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古代史ニュース
古代史関連の新聞やテレビニュースを簡略に記録
                                                


*巨大な方墳を発見  (2019.3.3)

 奈良県明日香村の小山田遺跡(7世紀中期)で、大型の方墳が推定される遺跡で横穴式の「羨道」の跡が見つかったと報道されました。まだその一部にすぎませんが、2014年の調査結果と合わせると、それは一辺が70mに及ぶ巨大な方墳であった可能性が高いことが分かりました。奈良県立橿原考古学研究所の発表によると、この古墳は飛鳥時代の天皇級の古墳とみられ、蘇我の蝦夷の墓とみる見方が強いようです。その規模は、蘇我入鹿の石舞台古墳を上前ある規模で、小山田古墳と名付けられました。


*伊都国で最古級の硯を発見   (2016.03.03)

 『魏志倭人伝』に伊都国の都があったと記されている福岡県の三雲・井原遺跡で、これまでの最古級の硯が発見されたと報道されました。これは硯の破片で、弥生時代後期ごろのものと思われ、紀元1〜2世紀ごろのもので、中国伝来の品です。まだ文字の無かった倭国には、きわめて珍しいもので、朝鮮半島楽浪郡の遺跡などで出土する硯と一致した。これは『魏志倭人伝』にある伊都国に置かれた郡使が往来し常にとどまる所で、荷物の陸揚げや区分下とされる、帯方郡使の常駐所があったことを裏付ける発見ともいえる。邪馬台国勢力の事実上の統率・一大卒の置かれた伊都国の重要な存在を裏付けるきわめて貴重な発見と思われる。

*最古の銅鐸群発見   (2015.05.21)

 兵庫県の淡路島で、弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の物と思われる銅鐸7個が発見された。一度に発見された大量の銅鐸としては日本最古のものとなる。淡路島の海岸近くの松帆地区と言うところで発見されたため「松帆銅鐸」と名付けられた。淡路島は、『記紀』などにも国生み神話で最初にできた島とされているなど、古代からの歴史を探求するうえで貴重な発見となるようだ。淡路島ではこれまでも発見された分を含めると21個の銅鐸が見つかっている。今回の銅鐸は、絵が描かれておらず、形式も最も古いものとみられることから、当時の祭祀の際埋められた物と見られ、今後の研究に大きな資料となると考えられる。

*車塚古墳。日本最大級の円墳と確認される。 (2014.09.08)

 栃木県壬生町にある車塚古墳(7世紀前半)は周濠を持ち、三段の基盤を持つ大型古墳として知られていたが、このたび、茨城大学と東京学芸大の合同調査により、、二重の堀を持つ国内最大規模の円墳であることがわかった。調査によれば二重目の堀により、従来の想定より長い直径84メートルの規模の円墳となり、国内最大級と認定された。さらに墳丘は三段に分かれており、各段の縁からは須恵器の甕のかけらが多数発見され、墳丘を囲むように並べられていたことが想定されるとした。一部の墳丘部分の発掘により、平面部分だけでなく墳丘全体を葺石が覆っていたこともわかった。その葺石もとてもきれいな状態で発見されている。研究者によると、7世紀は古墳時代の終末期にあたり、大型の前方後円墳も作られなくなり、円墳も小型化していたが、この車塚古墳はそうした流れに反した大型円墳であるため、よほどの地方豪族であったことが想定されるとしている。

   新聞に大きく記事が載りました。昨日の発掘調査説明会には行けなかったので、今日一人で見に行き写真を撮りました。ちょうど7〜8人の女子大生?一行とすれ違いましたが、もしかして歴女グループ?
そのほかにも数人の年配男性が古墳の周囲に居たので、前日の説明会は、たぶん相当の人が来たのではないかと思われます。

*ピラミッド型の方墳確認される。 (2014.08.14)

 奈良県明日香村にある都塚古墳(蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳の約400メートル南側にある古墳・6世紀後半)は、その大部分は破壊され詳しいことが分かっていなかったが、このたび関西大学などの調査で、一辺が約40メートルで石が階段状に積まれたピラミッド型の古墳であったことが判明した。石の階段は、一段が約30〜60センチで、元来は7〜8段あったことが推定されるとした。横穴式石室には巨大な家型石棺が残っており、一帯が蘇我氏の拠点とされた地域であり、この墓の主は、蘇我馬子の父である稲目である可能性もあると言われている。いずれにしても階段状に石段が摘まれたピラミッド状の古墳は今まで国内では例がなく貴重な発見である。こうした形状の古墳は、高句麗や百済の王墓にはよく見られることから、渡来系の氏族と蘇我氏との関係も注目されるとしている。

*機織形埴輪出土 (2014.03.08)

 6世紀後半に築造されたとされる栃木県下野市の甲塚古墳の発掘調査で、たくさんの埴輪の中に、機織機で機織りする女性像の埴輪が2点出土しました。今まで木製の機織機の一部などは出土例がありますが、機織機が姿のままで、さらに織る女性像が残ったままでの出土は、国内で初のことです。この形象埴輪が何のためにこの古墳に飾られたのか、非常に興味深い発見です。

