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第17章 イリ系王権とタラシ系王権の結合

五十瓊敷入彦命の幻影


 五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)は、『記紀』の系譜では活目入彦(垂仁天皇)の子である。皇后日葉酢姫の第1子で、第2子が大足彦命(景行天皇)である。14章の「イリ王権の後継者」の中で述べたように、この二人については、前記したように五十瓊敷入彦命天皇の片腕となって多方面に活躍した記事があるのに対し、大足彦命については記述がほとんどない。しかし、天皇が「お前達の望むものは何か」と問いただしたのに対し、兄の五十瓊敷入彦命は「弓矢を得んと思う」と答え、弟の大足彦命は「皇の位を得んと思う」と答えたため、天皇は大足彦命に「わが位を継げ」と言われたとあり、後に皇太子に立てたのである。狭穂彦王の反乱など王権の安定がまだ定まらない中で、頼りにする五十瓊敷入彦命を差し置いて、弟の大足彦命を選ぶという不自然な後継者決定である。また、イリを名乗る第1子に替えてタラシを名乗る名称に代わる不自然さもある。さらに、前述したように大足彦命=景行天皇の活躍の場が、突然九州中心になる不自然さもある。

 こうした不自然さは、まさに『記紀』の作為的な編纂によるもので、私は、五十瓊敷入彦命が実は正統な後継者であったのが、天皇系譜上は消されて、実際は九州にあった大足彦命に始まるタラシ系王権に繋がれたと見ている。五十瓊敷入彦命は、本来の大和イリ系王権にあって景行天皇の立場に相当する人物であった。「弓矢を得んと思う」というほどの武人であり、イリ系王権の支配権拡大に奔走したはずであり、同時にイリ系王権の消滅に関わる人物であったと思われるのである。

 イリ系王権の中心地纒向遺跡からは、山陰、北陸、河内、吉備、関東、近江など全国各地からの土器が約20%出土しているが、その中で東海地方から持ち込まれた物が約50%と断然多い。これらは纏向との交流があった地域圏を示しており、古墳づくりなどに動員された人々が持参した可能性も強い。このことは、イリ系王権の基盤が拡大していったと見ることも出来るが、東海地方の突出は、イリ系王権の影響力が東海地方に及び、やがて東海地方の勢力の大規模な進出があったと見ることもできる。崇神天皇の時代には、地域の制圧教化のために四道将軍を派遣した記事があるが、東海地方には武渟川別(タケヌナカワワケ)を派遣したとあり、イリ系王権が、初めから後背地としての東海地方に関心を寄せていたことが知られる。

 しかしながら纏向遺跡は、4世紀の半ば頃には衰退期を迎えており、イリ系王権の弱体化と東海勢力などの進出には関連性があるように思われる。すなわちイリ系王権は、三代目の継承候補であった五十瓊敷入彦命の代で実質的に終末を迎えたと・・・。そのことは、五十瓊敷入彦命の死と、新たな勢力の進出による大和地方の混乱期の到来を意味するものである。

 五十瓊敷入彦命の死、それはある人物を想定させる。すなわち東国征伐のヤマトタケルである。ヤマトタケルは、東海地方の尾張国造の家に泊り、その娘の美夜受比売(ミヤズヒメ)を嫁にしたいと縁談を申込み、関東、蝦夷の国々を征伐し、帰路尾張で結婚したものの伊吹山での非運の死を迎えた。この東国征伐のヤマトタケルは、前述したように景行天皇の子で九州征伐を行なったヤマトタケルとは別人の可能性が高い。そう見ると、『古事記』『日本書紀』にある東国征伐のヤマトタケルのモデルとなった人物像は、活目入彦(垂仁天皇)の命を受けて、イリ系王権の勢力拡大に奔走した五十瓊敷入彦命その人のことではないかと思われるのである。説話には必ずモデルがいたと見るのが自然である。

 私の見方では、五十瓊敷入彦命の死後、新興の勢力により大和地方は混迷の時代に入っていた頃、九州では半島からの渡来が相続き、そうした流れの中に大足彦命とその子であるヤマトタケルにより九州内の制圧が進み、新たな九州統一王権が誕生していった。この新勢力は、九州・長門地方で、もとの邪馬台国や投馬国などの後継勢力と渡来系勢力が融合、連携して出来たもので、やがて畿内周辺の渡来系勢力と協力関係を結びながら勢力を拡大、畿内進出を果たすことになる。その接着剤の役割、すなわち『記紀』で畿内にあったとされる景行天皇と東国征伐のヤマトタケルのモデルとなったのが五十瓊敷入彦命の幻影だったと言えるのではないかということである。

