは征圧する事が出来ず、半島南部には馬韓、辰韓、弁韓の三韓が成立した。倭国にとってまさに近隣諸国に厳しい状況が起きていたことになる。この頃のあわただしい状況は次のように記載されている。

 景初3年(239年)、難升米、都市牛利等を使節として魏に送る。献上品は男女生口(奴隷)や班布などであったが、魏の皇帝は多いに喜び、「親魏倭王」の金印を与えるとともに、銅鏡など多くの品物を下賜することにした。また難升米に対しては「率善中郎将」(武官の長)、都市牛利に対しては「率善校尉」(護衛をつかさどる官)の称号を与え、銀印を与えた。

 240年魏使梯儁(テイシュン)が「親魏倭王」の金印を届けるため倭国にやってきた。このとき銅鏡百枚などのほか、たくさんの錦織物などの贈り物も持参し、倭王に拝仮したとある。正始4年(243年)卑弥呼は、伊声耆(イセキ)を梯儁とともに魏に送る。正始6年(245年)、卑弥呼が難升米を派遣して狗奴国との戦いの様子を魏に報告し、支援を仰ぐ。黄幢を難升米に賜り、郡に仮授する。

 正始8年(247年)、載斯、鳥越などを魏に派遣、狗奴国との互いに攻撃する状況を訴える。247年、魏より使者張政が詔書、黄幢をもって来倭し、難升米に拝仮して告諭する。卑弥呼以って死す。

 こうした記載の中で不思議に思うのは、卑弥呼女王に代わって倭国の代表者としての役割を難升米がしていることである。難升米とは一体何者なのか。邪馬台国の官は伊支馬であるがまったく出番がなく、魏との外交と折衝を難升米が一手に引き受けている。更には「率善中郎将」(武官の長)の称号を受け、魏の使者張政が詔書、黄幢をもって来倭した際も、難升米がこれを拝受し魏の告諭を受けた。『魏志倭人伝』の記載はこのあと「卑弥呼以って死す」とある。

 卑弥呼の死は高齢による自然死なのか、それとも「以死」の意味は魏志により死を宣せられたのか。シャーマンとしての役割を終え、殺されたとする説もある。私もこの説を考えている。狗奴国との戦いが難行し、シャーマンとしての責任を取らされたのではないか。それではこの責任を取らせた主役は誰なのか。『魏志倭人伝』は卑弥呼の死後男王が立つとあるので、この男王に詰め腹を切らされたと考えると分かりやすい。この男王とは難升米以外には考えられない。そして難升米こそ伊都国王である可能性が高い。これまで連合国の中で政治と軍事の実権を持つ王であった伊都国王難升米が、政治的なシンボルとしての卑弥呼を不要のものと考えたのである。

 しかし、伊都国王による連合国の王権確立は必ずしも成功せず、邪馬台国連合はまた大きくもめることになった。『魏志倭人伝』には死者千人を数える混乱の後、台与(トヨ)という卑弥呼の宗女を立ててようやく収まったと記されている。この戦いの本質は何か、すなわちシャーマンとしての卑弥呼を抹殺し、政治と軍事のすべての実権得ようとした伊都国王に対する反発が起きたためであろう。結果は次のシャーマンとして、台与という女性を共立して戦いに勝った新たな王の出現を予期させている。台与を次のシャーマンとして立て連合の実権を握ったのは誰か、伊都国王まで制した実力を持った国の王、それは連合国内第二の大国投馬国の王であると見るべきである。別な見方をすれば、共に海に面した両国の交易の実権を巡る争いの他、中国大陸・朝鮮半島よりの脅威を避ける意味でも、日本列島の内陸部・畿内方面への進出をめぐる論争・対立などもあったかと思われる。

卑弥呼の墓

 卑弥呼の死亡時期については、247年の魏の使者張政が詔書、黄幢をもって来倭し、難升米がこれを拝受し魏の告諭を受けたのち、「卑弥呼以って死す」とあるので、その年か翌248年頃亡くなったのは確実と思われる。年齢も既に長大であったため自然死との見方もあるが、狗奴国との戦いの最中、魏使の告諭を受けて直後に死亡記事があるため、この戦いの責任を取らされた可能性が強いことは既に述べた。

 同じ『魏志倭人伝』に、倭国の風習として持衰(じさい)について述べているところがある。渡海して外洋の航海に出る時には、常に一人の持衰を乗せる慣わしがあり、航海中、その持衰は頭髪を梳らず、しらみも取らず、衣服は垢で汚れたまま着つづけ、肉を食わず,婦人を近づけず、まるで喪に服したように禁を守ることが義務付けされていた。航海が安全にすめば生口や財物が与えられるが、万一病人が出たり,暴雨風にあって難儀した場合は、責任をとって殺されたのである。持衰も航海に関して一種のシャーマン的立場にあり、その責任の取りかたが卑弥呼の場合にも連想される。