 埴輪の1点は人物埴輪で機台を持たない原始型、もう1点は人物埴輪で機台を持つ新しい形式の機織機です。これらは当時の機織機がほぼ完全な形での出土のため、その実態が解明されることにもつながります。はたして何を、何の糸(絹・麻など)で織ってのいたのか、興味を惹かれます。これが発見された下野市は、下野国分寺、薬師寺などの遺跡があるまちで、すぐ隣の栃木市の国庁・国府と一体的に古代下野国の中心地であったところです。また、古墳の南方には、昔の桑絹村を含む小山市、結城市などが隣接し、後にこの地で盛んになった結城紬織物との関連なども注目されます。国分寺跡地には風土記の丘資料館が県により整備されていますが、最近下野市の施設として薬師寺跡地に隣接して、下野薬師寺資料館が完成しました。今回発見の機織形埴輪は、この資料館に現在展示されています。

 
機台を持つ機織機
機織する女性像は顔部分が欠けています。
機台を持つ機織機
機織する女性像部分が欠けています。
 
 
機織機の下の台座  再現したもの。水玉の模様の服を着ていたことが
残された部分でわかったという。 
 
下野薬師寺跡   展示している下野薬師寺資料館

*考古学者 森浩一さんご逝去 (2013.08.10)

 古代史の世界では著名な学者であり、天皇陵古墳の研究で知られている森浩一先生が8月6日に死去された。森先生は、天皇陵の真実を追究し、科学的な根拠の無い天皇陵指定を批判し、仁徳天皇陵を大仙古墳と呼ぶなど、地名を冠した古墳名称を提起した。また、三角縁神獣鏡の国内生産説や、考古学と分権史学を結びつけた「古代学」を提唱するなど、名だたる論客でもあった。
(先生の論文には大いに参考にさせていただいた思いがある。ご冥福をお祈りします。遊人記)

*中国由来の銅剣の鋳型発見 (2013.08.09)

 滋賀県の文化財保護協会は、同県高島市野上御殿遺跡から、弥生時代中期頃(紀元前2世紀〜紀元後1世紀)から古墳時代にかけての時代に作られた柄の頭部にリング状の二つの装飾がついた青銅製の短剣の鋳型が出土したと発表した。鋳型には実際に使用された痕跡は無いが、この鋳型で製作できる短剣は、中国北部の内モンゴル自治区などにある遊牧民族の墓などで発見される春秋戦国時代の「オルドス式短剣」に類似していて、鋳型の柄部分には、日本の銅鐸に用いられている「鋸歯文」などがあることから中国の短剣の模様を真似て作られた鋳型であると見られている。
 わが国で青銅器が普及するのは弥生中期以降で、多くは朝鮮半島経由で北九州に伝来したものが多く、滋賀県で始めて発見されたこの鋳型は、朝鮮半島と北陸方面との直接的な交流の可能性を示すものとして注目されている。

*縄文土器から世界最古の調理痕跡が見つかる 
(2013.04.10)

 英国ヨーク大学と新潟県立歴史博物館などの歴史研究チームの共同研究により、日本の約1万5千年前頃(縄文草創期)の土器の内部痕跡から、世界最古と見られる調理痕跡を発見したと発表した。英国の科学雑誌「ネイチャー」に発表した。この土器は、北海道の帯広市と福井県若狭町で発見されたもので、魚や哺乳類などを調理(煮沸)した時に付いた見られる焦げ跡からその残留物を発見したとするものである。
 これまでは、地中海の東沿岸から発見された約9千年前の土器から発見されたものが世界最古とされていたので、文字通り世界最古の調理痕跡の発見となる。この残留物の元素を詳しく分析した結果によると、その食材料の多くは海の幸であるが淡水産のものもあるため、川魚や海や川を行き来するサケのようなものが推定されるとのことで、狩猟や採取生活の中で、縄文土器が貯蔵だけでなく、何らかの加熱調理に使われた事が推定されることになった。

*榛名山噴火と古代人
(2013/01/23)

 古墳時代の6世紀初頭に噴火したと言われる群馬県の榛名山の山麓にある金井東裏遺跡(渋川市)から、甲(よろい)に身を着けたままの状態で人骨が出土した。これは噴火による火山灰により埋もれたものと推定されている。このことに対して、その場所が深さ2メートルの火山灰の下にあり、また深さ約1メートル、幅約2メートルの溝の中にあり、そこには乳児とみられるものや別の人物と見られる人骨も発見され、噴火による被害者が埋没されたものと見られている。さらに特筆すべきこととして、甲を装着した人物のすぐ横に別の甲が並べられるように置かれていた。この甲は小札甲と呼ばれる貴重なもので、首長クラスしか所有していなかったもので、このことにより噴火に対してその首長たちが、山の怒りを鎮めるために何らかの祈りをささげる儀式の最中に火砕流などに襲われたのではないかという極めて興味深い推察がなされている。この点については、溝の中から山は見えず儀式はありえないとか、避難中の経路の中で火砕流に巻き込まれたものではないかなどの見方もあるようだが、まだ定まっていない。
 群馬県は東日本では最多の古墳遺跡があり、渡来人による開拓も進んだ古代の先進地でもあった。また、赤城山や浅間山などの火山噴火の跡の多い地でもある。こうした地で突然の榛名山噴火に立ち向かった古代人の対応や考え方の一端を窺える貴重な発見と言える。