 ただし、後に詳しく述べるが、神功皇后の時に仲哀天皇の死があり、新たな渡来系の勢力の中から武内宿禰が実権を持つ形で、まだ赤子である誉田別(ホムタワケ・後の応神天皇で仲哀天皇の子とされている)とともに畿内に進出、弱体化してた大和イリ系王権に変わり、やがて新たな王権、すなわち全国統一的な大和朝廷の誕生を見るのである。その勢力は、タラシ系王権を受け継いだものなのか、それとも仲哀天皇の死でいったん途絶えて、武内宿禰と神功皇后による新たな血統を持つものなのか、謎を秘めていると言える。これについては後に詳しく記したいが、私は、新たな血統を持つ王権が、『記紀』編纂時に九州の景行天皇に始まるタラシ系王権と系統を繋ぎ、さらにもともとあったイリ系王権の系譜に繋がれたものと見ている

繋がれたイリ系とタラシ系王権

 御間城入彦(崇神天皇)、活目入彦(垂仁天皇)と二代続いたイリ系王権だが、実質三代目となるはずの五十瓊敷入彦命の死により、王権の継承は困難となった。五十瓊敷入彦命はおそらくは、尾張か近江付近での戦いで死んだものと思われ、伊吹山で非運の死を遂げた東国征伐のヤマトタケル伝説のモデルとなった可能性が高い。

 岐阜市の伊奈波神社には五十瓊敷入彦命が祀られているが、その縁起によれば五十瓊敷入彦命は、朝廷の命を受けて奥州を征伐したが、同行者にその成功をねたまれ、帝位を狙っていると諫言され、朝敵とされてこの地で討伐されたとある。奥州征伐の真偽はともかく、五十瓊敷入彦命が東海中部地方まで遠征し、戦いで死んだことが裏付けられる資料であり、ヤマトタケルの死に似ている。

 大和地方は、その後正統な継承者を欠き混乱混迷の時期に入っていったと思われ、纏向の地も荒廃した。その後の景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后などの活躍の場がほとんど九州など西国になっているのは、この間の大和地方における混乱による王権の不在と、九州地方に、旧邪馬台国勢力も取り込み、長門地方や北九州一帯を治めた大足彦命を祖とする新たな一族系によるタラシ系王権の誕生を示唆している。 無論、天皇の称号は後に付けられたものであるが、一応その表現で進めたい。

 この王権の勢力は、旧邪馬台国勢力などの後継勢力と新たな半島からの渡来集団とが融合、連携してできたものと思われ、
その意味では大和イリ系王権を打ち立てた御間城入彦(崇神天皇)の流れを汲む勢力でもある。やがて丹後や近江、越前などの渡来系勢力などと手を結び畿内に進出、ここに始めて全国を統一的に支配下に治めた大和王権・大和朝廷の誕生を見ることになるのである。しかし、ここで問題なのは万世一系の思想のもとに編纂された王権の継承である。この王権がそのまま畿内入りしたのか、疑問もある。

 『古事記』『日本書紀』などの系譜には、こうした王権の交替記事は無く、崇神天皇から応神天皇までも一統の王権として記載されている。しかし『記紀』がいかにうまく話を整えても、無理に張り合わせた影があちこちに見え隠れするのもこれまで述べてきた通りである。

 『記紀』編纂者の狙いは、万世一系の皇統の確立であり、支配の正統性の証明である。このために、御間城入彦(崇神天皇)以前の初期三輪王権(出雲や吉備からの進出者による王権)と、崇神天皇からの大和イリ系王権も連綿として繋げたし、御間城入彦勢力の畿内進出の話をモデルに神武東征説話を編み出したりもした。辛酉革命説に合わせて推古天皇9年から1260年遡った年を神武元年としたため、古代の天皇の寿命を不自然なほどに長く延ばしたりもした。こうしたことをしてまで作り上げた万世一系の歴史からすれば、イリ系王権とタラシ系王権を繋ぐ作業も当然といえば当然の作業であったと言える。
 