 卑弥呼の死後、径(さしわたし)百余歩(直径約150メートル)の規模の大きな墓が作られた。殉葬された奴婢は百余人を数えたと記されている。随分と規模の大きい墓が突然作られた感じがするが、邪馬台国までの行程距離表現と同じく、径百余歩や殉葬奴婢百余人の表現が百という数字に誇張されている可能性が強い。径百余歩という表現からは丸い墳丘墓が連想されるが、斉藤忠氏によれば、「当時の魏の首脳クラスや帯方郡の太守の墓が実際に径30メートルあった」とあり、倭国の王族クラスの墳丘墓もその程度と思われるので、里程表現と同じく5倍前後に誇大表現された可能性が強い。実際は30メートル位の墳丘墓であった可能性が高いのである。

 また、殉葬についても『日本書紀』に、垂仁天皇の母の弟である倭彦命の死に際し、近習の者を多数生きたまま埋めた記事があるので、古代日本にはあったと思われるが、大王の権威がそれほど確立していない古代に行われた形跡はあまり無く、百余人はこれも誇大表現であったと思われる。

 畿内説では、大和の纏向遺跡にある箸墓古墳を卑弥呼の陵墓に比定する説が多い。箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされる全長278メートルの巨大な前方後円墳である。

 『日本書紀』によれば、倭迹迹日百襲姫命は第七代の孝霊天皇の皇女で、第十代の崇神天皇(御間城入彦・ミマキイリヒコ)の大叔母にあたる。崇神天皇の時、武埴安彦(タケハニヤスヒコ)の謀反を占い、呪術を用いるなど巫女のような存在であったようである。大物主神の妻となったが、夫の来るのは夜だけで朝は帰ってしまうため、ある時姫は「ぜひ朝までいてほしい。明るい所であなたを見てみたい」と頼んだところ、大物主神は「明日の朝、あなたの櫛箱の中に入っていよう。私の姿を見て驚かないでほしい」と答えた。翌朝櫛箱の中を見たら、一匹の蛇がいた。姫が思わず悲鳴を上げると、蛇は人の夫の姿に戻り「私に恥をかかせた」と怒り、三輪山に帰ってしまった。姫はこのことを嘆き悲しみ自分の陰部を箸で突き、死んでしまったという。

 人々はこれを悲しみ、大和の大市(纒向)に壮大な箸墓古墳を作った。この墓は、昼は人々が作るが夜は神が作ったという。大坂の山から石を運ぶ人々の列が絶えることなく続いたということが記されている。伝説的な話ではあるが、卑弥呼の姿を連想させる話でもあるため、笠井新也氏を始めとして、肥後和男氏、和歌森太郎氏などがこの箸墓を卑弥呼の墓とする見解を出している。

 しかし、この説には大きな矛盾がある。卑弥呼の死は240年代であるが、崇神天皇の時代は3世紀末から4世紀にかけてであり、かけ離れていることと、倭迹迹日百襲姫命は皇女であって女王でも皇后でもない。伝説とはいえ大物主との結婚など夫を持たないと記された卑弥呼と一致しないばかりか、大物主神との恋の信頼を失う形で自殺した話は、狗奴国の戦乱の中で死んだ卑弥呼とまったく別な話とするほかない。まして倭迹迹日百襲姫命が中国との外交交渉をしたなど記されてもいないし、考えられないことである。まったく別人と見るべきである。近年の炭素14年代測定値による築造年代(3世紀半ば)は、誤りである可能性が高いことは、「第5章 畿内説の後進性」で既に述べたとおりである。

 箸墓古墳の築造時期については、早く見ても3世紀末、恐らくは4世紀の築造であり、卑弥呼の時代とまったく合わないと見るべきである。東大の考古学者であった斉藤忠氏は、箸墓古墳について3世紀半ばに作られた崇神天皇陵とされるニサンザイ古墳より後の形式であり、築造であると述べている。墓の規模も径百余歩と書かれた規模をはるかに上回る。 