最古の戸籍資料が出土(2012/06/13)
 福岡県太宰府市の国分松本遺跡で、国内で発見された最古の戸籍を示す木簡が発見された。この木簡資料には、大宝律令以前の飛鳥浄御原令(689年)に基づいて作られた「庚寅年籍」(こういんねんじゃく)にある地方行政単位や官位名などが記されており、「庚寅年籍」を実際に示す初めての資料発見となる。
 記載のなかには、「嶋評(しまのこおり)」など行政単位の「評」や、「進大弐」などの官位名、「兵士」や「政丁(庁)」など軍隊の組織を示す言葉もあり、こうしたことから、天武・持統朝に作られた飛鳥浄御原令の実態を示すものとして注目される発見となった。また、これが発見されたのが九州福岡県の太宰府跡近くであり、記載された地域が糸島半島であることなどから、大宝律令(702年)以前から、地方までの支配体制の確立が進んでいたことを示す資料としても注目されるものである。

*卑弥呼の宮殿説がある纏向遺跡の建物群の周囲から溝発見(2012/2/17)

 卑弥呼の宮殿跡ではと言われている奈良県纏向遺跡の中心部から相次いで発見されてきた大幡建物群(3世紀前半〜中期頃)の南側から長さ約6メートルの溝が発見された。また整然と並ぶ4棟の建物群と溝の間に東西約29m、南北約34mにわたる何も無い空間の存在がわかったため、あらためて建物群が政治や宗教の中心地としての威厳を保つための空間だったのではという学者の意見などが報道された。
(昨今は、纏向遺跡に何か発見されると、そのつど邪馬台国の・・・卑弥呼の・・・という言葉が頭に付いて報道がなされている。しかし確実なことは、そこにクニがあったようで建物跡が発見され、周囲に溝があったというだけである。邪馬台国であった証拠も卑弥呼の宮殿を裏付けるものは何も無い。ただ年代測定の結果が同時代とされ、そのため邪馬台国の最有力の地とされている。肝心なことは『魏志倭人伝』に描かれている邪馬台国の存在である。本来邪馬台国が畿内にありそれが大和朝廷に結びつくものであるなら、『日本書紀』が九州の地で活躍した神功皇后を卑弥呼になぞらえたのはどうしてなのか、よく考えてみる必要がある。遊人記)

*聖武天皇の紫香楽宮正殿跡が出土 (2012/1/19)  

奈良時代の聖武天皇が742年に滋賀県甲賀町信楽町に造営したとされる紫香楽宮の跡地とされる同地宮内遺跡のなかから、正殿跡とみられる遺構が出土したと市教育委員会が発表した。発見された柱穴の状況から東西に24.9m、南北に14.8mの建物とみられ、西側に発見された別の棟と平行に並んでいたため、正殿が2棟あったと見られる。
 聖武天皇は、政情不安定な平城京から都を恭仁宮、難波京と遷都した後さらに紫香楽宮に移ったもので、745年に正式に都としたものである。

*古代の暦入り鉄剣発見 (2011/9/22)

 福岡市の元岡古墳群の古墳の調査で、G6号墳と呼ばれる直径18mの円墳から、「庚寅(こういん)」(570年)の紀年銘と日付の入った太刀が見つかった。紀年だけでなく具体的な日付が記された刀剣の発見としては我が国では最古の例になるという。この太刀は長さが約75cmで、X線写真で刀の背の部分に象嵌された19文字が確認されたものである。この古墳からはほかにも水晶やガラス玉類なども出土した。
 『日本書紀』には544年に百済から我が国に暦がもたらされたとあり、この後の同時代に関東以西の各地で金銀などを埋め込んで象嵌文字の入った刀剣類が国内で作られ、また紀年などの暦の入ったものもさきたま古墳群の稲荷山鉄剣など数例あることから、この鉄剣も国内で作られた可能性が高いと見られる。

* 縄文土器にシャーマンの姿
(2011/7/9)
 

青森県青森市にある国内最大級の縄文集落跡が発見されたことで知られる三内丸山遺跡で、平成5年に発見された縄文時代中期と見られる土器片(約4300年前)のなかに、シャーマンが頭に飾りを付けて踊っているような絵が見つかったと青森県文化財保護課が発表し、新聞各紙が報道した。
 土器は上下8cm、横幅6cmの大きさで、人物像は縄文文様の中に3〜4cmの大きさ、深さ約1mmの線刻で描かれていた。像は頭、手、胴、足があり、頭には飾りのようなものを付け、道具を持ち踊っているような姿に見える。
文化財保護課の説明では縄文土器に人物像が描かれているのは稀で動きのある姿も珍しいもので、縄文時代の祭祀の様子を知る上で貴重な発見であるという。


  
桜井茶臼山古墳に二つの副室 (2011/6/19) 