 しかし、『記紀』編纂者たちは全くのでたらめな歴史を創作したわけではない。むしろ歴史的事象、伝承などをなるべく忠実に再現しようとしたことも事実である。万世一系の歴史だけは譲れないが、その他は極力伝承に基づいた形跡がある。例を挙げれば、実態は崇神天皇を意味するのだが、天皇の始祖が大和発祥ではなく九州から来たことを神武東征説話として記している事、全くの創作なら天皇の寿命を無理に延ばさず天皇の数を増やせばよいものを、ほぼ実在の大王や王権をつなげて長命化たことなどにその姿勢が現れている。

 こうした観点から今回の王権の継承を見てみると、『記紀』の編纂者たちは、大足彦(景行天皇)に始まり稚足彦(ワカタラシヒコ・成務天皇)、足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀天皇) 神功皇后と続く九州発祥のタラシ系王権が、新たなリーダーのもと、丹後や近江、越前などの渡来系勢力などと協力して畿内に入り、弱体化していたイリ王権を引き継ぎやがて応神天皇を擁立した新王権の史実を隠し、イリ系王権とタラシ系王権の自然な形での継承を意図して、活目入彦
(垂仁天皇)の後に九州にあった大足彦命(景行天皇)以後の王権を、大和に実在した天皇として天皇系譜を繋いだものと思えるのである。

 具体的な改編は、九州にあった大足彦命を五十瓊敷入彦命の弟として系譜に組み入れ、大和における正統な継承者、すなわち景行天皇とした。また本来の継承者であった五十瓊敷入彦命の説話を東国征伐のヤマトタケルの話に置き換えて残したものと思われるのである。しかし、景行天皇以後の諸天皇や皇族の事績が実際に九州地方中心なのは変えられず、やむなく景行天皇の九州巡行の話、ヤマトタケルの九州熊襲征伐記事として残したのである。また、仲哀天皇と神功皇后の九州巡行、三韓征伐記事、九州で生まれたとされる応神天皇の大和への帰還記事などは、王権の交替を隠し、あくまで遠征記事として一統の系譜維持のための作為があちこちにほどこされたのである。しかし、タラシ系王権は神功皇后の時に大きく変質するのであるが、このことは次章以下で武内宿禰と応神天皇の謎として追求することにしたい。

 話が少しそれるが、五十瓊敷入彦命と大足彦命の兄弟の話と、大碓命(オホウスノミコト)とヤマトタケルの小碓命(ヲウスノミコト)の兄弟の話は、ともに片方が武道に優れ、片方が弱々しいなど類似性がある。これはともに片方が創作された人物だったためと言えるかも知れない。また、景行天皇が九州の人となると、景行天皇の陵とされている大和の柳本古墳群の渋谷向山古墳は、実際は垂仁天皇陵の可能性がある。その場合近接している行燈山古墳(現崇神陵)は、五十瓊敷入彦命の墓と見るのが自然であり、そうなると崇神天皇は前に述べたように纏向遺跡の中心地にある箸墓古墳に眠っている事になる。この見方は古墳の年代順、形式を考えると妥当であり、森浩一氏も指摘しているところである。(ただし、森氏は行燈山古墳を景行天皇陵と見ている)

 いずれにしても、こうしてイリ系王権とタラシ系王権が『記紀』の編纂時に繋がれて一系となったことは間違いないと思われる。 これまで大きな流れの中で、イリ系王権とタラシ系王権の結合について記してきたが、それではこのタラシ系九州王権とはどんな勢力なのか、神功皇后の時にどのように変質したのか、渡来人とのかかわりなどについて、考察してみよう。

九州の王権と渡来人

 投馬国や邪馬台国連合による畿内進出後の九州や周防灘周辺の西国は、どんな状況であったろうか。卑弥呼や台与など邪馬台国の女王の存在は、その後もシャーマニズム信仰の対象と信仰の対象とされてきたであろう。後に建立された宇佐神宮の三祭神のうち、比売大神が最初に祭られた地主神であるとされている。この比売大神については、宗像神社の三女神とされているが、卑弥呼、台与を対象とする信仰が元になったという可能性もあり得ると考えている。また、福岡県香春町の香春神社の祭神も辛國息長大姫大目命、忍骨命(おしほねのみこと)、豊比売命とあり、豊比売命が古くからの地主神とされているが、これも台与のことではないかと考えられるのである。