 近年のマスコミは畿内で考古学上の新発見があるたびに「邪馬台国か」とセンセーショナルな報道をすることが多く、「卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳」、「卑弥呼がもらったと言われる三角縁神獣鏡」という書き出しが多いため、邪馬台国は畿内にあり、卑弥呼の墓も箸墓古墳と思う人が多くなる傾向があるが、卑弥呼の墓は間違いなく九州北部にあり、30メートルくらいの墳丘墓である可能性が高い。まだ破壊されていなければ、いつの日か発見されるに違いない。卑弥呼が魏から与えられたとされる鏡百枚とは、内行花文鏡や方格規矩鏡であった可能性が高く、それらの鏡は伊都国を中心とした北九州からの出土が圧倒的に多い。中でも当時の伊都国にあった平原遺跡からは、巨大な内行花文鏡が4面も出ており、注目されている。

台与の擁立と伊都国の没落

  『魏志倭人伝』には、卑弥呼の死後、また男王を立てるが国中(邪馬台国連合)収まらず、死者千人を数え、やむなく卑弥呼の宗女台与(トヨ)を立てたとある。死者千人を数えたこの争いはどことどこの国で争ったのか。従来このことはあまり検討されていない。

 卑弥呼の死後、男王が立ったとあるのは、それまで邪馬台国連合の主導権を握っていた伊都国王、すなわち難升米であったと思う。卑弥呼を利用して実権を握ってきた伊都国王であるが、狗奴国との争い、風雲急を告げる大陸や半島情勢の中で、シャーマニズムによる名目的女王の存在が不要となり、名実ともに邪馬台国連合の主になろうとしたのではないか。これは卑弥呼の呪術、シャーマニズムに頼っての国の運営、つまり祭政一致の祭り事が根本にあった国家運営から、実際に狗奴国との戦いで有効な武力を駆使する部門に実権が移り、邪馬台国連合国家の構造が変質していったことを物語るものである。

 しかし、名実ともに実権を握ろうとした伊都国王の動きに反発した勢力がいた。その中心は連合国内の第二の大国である投馬国だった可能性が強い。投馬国はその立地上の利点を生かし、海洋国としての広範囲な情報や豊前・豊後地方の海洋勢力との連携を得て、交易による鉄器武器を使用し、伊都国王から海上交通の利権を奪取し争いに勝利したと思われる。そして名目的に自らの息のかかった次のシャーマンである台与を擁立し、邪馬台国連合の実質的なリーダーに収まったと見ている。

 伊都国はこの争いの後から衰退し、後に志賀の島から発見される「漢委奴国王」の金印もこの前後に隠匿されたものと考えている。実際伊都国の地からは、この後の時代の重要な遺跡は見られなくなっていく。邪馬台国自体も狗奴国との攻防、卑弥呼の死、その後の勢力争いの中で次第に弱体化し、連合の新たな盟主である投馬国のもと、連合の統一を守るシンボル的な女王の立場になっていくことになったと思われる。

 ところで「漢委奴国王」の金印について少し述べてみたい。中学校のどの教科書にも載っていて、よく知られている金印なのでご存知の方も多いはずである。江戸時代の天明4年、博多湾の志賀の島から農民により偶然発見されたものである。この金印の読み方は既に述べたように、委を倭の略字とみた「漢の倭の奴国王」と読むのが一般的であるが、私は「漢の委奴国王」と読むべきであると思う。

 その理由は先に述べたように、あくまで倭国の王に授けられたものであって、単なる倭国内の一国に授けられたものではないからである。したがってこの金印が漢より下賜された当時(紀元57年)、百余国に分れていた倭国の中で倭王と認識されていた国を考えてみると、その後『魏志倭人伝』に世々王ありと記載された伊都国の可能性が一番高い。

 奴国王と読む場合には、委の字を倭の略字として三段読みをしなければならないが、こうした三段読みをするのであれば同等の他の国にも下賜される可能性が考えられるが、そうした国の首長クラスに金印を与えるのはあり得ないことである。やはり、倭王と認識したから金印を下賜したと考えれば、邪馬台国勃興前の盟主であった伊都国王に与えられた可能性が高く、委奴という表現は倭国全体をさすと読むべきであろう。委をそのまま呼んで委奴(イト)と呼びたい思いもあるが、委は倭の略字と見て漢の倭(委)奴(ヤマト又はワド)国王と読むのが正しいと思う。

 この金印が発見されたのが博多湾にある志賀の島で、奴国の領域内と考えられているため奴国王下賜説の論拠になっているが、私は、伊都国の領域は糸島半島の両側に及び、博多湾と唐津湾の水運を握る交易国家として勢力を持ったと思うので、志賀の島は伊都国の領域内にあったと考えている。したがって伊都国が卑弥呼の死後の争いに負け、邪馬台国連合の実質的な盟主の座を追われた時、それまで権威の象徴として保持してきた金印を、自国内の北端の島である志賀の島に隠匿したものではないかと想定している。その後の伊都国は、投馬国に邪馬台国連合の盟主の座と半島との交易権を抑えられ没落、金印はやがて忘れられる存在となり、江戸時代までの眠りについたことになる。