 奈良県桜井市にある大型古墳、茶臼山古墳で平成21年に発見されていた2つの天井石を持つ施設が、副葬品などを納める副室であったことがわかったと橿原考古学研究所が発表した。 
 茶臼山古墳は3世紀末から4世紀前半ごろの古墳で初期大和王権の大王クラスの墓と見られていて、13種81面の銅鏡の破片が出土したことでも知られている。しかし宮内庁の陵墓指定はされておらず、調査が進められているものである。副葬品を埋設する副室を2つも持つことは、大きな権力者(大王)が被葬者である可能性が高い。近くにある4世紀前半の大型古墳メスリ山古墳では、約50年前に未盗掘状態で副室が発見され鉄製弓等の武器が大量に見つかっており、今回確認された茶臼山古墳の副室にも同様なものが収められていた可能性がある。

 *14世紀に「東南海地震」と「南海地震」が連動か (2011/5.22) 

 東日本大震災では、東北沖から東関東沖にかけて大きな地震が連動して起きたといわれています。これから東南海地震が心配されていますが、14世紀に起きた大地震「正平南海地震」が実は「南海」だけでなく「東南海」も含む連動型の地震であったのではないかということが、今回発見された伊勢神宮関連の文書から想定されるという新聞報道があった。

 これによると、三重県地震対策室の奥野真行さんが、伊勢神宮の「神宮文書」のなかに、1361年の(正平16年)「正平南海地震」に際しての伊勢神宮の被害が外宮の柱が倒れるなど甚大であったことの記録を見つけたもので、この規模の被害が出るのは、四国沖の「南海地震」だけでは考えにくく、「東南海地震」が連動したのではないかと推定されるとしたものである。これまでも、「東海地震」も加えた三連動型地震ではという説もあったようであるが、資料が乏しく不明であった。今回、伊勢神宮の被害状況が知られ、改めてその可能性が注目されそうである。

斉明天皇陵の隣接地に太田皇女の古墳か?(2010/12/10) 

 下段にも書いておいた奈良県牽牛子(けんごし)塚古墳が実の斉明天皇陵とされた記事に、さらに信憑性を加える発見があった。明日香村の教育委員会は12月9日、牽牛子塚古墳の隣接地に今まで知られていなかった古墳を発見、調査の結果、『日本書紀』に斉明天皇陵の前に葬ったとされる孫の太田皇女の墓である可能性が高いと発表した。太田皇女は斉明天皇の子である天智天皇の子で、鵜野皇女(持統天皇)の姉にあたる人物である。

 この古墳は、すでに破壊され副葬品も無いが、石室の床石とドーム状の巨大な石の一部が確認され、越塚御門古墳と名付けられた。『日本書紀』には天智六年二月二十七日、斉明天皇と妹の孝徳皇后を小市岡上陵に合葬し、その陵の前の墓に孫の太田皇女を葬ったと記されている。牽牛子塚古墳は、天皇陵に採用された独特な形式である八角形墳であり、斉明天皇陵として立地や築造時期が合いほぼ確定と言える状況であったが、今回まさにこの古墳の前方に『日本書紀』の記述どおりに太田皇女の墓と見られる古墳が見つかったわけで、新聞各紙や各ニュースでも、この発見により、牽牛子塚古墳が真の斉明天皇稜であることが確定的になったと報じている。

 宮内庁は牽牛子塚古墳より2.5キロほど西にある車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として治定(じじょう)しているが、依然として再検討する考えが無いことを表明している。

* 東大寺で正倉院の宝剣を確認 (2010/10/26)

 明治時代に、東大寺(奈良県奈良市)の大仏殿の大仏を支える下部の須弥壇下から見つかった2本の剣は、これまで大仏殿の建造の際、土地の神を鎮める鎮壇具(ちんだんぐ)と見られてきたが、このたび、1250年ほど前に正倉院から持ち出された宝物の太刀であることが確認されたと新聞やニュースで大きく報じられた。この2本の剣は金銀荘太刀と呼ばれ、刃長約80センチで刀の把(つか)にはサメ皮が使われるなど豪華なものであったが、このたびX線検査で確認したところ、刀身の根元に、「陽剣」「陰剣」と象嵌されていることがわかった。調査の結果、これは正倉院の宝物帳に記載され、後に持ち出された「除物」の付箋がある「陽實剣」「陰實剣」と一致していることがわかった。
 
 この剣は、正倉院の宝物の目録「国家珍宝帳」にある100本の太刀の最初に書かれており、その後「除物」とされて行方がわからなかったものである。「国家珍宝帳」とは、聖武天皇の遺品を光明皇后が正倉院に納めた宝物の目録である。今回の発見によりこの剣は、光明皇后が正倉院から持ち出し、聖武天皇の鎮魂と世の中の平穏を願って大仏の下に埋めたのではないかと見られるという。そうなると、これまで地鎮の意味で埋められた物と見られてきた鎮壇具が、実は完成後に、何らかの願いを込めて埋められた可能性があり、他の鎮壇具宝物類の再検討と解明が求められることとなった。


* 斉明天皇陵を特定 
(2010/09/13)