 九州のこの地域一体の地名も豊の国と呼ばれていた。豊という地名はいつ頃から発祥したのか定かではないが、台与が共立された以前からの地名であった可能性が高い。『古事記』の中でも、イザナギ、イザナミの両神が生んだとされる国々の中で、九州である筑紫の国を生んだ記事のあと、「この島は顔が4つあって、筑前筑後を白日別、豊前豊後を豊日別、肥前肥後を建日向日豊久士比泥別、熊襲の国を建日別という」と記されている。 また、『日本書紀』でも豊葦原中津国などの地名が出ており、豊という名前は古くからあったもので、豊前・豊後地方は古くからの豊の国と呼ばれていたようである。

 話がそれたが、中心勢力が移動した後の北九州一帯は、やはり弱体化したものと思われる。狗奴国、すなわち熊襲との戦いも終焉しておらず、むしろ弱体化を見抜かれ攻め込まれていた可能性が強いと思う。後の話だが、大足彦命、ヤマトタケルの新勢力による熊襲征伐記事も、豊の国周辺から始まっているのが端的にそのことを示している。

 その中で、前述した景行天皇による九州内征伐の記事の冒頭に登場する神夏磯媛(カムナツソヒメ)の存在が気にかかる。周防の娑麼(さば・山口県佐波)に着いた天皇からの使いが来たことを聞き、船に白旗を掲げさっそく帰順した豊の国の多くの手下を持つ女首長である。そのときに持参したのが、磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)の上の枝に八握剣(やつかのつるぎ)、中の枝に八咫鏡(やたのかがみ)、下の枝に八尺瓊(やさかのに)を吊り下げたいわば御印である。これは何を意味するのか。従来あまり検討されることが無かったが、これらは王権の象徴でもある。八咫鏡については、原田大六氏が伊都平原古墳から出土した日本最大の大鏡、内行花文八葉鏡(四面)をいわいる伊勢神宮にある八咫鏡と同じではないか、さらに平原古墳に眠るのが女王卑弥呼ではないかと提起したことが知られている。(『実在した神話』学生社・『卑弥呼の墓』六興出版) 

豊の国に居る女首長は、卑弥呼が魏より賜った百枚の銅鏡にふさわしい八咫鏡を持ち、周囲に賊が多く従わないなどの苦しい状況にあったことなどを考慮すると、この神夏磯媛の勢力こそが、中心勢力が畿内に移った後に残された台与を中心とした邪馬台国の後継勢力であった可能性がある。また、神夏磯媛こそ台与の後継者であった可能性もあるかと思っている。この場合、新たなオオタラシヒコ(後の景行天皇)の勢力がこの邪馬台国などの残存勢力を吸収し、王権に正当性を加えていったと見ることもできる。
 

 そうした状況のなかで、半島より渡来する人々が増え、旧邪馬台国などの後継勢力との融合が進み、新たな勢力が増え続けた。 そうした新勢力の実態とはいかなるものであろうか。ここで渡来系集団の流入について検討してみよう。

 宇佐を含めた豊前地方には、早くから朝鮮系の人々や文化が流入していた痕跡が多くある。その点について清輔道生氏の本の中に、次のような記述がある。
 「宇佐を含めて旧豊前国には極めて朝鮮系渡来人が多い。従来は、5世紀ごろ大量の朝鮮人(特に大加羅=新羅人)が渡来し、豊前西北部にある香春岳を中心に土着したものだろうと考えられてきた。ところが、その時期はもっと遡って3世紀頃から波状的に渡来してきたのではないかと提唱されるようになった。(中野幡能博士の説) 宇佐の赤塚古墳が日本最古の前方後円墳と推定されたから、その土木技術は3世紀に宇佐の倭人が開発した技術・文化であると考えるよりも、新羅人が渡来してもたらした文化・技術と考える方が納得がいくはずである。さきにも触れたが、赤塚古墳には、現在判明した方形周溝墓が18基も発見されている。ところで、この方形周溝墓は朝鮮半島系といわれているものである。また駅館川中流左岸の微高地にある、弥生時代後期後葉の集落跡といわれる別府(ひゅう)遺跡住居跡の中から、平たく押しつぶされた朝鮮式小銅鐸が、廃棄された状態で発見されたのである(昭和50年)」(『卑弥呼と宇佐王国』・清輔道生著)


