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古代史への夢

銅鐸と邪馬台国の謎
 
 何年生の教科書だったろうか、トンボやカメの文様を描いた大きな銅製の置物、「銅鐸」の写真をはじめて見た時の印象が強かった。いったいこれは何なのか。先生もはっきりした事はわからないが、謎の遺物だというような説明をされたと思う。それまで学んできた縄文式土器や弥生式土器、木製の工具などと違い、銅鐸、銅矛など銅製の祭器や武器の出現を驚きの目で見ていた。その中でも銅鐸の大きさ、優雅さ、芸術性など、古代人の創作力に大変引き付けられる思いであった。

  この銅鐸が、ある日突然のように地上から消えた。あるものは破壊され、ある物は整然と並べられ、山や丘の斜面にまるで打ち捨てられるように埋められた。大変ショッキングな出来事である。いつ誰が、何のためにそうしたのか、消えた銅鐸の謎は私の子供心に深い謎となって刻まれた。

 今でこそ、九州であれ畿内であれ、弥生の大規模な遺蹟が発見されると、それがまるで邪馬台国であるような大きな記事となって話題を振りまいているが、20年位前までは、邪馬台国のこともそんなに話題になっていなかったと思う。古代史に特に興味を持っている人にとっては別だが、学校の教科書でも卑弥呼という女王の国が日本のどこかにあって、それが中国の歴史書に描かれているといった程度だったと思う。戦前の神話教育の反動や、神話を否定した津田左右吉らの影響もあり、神話時代から邪馬台国の頃のことは、戦後の教科書はあまり触れないようになっていた。

 それでも歴史好きだった私の脳裏には、銅鐸と並んで邪馬台国の事が大きな謎となって確実にインプットされていった。いったいそんな原始的で神秘的な国が日本のどこにあったのか、卑弥呼とはどんな女王だったのか、大和朝廷とは関係があるのかないのか、心の中に謎だけは大きく膨らんでいった。

『記紀』成立の謎

私が学生の頃、建国記念日の制定で紀元節が問題となっていた。日本の建国の日は戦前の紀元節、すなわち紀元前660年の1月1日、初代神武天皇が樫原で即位した日を充てている。これを陽暦に直すと2月11日である。紀元前660年というと縄文式時代である。我が国はこの時代から天皇を中心に国家形成が出来ていたとは考えにくい事である。

また、古代の天皇の寿命が異常な程長くなっているのはなぜか。『日本書紀』によれば、たとえば天皇の寿命は神武が127歳、孝昭113歳、孝安137歳、孝霊128歳、孝元116歳、開化115歳、崇神120歳、垂仁140歳、景行140歳、応神110歳などとなって雄略天皇まで高齢者が続いている。これはなにか意図的に歴史をさかのぼらせたものと考えざるを得ないし、国家の起源の日を定める根拠は、はなはだ心もとないものだという事がわかった。

 世界の古い国家では、国家起源というのは神話的で曖昧なものが多いのがむしろ自然ではあるが、中国の辛酉革命説を採り、その思想を受けて紀元前660年まで天皇の寿命を無理に延ばしてまで設定した古代の国家観に、私は大きな興味を持った。『古事記』『日本書紀』はどのような目的で編纂されたのか、そこに書かれている事は、果たして史実に裏付けられるものなのか、それとも創作なのか、どの天皇が実在の初代天皇なのか、大和朝廷はどのようにして成立したのか、それは、最初から今に至る万世一系なのか等々、次から次に湧き起こる疑問は、私を古代史の深い谷間に魅惑的に引きずり込んでいった。

銅鐸と藤森栄一先生のこと

銅鐸は、2世紀から3世紀にかけて近畿中心に広く分布したが、その役割、使用目的は不明とされている。3世紀末頃か、突然銅鐸は消えていった。破壊され打ち捨てられたもの、整然と埋められたもの、いくつも重ねて急いでしまい置きした物など、その破棄の仕方は色々である。後の8世紀、偶然出土した銅鐸を見て、これが何なのかわからなかったという記録が『釈日本紀』に記されている。

 それ以前の7世紀、近江京に崇福寺を建立しているとき偶然見つかった銅鐸について、当時その任に当たっていた多くの百済人は勿論、当時の天智天皇、故事に精通していた藤原鎌足をしてもそのことへの言及が無く、もう既ににわからなくなっていたようでである。

 銅鐸の起源については、日本においては古式銅鐸の鋳型が北九州で出土しており、九州起源説が有力である。奥野正男氏によれば、1978年福岡県春日市大谷遺跡で片磨岩製の小銅鐸鋳型が出土したのに続き、翌年、同市岡本遺跡でも同系統の鋳型が出土した。さらに、同年佐賀県鳥栖市安永田遺跡では横帯紋銅鐸といわれる古式銅鐸の鋳型が発見され、1982年には福岡市蔗田赤穂の浦遺跡でも同系の鋳型が発見され、畿内起源の立場をとるある著名な学者も「青天のへきれき」と述べている。