 我が国初の重祚天皇であり中大兄皇子の実母、大化の改新の影の主役かとして知られる斉明天皇の墓が、このたび奈良県明日香村の牽牛子(けんごし)塚古墳であることが判明されたとの発表が村教育委員会からあった。 牽牛子塚古墳の発掘調査を進めていた村教委によると、牽牛子塚古墳は、天皇陵に採用された独特な形式である八角形墳であることがわかったほか、立地や築造時期、文献記述との整合性などから墓碑銘はないものの、斉明天皇陵であることがほぼ特定されるとした。斉明天皇陵は宮内庁により、牽牛子塚古墳より2.5キロほど西にある車木ケンノウ古墳が指定されているが、今回の判明により改めて論議を呼びそうである。

 牽牛子塚古墳は7世紀後半の築造で、石室は2つに分かれている。『日本書紀』には天智天皇6年に、斉明天皇と娘の孝徳皇后(間人皇女)を合葬したとあるので、その記述とも合うことになる。しかし、宮内庁書陵部では、「これで確定したとみなすのは難しく、新たな対応をとることはない」としている。

真の継体天皇陵とされる今城塚古墳と並んで、また天皇陵指定の根拠が揺らぐ事態となった。宮内庁の見解は保身に過ぎるといわざるを得ない。遊人記)

* 大王墓から銅鏡81面分の破片出土 (2010/1/8)

 大和王権の大王墓とみられる奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初)の石室を覆っていた土の中から、13種81面分の銅鏡の破片が出土したと樫原考古学研究所が発表した。中には「正始元年」銘が入ったこれまで出土している三角縁神獣鏡と同じ型で作られたものも含まれていて、これこそ魏から授かった鏡であるとか、邪馬台国との関連が注目されるとの報道もある。同じく、出土した鏡の数がこれまで40面で最多の福岡県平原古墳(2世紀末)をはるかにしのぎため、初期大和王権の大王墓であった可能性がより強まったとの説が紹介されている。

(確かに大量の鏡発見で、大王クラスの墓の可能性もあるが、出土した鏡は三角縁神獣鏡を始め国産鏡がほとんどで、石室の外にあったということで、あまり貴重な鏡ではなかったようである。すでに500枚以上出土している三角縁神獣鏡は卑弥呼が「銅鏡百枚」として賜った鏡ではなく、国産の鏡であることはほぼ確定している。魏の天子が倭女王に銅鏡などを授け皆装封したのは景初三年であり、正始元年は魏使が倭国に届けた年である。遊人記)

* 国内最古の石器を発見か?
(2009/09/30)

 島根県出雲市多伎町の砂原遺跡から、約12万年前と思われる旧石器が20点発見された。調査団の発表によると、約11万年前の三瓶木次火山灰層の下の2層にわたる地層から発見されたもので、12万8000年前の可能性があるという。しかし発見された石器の中には石器にむかない石英などもあり、慎重な検討が必要とする意見もある。一方、朝鮮半島では50万年前から石英の石器が使用されていたことから、陸続きの時に、「朝鮮半島から日本列島に人類が渡っていたことは十分考えられる」と調査団長の松藤和人同志社大教授は推定している。

 旧石器に関しては、2000年に発覚したいわいる「捏造事件」以来、約3万5千年前から始まる後期旧石器時代以降の石器しか確認が出来ておらず、今回の発見が事実なら、日本列島の人類の歴史に新たな道すじをあたえるものである。
(それにしても、出雲からの発見とは・・・偶然にしても感慨深いものがある。遊人記)

*国内最古のイスラム陶器見つかる
(2009/7/4)

 奈良市の平城京跡内にある西大寺の旧境内から、西アジアで生産されたと思われるイスラムの陶器片が19点発見された。陶器は「神護景雲二年(768年)」という文字の書かれた木簡と一緒に発見されているため同時期の8世紀後半ごろのものと見られ、従来発見された9世紀後半のものを上回る国内最古の発見となると奈良市教育委員会が発表した
 
破片を推定復元すると、約50cm以上の高さになり、イスラム陶器の特徴である半透明の青緑釉が施されている。大型の陶器なので海路で運ばれた可能性が高く、「海のシルクロード」による海上交通の歴史研究にも大きな意味がある発見となる。

*箸墓古墳は卑弥呼の墓とする説強まる
(2009/5/31)

 奈良県纒向遺跡の調査を続けている国立歴史民族博物館の研究チームは、同古墳から出土した土器に付着していた炭化物を、放射線炭素年代法に基づいて測定した結果、箸墓古墳の築造年代を240年〜260年とする見解を日本考古学協会の総会で発表した。同グループの春成秀爾名誉教授は、卑弥呼の墓であることが間違いなくなったとする意見を述べた。
 
しかし、土器に付着した炭化物は、他の物質に比べて古い年代が測定される傾向があり、総会でも測定の信頼度などに対する疑問も出された。また『魏志倭人伝』に書かれている卑弥呼の墓についての記述(径百余歩)と箸墓古墳の規模が合わないとする疑問などもだされたようである。
(箸墓古墳を中心とする纒向遺跡に邪馬台国を持ってきたいと考えるのは自由だが、箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは無理がある。近年の調査によると箸墓古墳は幅60〜70メートルの周濠を持ち、墳長約280mの大規模古墳である。径百歩の卑弥呼の墓にはなりえない。そもそも放射線炭素年代法と炭化物の年代測定法の精度再検討が必要であると思う。・遊人記)