 ちなみに、豊の国の中心地に近い香春神社について、豊前国風土記に「香春の郷に昔、新羅の国の神、自ら渡り来て、この河原に住みき。名づけて香春の神という」とある。これはこの地に、新羅などからの渡来人が多数集団で渡来していたことを物語る記述でもある。祭神の中の辛國息長大姫大目命という名前が息長氏に繋がり、神功皇后の気長足姫も連想させる。

 一方『随書』の倭国伝の中に、「明年(大業4年、608年・推古天皇16年)、帝が文林郎裴清を倭国に使わした記事中に、下記のような表現がある。百済を渡り、(略)都斯麻国(対馬)を経て、東行して一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(筑紫)に至り、また東に行き秦王国に至る。その住民は華夏(かか)と同じく、夷州と思われるが詳しくは分からない。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな倭に付属する」

 これを解釈すると、九州の東海岸沿いに秦王国と呼ばれる渡来系の住民の本拠地(王国)があったことになる。実際豊前地方には渡来人が多く住んでいたようで、後の702年の豊前国戸籍では中津郡全人口の85%が秦氏を名乗っていたという記録もあるほどである。

 次に、こうした渡来人の流入がなぜこの時期に多くあったのか、朝鮮半島の流れについて見てみよう。『魏志』韓伝によれば、「韓は帯方郡の南にあり、東西は海であり、南は倭に接す。韓には三韓があり馬韓、辰韓、弁韓という」とある。一方今の北朝鮮の北にあたる地方には古くから高句麗が成立していた。また、半島の南端は倭に接すとあるが、これが『魏志倭人伝』にある狗邪韓国と思われ、倭人の国と理解されていたのである。265年に晋が魏を破り中国を統一すると、魏の出先機関である楽浪郡、帯方郡も次第にその足場を失い、4世紀初頭には高句麗に攻められ楽浪郡、帯方郡ともに放棄された。

 こうして中国による半島支配から脱した南朝鮮は、国家形成への動きを強め、馬韓諸国は346年ごろ百済として成立、辰韓は356年ごろ新羅として国家を樹立し、辰韓の南端の地方は新羅の影響を受けつつも小国分立状態となり、伽耶地方と呼ばれるようになった。一方、高句麗は膨張主義を取り、遼東半島や半島南部の百済を攻め、また新羅にも圧力を加えていった。この頃の半島動乱が大量の渡来人を倭国に流入させたのである。

 このように、4世紀半ば以降、九州や日本海各地に半島からの渡来人が多くやってきた。日本の『記紀』にもこうした渡来系の人々の話が多くある。14章に詳しく書いたようにツヌガアラヒトと天日槍(アマノヒボコ)の来日伝説がある。この二つは同じ出来事を記したものである。特に天日槍については新羅の多羅からの渡来のタラ族で、たたらなどの製鉄技術を持った集団という指摘もある。

 ツヌガアラヒトは、最初穴門(長門・山口県)に到着したとある。穴門はいま論じている九州におけるタラシ系王権の中心地のひとつである。なぜなら足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀天皇)が都を構えたのが穴門豊浦宮だからである。『日本書紀』はここに王がいて、伊都都比古と名乗ったという記事もある。また、足仲彦(タラシナカツヒコ・仲哀天皇)に合う中津市が豊前にあるのも興味深い。

 こうした渡来系の集団が九州や中国地方に多く渡来し、特に北九州、豊前、周防
地方を中心に勢力を蓄えていった。そうした状況の中で旧邪馬台国などの後継勢力とも融合、連携が進み、やがて九州一円の制圧を図り、この地にあらたな王権を樹立したものと考えている。この制圧に関わる記録が、景行天皇とヤマトタケルの九州熊襲征伐記事の元になったものであり、タラシ系王権の天皇たちがなぜ九州周辺に都を構え、この地での事績中心になっているのかもこうした理由なのである。しかし、『記紀』編纂では、畿内にあって衰亡したイリ系王権に繋ぐ作業がほどこされたため、連綿とした系譜で記述されているのである。次に、このタラシ系王権について詳しく見てみよう。

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