投馬国の勢力拡大

 投馬国は、邪馬台国に次ぐ大国として、日向地方から豊前・豊後地方にかけての広範な地域に影響力を拡大し、海洋国としても伊都国を圧倒した。さらに、豊前地域との協力で台与を擁立し、邪馬台国連合の実質的な盟主に収まったと見ている。台与を擁立した理由は、連合諸国を治めるのにまだ男王の武力だけではこの連合をまとめる事が出来ず、台与のシャ−マニズムを必要としたものと思われる。ただし、台与は13歳であり名目上の擁立であったことは間違いない。台与の出自については、卑弥呼の宗女とあるだけで不明であるが、そのトヨという名前と出自の経緯から、豊前・豊後地方から送られた可能性が高い。また、沖の島を奥宮ととする海洋民族の宗像信仰と結びついた系統の中のシャーマンであった可能性がある。台与の擁立は、北九州の湾岸諸国をまとめるためや、投馬国が邪馬台国連合を統率していく手段であった可能性もある。 こうして擁立された台与は、伊都国が実質的な力を持っていた時代の卑弥呼よりも、さらに名目的な存在になっていたものと思われる。 

 狗奴国との戦いを支援するため滞在していた魏使張政は、新たな女王台与に檄を持って告諭し、台与は掖耶約(エキヤク)等をして張政を魏まで送り届け再び朝貢した。248年と思われる。狗奴国との戦いがその後どうなったのかは『魏志倭人伝』にも記載が無い。しかし、魏に政変が起こり、司馬懿の孫の司馬炎が魏朝を倒し西晋に替わった泰始2年(266年)、倭女王が朝貢したと晋書にある。これは、狗奴国による邪馬台国の消滅は無く、女王の継続を意味する。台与のことと思われるが、その頃には既に邪馬台国自身も実質的に男王が治める形に変質し、女王はシンボル的に存在していたにすぎず、しかも邪馬台国と投馬国の連合に中心が移っており、投馬国主導による中国の政権交代に伴う機敏な外交を行ったことが確実と思われる。卑弥呼や台与による鬼道シャーマニズムは、不穏な半島情勢や狗奴国との戦いなど武力を中心とした覇権争いの中でその限界を露呈し、邪馬台国連合も新たな権力構造の社会に変革していくことになった。

 こうして投馬国や邪馬台国連合は新たな状況を迎えたわけであるが、瀬戸内海の海洋勢力、とくに吉備や四国の勢力との連携が進んだのもこの時期である。こうした新勢力は、朝鮮半島の変化にも大きな影響を受けたものと思われる。朝鮮半島では魏の滅亡とともに帯方郡も消滅し、中国の支配から脱して新たな動きが起きつつあった。すなわち新羅、百済、高句麗などの新国家建設への動きである。新たな邪馬台国連合とも言えるこの新勢力は、激しく変化する大陸と半島情勢を受けて、国家意識の高まりとともに列島中央部の畿内への関心と、統一国家建設への夢を次第に膨らませていったと考えている。

 私は、これまで畿内に発生した邪馬台国がそのまま大和朝廷になったという説を否定してきた。しかし、九州にあった邪馬台国がそのまま盟主となって畿内に東遷し、いきなり大和朝廷をつくったとも言えないということを書いてきた。実際はどうだったのか、詳しくは後に記すが、卑弥呼、台与などの残像が天照大神などの神話に影響したり、九州の邪馬台国一帯の地名も移転したことなどを考えれば、まったくの反邪馬台国勢力により大和朝廷が成立したのではなく、上記したように投馬国や邪馬台国連合勢力等の畿内進出があったものと考えている。しかし畿内には、既に述べてきたように先行して入った出雲や吉備などの勢力がそれなりの王権化を図り、三輪山のふもとにある纏向地域に浸透してて、大物主(大国主)を祀り、前方後円墳などの古墳の築造も始まっていたようである。そうした畿内に於ける初期三輪王権(仮称)の構築の動きを見て、半島からの脅威から内陸地に国家建設を考えた邪馬台国の勢力が、吉備勢力等を巻き込んで畿内に進出、畿内制圧もしながら築きあげたのが大和イリ系王権(崇神・垂仁のイリ王権)であると見ている。このイリ系王権は、少なくとも2〜3代は継続したが、その後各地からの進出や争いもあり、やがて弱体化していったと思われる。
                        

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