*奈良・纒向遺跡で建物群跡を発見
(2009/3/21)

 奈良県桜井市市教委の発表によれば、纒向遺跡の今回の発掘調査地域から、3世紀前半のものと見られる東西に整然と並ぶ2つの建物跡が発見された。さらに40メートルに及ぶ柵の跡穴も確認された。87年にはこの部分の東側に神殿状の建物跡と柵穴が見つかっており、今回の建物跡と柵をはさんで東西軸が一致しており、計画的な建物配置があったことも物語る貴重な発見となる。この東側一帯に重要な宮殿などが整然と配置されていた可能性があるという。
 建物を整然と並べる中国の思想を受け入れており、もし邪馬台国が纒向遺跡にあったとすれば、卑弥呼の宮殿跡の可能性があるとする識者もいる。

(その後、11月にもさらに建物群跡の発掘が続き、整然と並ぶ2棟がかなり大型の建物であることがわかり、新聞等では一部の学者の発表を取り上げて「邪馬台国の卑弥呼の宮殿発見か?」「邪馬台国は畿内説で確定か?」などと見出しで取り上げている。私は仮にそこから大規模な建物群が見つかっても、『魏志倭人伝』に書かれている邪馬台国や卑弥呼のこととは直結するものではないと考えている。・遊人記)

*淡路島で弥生時代の鉄器工房跡発見
(2009/1/23)

 兵庫県淡路島の北部にある垣内(かいと)遺跡から、2〜3世紀ごろのものと見られる鉄器工房跡が発見された。調査では17棟の竪穴式建物のうち、10棟が工房跡とわかった。今まで弥生時代の鉄器生産工房跡発見は西日本中心であったが、岡山以西の近畿地方では今回が初めてであり最大の規模の鉄器工房である。鉄の生産の伝播をたどる上で貴重な発見と言える。また、邪馬台国畿内説の弱点であった鉄器生産拠点の不在を補う意味で貴重な発見と言える。

*大阪・御廟山古墳から大量の埴輪片出土 (2008/11/28)

 
百舌鳥・古市古墳群のなかにあり、陵墓参考地となっている御廟山(ごびょうやま)古墳の発掘調査が、宮内庁と堺市により合同で行われ、墳丘一段目とテラス部分から大量の埴輪片(円筒埴輪ほか)を発見したと発表があった。埴輪は5世紀中期ごろのものと思われる。また、墳丘の2段目から崩れ落ちたと見られる葺石(ふきいし)も発見され、この古墳の墳丘が全長約200メートルあったことも確認された。墳丘の作り出し部分からは祭祀に使われたと思われる祭器なども見つかっており、副葬者について、近くの仁徳天皇稜との関連など今後の調査が待たれる。

*万葉歌を刻んだ最古の木簡
(2008/10/18)

 
奈良県明日香村の石神遺跡から、万葉歌を刻んだ木簡が発見された。
文字は万葉仮名で書かれており、実際の発見は2003年であったが今まで意味が解明されず、今回、森岡隆筑波大准教授の研究で万葉歌であることがわかった。万葉歌であると、飛鳥時代に読まれていたことを示すものとして最古のものとなる。歌会などで読み上げる際の下書きであるようだ。

*藤原京跡から運河の跡が見つかる
(2008/9/25)

 奈良県の藤原京の遺跡内に、南北に流れた形跡のある運河跡が見つかり、前長500メートルに及ぶ大規模なものであることがわかった。支線と思われるものもあり、敷地内にかなり張りめぐされていたようである。これは藤原京造営に際し、宇治川、木津川などを経由して、さらに運河を使い遠地より木材や資材を運び入れたことを示すもので、万葉集にあるその様子を歌った歌を実証する遺構である。資材搬入が済んでからは埋め戻され、建物などがその上に建てられたようである。

*卑弥呼の墓?箸墓古墳に幅60〜70メートルの周濠
(2008/8/30)

 奈良県明日香村の
箸墓古墳で住宅整備に伴う発掘調査の過程で、前方部の外側にこれまでの想定を超えて60〜70メートルの周濠があったかの可能性が高いことがわかった。さらには二重の周濠の可能性も考えられ、箸墓古墳がより大規模で、強大な権力者の墓であったことが裏付けられそうである。築造時期は3世紀後半とされている。この時代以降、大型の前方後円墳が出現するが、その先駆けとして箸墓古墳の調査研究が期待されている。
(新聞等では卑弥呼の墓と言われている・・・といった表現でますますその可能性が高まったなどと記しているが、もともと『魏志倭人伝』の記載にあわず大規模であり、今回の周濠の全貌がわかれば、なおさら卑弥呼の墓の可能性は遠のくと思われる・遊人記)

*「石舞台」上回る最大級の石室
(2008/2/8)