 さらに、1998年、佐賀県の吉野ケ里遺跡で25センチほどの大きさの小型銅鐸が、九州で初めて出土した。九州においても、その初期段階では祭祀に使用されていた事を実証する事になった。この銅鐸は紀元前1世紀頃造られたものと見られている。

 これらは、銅鐸の原型と思われる朝鮮式小銅鐸のあった朝鮮から北九州に入り、倭国争乱時に移住した集団により畿内にもたらされ、農耕の祭器として広く畿内中心に、すなわち銅鐸圏内に普及していったものと思われる。後に銅鐸を必要としない勢力への権力の移行があって、信仰形態の変更を迫る事態が起き、ある物は隠匿され、ある物は破壊され、まとめて埋められたものと思われる。それはいったい何を物語るのか。畿内における一種の政変なのか、それとも九州などからの新勢力の進入、東遷などの事態があったのか、最大の謎である。

 今は亡き藤森栄一先生は、在野の銅鐸研究の第一人者である。その著書『銅鐸』は、毎日出版文化賞を受賞した名著であり、いまでもその輝きを失わない。銅鐸研究に一生をささげた先生の、人間史としてみてもすばらしい作品である。先生はその著のなかで、藤原鎌足が銅鐸について言及しなかったことについて、あるいはわかったからこそあえて黙殺したのか?と謎を投げかけている。さらにそうだとすれば、大和朝廷にとってあまり縁起の良いものではないことを知っていたのであろうかと記している。

 『銅鐸』の中の一章「鐸を追う少年」のなかで、子供時代、同級生の兄の言葉に衝撃を受けたと記している。「日本には天皇がいっぱいいた。あちらにもこちらにもいた。ただ経済の力が強く支持者の多かった大和朝廷が勝っただけのことだ」と。そして、昭和2年に出版されたばかりの梅原末治博士の「銅鐸の研究」を見せて、「これが、その謎のすべてを握っている。この銅鐸が…」 藤森少年は、その後せっせとこの同級生宅を訪れてはその兄の話に引き込まれていった。

 多分にこのことが、先生にとってその後の銅鐸研究に生涯をささげるきっかけのひとつになったようである。その後は進学を断念して、すさまじい情熱で研究に打ち込み、家出や転職、苦学の末に研究者の道をたどっていったのである。『かもしかみち』(学生社)も先生の足跡を知る名著である。

 先生は上諏訪に在住され、宿「やまのや」を奥様が経営していた。「やまのや」内に諏訪考古学研究所を開設、所長として銅鐸や縄文農耕の研究に情熱を傾けた。ガラスケースの中にいくつかの本物の銅鐸が展示してあったことを鮮明に覚えている。
 私は縁あって大学の夏休みを「やまのや」にホームスティして過ごす事が出来た。わずかな時間であるが、それまで愛読していた先生と知り合いになり、そのお宅に住ませて頂き、色々なお話もお聞きできた事は、当時大変な感激であった。

 利害損得にまるで無縁で、ひたすら古代史研究に没頭する先生の澄んだその眼は、本で読んだ少年時代のままであるよう思えた。そして、一つの夢(ロマン)に向かって進む人間の姿の清々しさに圧倒される思いであった。先生がそうであったように、私もそれまでのあいまいとしていた古代史への夢が、先生との出会いという一つのきっかけで、確実に心の中に刻まれたと思っている。

宮崎康平著『まぼろしの邪馬台国』

 発刊とともに話題になった本で、邪馬台国ブームの火付け役となった本といって過言ではない。盲目の古代の旅人といわれ、奥様が杖となって研ぎ澄まされた感覚で地名比定を行なった。中身の評価はいろいろ分かれるが、ともかく感動の書である。

 たまたま学生時代、彼の母校早稲田大学での講演を知り、心躍らせてその講演を聞いた思い出がある。失明というハンディキャップのために、大量の古代史資料を奥様に読んでもらいながら知識を習得し、奥様と共に多くの参考地を訪ね歩く記録、25年間をかけて一冊の本にまとめ上げる執念、底知れぬその情熱の深さに私は完全に圧倒された。一つの物事への飽くなき探求心と情熱、古代史への夢とロマン、この本から受けた衝撃から私の邪馬台国探訪が始まったとさえ言える。

 その後、少しずつ古代史の本をひもといていくと、私が持っていた「消えた銅鐸の謎、邪馬台国の謎、記紀編纂の謎」の三つの疑問は密接につながっている事に気づいてきた。それらの絡み合った縄を少しずつ解いていけば、やがてベールに包まれた古代の原像が浮かんでくるのではないかと思うようになった。その日から、真実の古代通史に自分流で挑んでみたいという思いが、私のライフワークになった。

 そして、若き日に出会ったお二人の生き方が、大きな存在として内在し、古代史研究への力となっている。ただし、私はあくまでも素人であり、研究に命をかけたお二人の足元にも及びもしないが、古代史にかけた夢とロマンだけは何とか少しでも受け継いでいきたいとの思いがあり、今日に至っている。このささやかな小論を、あえて「古代史ロマン」とつけたのもその思いからである。


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