 
奈良県明日香村の真弓鑵子(かんす)塚古墳(6世紀中ごろ)は、蘇我馬子の墓と見られる石舞台古墳をしのぐ国内でも最大級の規模の石室を持ち、精巧なつくりであったことが分かったと報じられた。出土品などから被葬者は渡来系の東漢(やまとのあや)氏とみられる。
東漢氏とは、阿智使主(あちのおみ)を始祖とする半島からの渡来系で集団の総称である。『記紀』によれば応神天皇の代に渡来し、さまざまな技術や文人として大きな影響力を持った。また、蘇我氏との関係も深く蘇我氏の勢力伸張には東漢氏が大きな役割を果たした。しかし大化の改新においては巨勢氏とともに蘇我氏を離れ、蘇我入鹿、蝦夷の滅亡を招いたとされる。


*5000年前に大豆栽培の痕跡
(2007/10/18)

 
山梨県立博物館などの研究グループは、縄文中期と見られる土器の内部から、国内最古の栽培種の大豆の痕跡があるのを確認したと発表した。

*3世紀のベニハナ花粉を発見(2007/10/3)

 
奈良県桜井市の纒向遺跡の溝跡から、ベニハナの花粉が大量に含まれている土砂が発見されたと市教委が発表した。これまで最古の藤ノ木古墳出土例より300年以上さかのぼる発見。

 

*蘇我氏邸跡から大規模な石垣など発見
(2007/2/2)

 蘇我氏の邸宅跡とされる奈良県明日香村の甘樫の丘遺跡で、7世紀前半の大規模な石垣と塀の跡が見つかったと、奈良文化財研究所が発表した。『日本書紀』の蘇我氏邸の要塞化記述を裏付ける可能性。

*最古の和歌木簡出土 (2006/10/13)
 
大阪市中央区の難波宮跡で「皮留久佐乃(春草の」などと万葉仮名で和歌を書いた640年ごろの木簡が見つかったと大阪市教育委員会などが発表した。和歌を書いた木簡としては最古のものと見られる。

*石舞台古墳造営の宿舎跡を発見(2006/3/9)
 樫原考古学研究所は、奈良県明日香村の石舞台古墳の隣接地で、石舞台古墳造営時の工事に関わる宿舎跡と見られる柱穴の列が見つかったと発表した。

 


*飛鳥で磚(せん)積石室を発見
(2005/12/2)

 
奈良県明日香村のカズマヤマ古墳(7世紀後半)を調査中の村教育委員会は、磚(せん・板状の切石)を積み上げて構築した横穴式石室を発見したと発表した。飛鳥では初めての発見で、渡来した百済王族の墓と見られる。

*中国で4000年前のめん発見
(2005/10/13)

 
中国科学院などの研究チームは、中国北西部の新石器時代後期の遺跡で、土器の中から約4000年前のめんを発見、英科学誌ネイチャーに発表した。世界最古のめんの可能性。

*キトラ古墳「午」全体像判明 (2005/7/15)

 
奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀〜8世紀初め)で極彩色壁画をはぎ取り、修復保存を進めている文化庁は、石室南壁で見つかった獣頭人身の十二支図「午(うま)」の全体像が判明したと発表した。 キトラ古墳では、これまで十二支のうち、「子」(ね)や「戌」(いぬ)など5体が確認されている。

*高松塚古墳壁画解体保存へ
(2005/6/29)

 
大量のカビ発生が問題になっている奈良県明日香村の高松塚古墳の石室を解体し、カビを処理し保存することになった。カビの侵食は深刻で、文化庁のこれまでの保存方法や姿勢が批判を招いている。

*宮崎で国内最古級の前方後円墳
(2005/5/19)

 
宮崎県西都原古墳群にある前方後円墳が、宮崎大学の調査で国内最古級と確認された。築造は三世紀半ごろから後半と見られ、畿内で発生し、やがて全国に普及したとされる前方後円墳の研究に疑問を投じる発見。
 
 
*キトラ古墳の主は50歳代男性か
(2005/3/11)

 
奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の石室で出土した骨や歯型の鑑定結果から、被葬者は50代のがっちりした体格の男性とみられることが分かり、文化庁などが発表した。7世紀末から8世紀初めというと、古代史上の最大の動乱期、郭務宗軍の来日、天智天皇の死、壬申の乱勃発、天武天皇、持統天皇即位、大津皇子の抹殺、『記紀』の編纂など重大事件が目白押しの時期であり被葬者は誰なのか、更なる遺物の解明でどこまでせまれるか。今の所天武天皇の皇子たちの誰かか、渡来系の人物の可能性が高いとされている。

*最古の都市は大阪か
(2004/11/11)

 
大阪市和泉市の環濠集落の池上曽根遺跡で、紀元前1世紀頃と見られるの国内最古の整然と配置された大型建物群が見つかったと同市教育委員会が発表した。高床式の建物群は4棟あり、倉庫跡と推察される。同遺跡は二重の大溝で囲まれ、500〜1000人程度の人が住んでいたと見られ、国内最古級都市の可能性も。

*遣唐留学生の墓誌発見
(2004/10/11)

 
唐(618〜907年)の都、長安があった西安市で、奈良時代の717年に阿倍仲麻呂らとともに遣唐使の一員として唐に渡り、勉学途中に客氏した留学生の生前の功績を記した墓誌が見つかった。墓誌にある留学生の名前は「井真成」。中国にならって3文字に改めたようで、日本名は分かっていない。墓誌には「勉学に努めた」など賞賛する内容が書かれており、日本からの留学生が大事にされていた様子もしのばれるという。

*キトラ古墳で人骨発見 (2004/6/19)

 
奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の石室で、被葬者とみられる人骨と歯、計10点、木棺の一部と見られる金具1点が見つかった。キトラ古墳の被葬者を解明する貴重な資料となる。

*飛鳥美人壁画にアフガン産宝石? (2004/5/1)


 奈良県明日香村にある高松塚古墳の極彩色壁画のうち美人像のスカートなど青い部分の彩色に、アフガニスタン産の宝石ラピスラズリが使われている可能性が高いことが東京文化財研究所の調査で分かった。同研究所では「高松塚古墳の国際色の豊かさが裏付けられた」と話している。


*キトラ古墳に「獣頭人身像」鮮明に (2004/4/15)

 
奈良県明日香村のキトラ古墳を調査中の文化庁は、朱雀など四神像の壁画の下に、子(ね)と寅(とら)の十二支像が描かれているのを確認したと発表した。獣の頭部と人間の身体の組み合わせた、「獣頭人身像」で、十二支の壁画としてはアジアで最も古い可能性があるという。
(写真・(寅)獣頭人身像)






*蘇我馬子邸正殿跡を発見
(2004/3/12)

 
蘇我馬子(生年不明〜626年)の邸宅の一角とされる奈良県明日香村の島庄遺跡で、7世紀前半の大型建物群などが見つかった。
天皇の宮殿並みの規模や位置から、研究者は馬子が居住した正殿とみている。

*今城塚古墳は横穴式と判明
(2004/2/11)

 
今城塚古墳(前方後円墳、6世紀前半)を調査中の高槻市教育委員会は、石室の入り口と見られる遺構が見つかり、石室が横穴式だと分かったと発表した。
 石野博信・徳島文理大教授談「当時近畿では先進的だった横穴式石室をいち早く大王陵が取り入れたことが分かり興味深い。一方、墳形は畿内の伝統を引き継ぎ、新旧の要素が混在している。越前から招かれた継体天皇の政治的立場を象徴しているようだ」と語っている。


*弥生時代の始まりは紀元前10世紀
(2003/12/20)

 
国立歴史民俗博物館は、佐賀県で出土した縄文時代晩期の黒川式と呼ばれる土器に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法で調査した結果、紀元前1000年前後に作られたことが分かったと発表した。これにより九州における弥生時代の始まりはBC10世紀頃にさかのぼる可能性。

*巣山古墳から水鳥形埴輪など出土(2003/10/4)

 
奈良県広陵町の巣山古墳を調査中の同町教委は、古墳の周濠の底から島状の遺構が見つかり、水鳥型など30点を超す形象埴輪が出土したと発表した。
参考資料・<巣山古墳・全長220メートルの前方後円墳。規模から大王クラスの墓と見られ、有力豪族であった葛城氏の墓とする見方が多い。> 


*福岡・一の町遺跡・最大級の建物群跡発見
(2003/2/26)

 
福岡県志摩町の「一の町遺跡」で弥生中期後半(1世紀)国内最大級の建物を含む大型建物跡が見つかったと同町教育委員会が発表した。『魏志倭人伝』にある斯馬国の遺跡の可能性。

*最大規模の埴輪祭祀跡・大阪今城塚古墳(2002/11/29)
 
大阪府高槻市の教育委員会は、今城塚古墳(前方後円墳・6世紀前半)で昨年見つかった祭祀跡は、長さ62メートル以上、幅5メートル以上で、埴輪祭祀跡では最大規模であると発表した。同古墳は真の継体天皇陵とする説が有力。

*太田茶臼山古墳・継体天皇没時より古い埴輪
(2002/11/23)

 
宮内庁が継体天皇陵として管理する太田茶臼山古墳で一部の護岸工事に伴う発掘があり、その出土品が公開された。研究者によると「出土した埴輪や土器から、太田茶臼山古墳は5世紀半ばの古墳であり、継体天皇(531年没)の墓ではない」とする意見が相次いた。

*壱岐の原の辻遺跡から国内最古級の王墓? (2002/7/25)

 
長崎県壱岐の原の辻(はるのつじ)遺跡から、青銅器が多数し、同県教育委員会などは「国内最古級の王墓が存在した可能性が高い」と発表した。『魏志倭人伝』にある一支国の王墓の可能性も。


*不弥国王の墓を発見か
(2000/8/1)

 福岡県宇美町の光正寺古墳の埋葬施設から、副葬品として弥生時代終末期(2世紀後半から3前半世紀前半)の土器が出土していたことがわかった。畿内のホケノ山古墳と並ぶ3世紀前半の古墳で、『魏志倭人伝』にある不弥国の王墓の可能性も。

*最古級の前方後円墳・ホケノ山古墳
(2000/3/28)

 奈良県桜井市のホケノ山古墳は邪馬台国の時代にあたる3世紀中葉の築造で、最古の前方後円墳と確認されたと大大和古墳調査委員会が発表した。

*対馬に初の弥生集落遺構が見つかる。

 
長崎県対馬の三根遺跡から弥生〜古墳時代の集落跡が出土した。
周辺には首長クラスの墓も発見されている。

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