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第3章 邪馬台国と東アジア

太伯伝説

 陳寿が、『魏志倭人伝』を編纂するにあたり最も重きを置いた資料は『魏略』であることは前に述べたが、その『魏略』の中に「郡より女王国まで一万二千余里、其の風俗は男子大小となく皆鯨面文身(顔や身体に刺青)す、昔からその使いが中国に来ると自らを太伯の後という」とある。つまり倭国の人々は身体に刺青をし、自分たちは呉の太伯の後と名乗ったということである。この太伯とは周王朝の嫡系でありながら、権力争奪に明け暮れる中原の政界に見切りをつけ南方に隠遁し、鈎呉と称して呉の開祖となり、孔子から「至徳」の聖人と仰がれた太伯のことを言い、その死後千余年の間、王統が連綿として続いたというのが太伯伝説である。

 邪馬台国の人々がこの末裔であると名乗っていたことは誠に興味深く、前述した春秋戦国時代の末、呉、越などの倭人が流民化して朝鮮半島南部や九州などに大量に流入したことを裏付ける。文中にある鯨面文身は江南地方の習俗であり、稲の伝来とともに刺青の習慣がもたらされたものと思われる。

 この太伯伝説のことは『太平御覧』に引用された『魏志倭人伝』の中にも記されているが、現行の通用本である『魏志倭人伝』(吸古閣本、紹興版など)にはその前後の記載事項,表現が同様であるにもかかわらず欠落しており、書写の際の欠落とされている。こうしたことが記載されたのは、漢にしても魏にしても前政権を打ち倒す易世革命を繰り返していた中国からすれば、系統にこだわる倭人の思想が不思議に見えたからである。もともと、呉や越の人々は原アジア人種で、当時その北方に勢力を持っていた漢民族とは本来異質の海洋民であるという研究もあり、倭人のルーツにつながる話として検討されるべき課題だと思っている。

 この系統を尊重する思想は、もし邪馬台国、または同系等の勢力が後に畿内に東遷し大和朝廷につながるとすれば、大和朝廷の万世一系思想と通じる部分があり興味深い。このことは「邪馬台国は万世一系を誇りとする太伯伝説を有していた(『邪馬台国は大和ではない』・市村其三郎)」にも記されている。 

 ちなみに古事記にある神武東征の話の中で、同行した久米族の刺青をみて畿内の人々が驚く個所がある。畿内には刺青の習慣はなく、神武東征の話が後に述べる九州勢力の東遷にあたるとすれば、邪馬台国九州説を裏付ける状況証拠となる。

徐福伝説

 古くから中国より朝鮮半島への移住者はいたが、中国の戦国時代(前403年〜前221年)になると多くの中国人が半島に移住した。やがて秦(前221年〜前206年)が最初の統一王朝を打ち立てたが短命に終わった。始皇帝による強権政治は、今次々と発掘されその全貌が明らかにされつつあるが、万里の長城などに見られる大規模な事業は多くの労苦を人民に与え、流民化する人々も多かった。その中に朝鮮半島と倭国に渡ったとされる徐福の話がある。

 前漢の司馬遷が書いた『史記』によると、不老長生の薬を求めていた始皇帝のもとに、徐福が、その仙薬を海のかなたの三神山に住む仙人から求め得ることを申し出、始皇帝よりその役目を担って出航したものである。徐福はうまく話をまとめ、三千人の技術者集団や童男童女、五穀の種子などを用意させた。一行は遼東半島南部一帯から出向し、まず朝鮮半島南部に上陸、後に辰韓と呼ばれる地域や、倭国の有明海一帯に上陸したと言われている。辰韓の由来は「秦の韓」というのが始まりのように思える。『魏志・韓伝』には老人の話として「秦の役を避けて韓に逃れてきた人々に馬韓の東の地を割いて与えた」とある。

 一方、有明海沿岸に到着した一行は、佐賀平野一帯や博多湾沿岸などに広く展開したものと思われ、佐賀には徐福にまつわるさまざまな伝承が多い。稲作農耕や養蚕など多くの技術を住民に教え,徐福を祭った金立神社がいまも存在する。近年発見された佐賀の吉野ヶ里遺跡は、紀元前2〜3世紀頃からの遺跡なのでちょうど時期を同じくする。この徐福集団も、前章で述べた戦国時代の呉,越など江南地方から朝鮮半島を経由したり直接流入した倭人とともに、初期の倭人の国々を築き上げた勢力である可能性が強い。福岡県早良平野の吉武高木遺跡などこれらの人々が九州において最初の小国を作っていった後に、奴国、伊都国、邪馬台国などの諸国が成立したものと考えている。

 この徐福の伝説は、近年中国では実在した人物として考えられており、江蘇省に徐福村の存在が確認されている。また日本国内にも佐賀のほか、和歌山県新宮市、三重県熊野市など十数カ所に徐福伝説が伝えられている。三千人の集団は、倭国の各地に分散上陸したものと想定される。中国航空学会の丁正華氏は、徐福集団を日本に大量の青銅器をもたらした最初の秦氏集団であると述べている。

中国と朝鮮半島の情勢

 邪馬台国の時代を理解する上で、中国大陸と朝鮮半島の状況を知っておく必要がある。徐福に不老不死の仙薬を求めさせた始皇帝による強大な秦も、前206年、漢に滅ぼされ短命で終わりを遂げた。漢は武帝による積極的な領土拡張政策により、北方の匈奴、南方の南越国,西方地域などを手中に収め、やがて東方に進出、当時の朝鮮半島にあった衛氏朝鮮を攻めた。朝鮮半島では、日本よりやや早く、紀元前7世紀ごろから大陸より稲作や青銅器技術など新たな波が押し寄せ、その後紀元前2世紀頃からは鉄器も使われ始めたと言われている。この頃前述した『山海経』に倭が従っていたとされる燕が漢によって滅ぼされ、その一族の衛満が朝鮮半島に衛氏朝鮮を成立させた。これが半島における初期の国家とされている。

 しかし、この衛氏朝鮮も、紀元前109年、朝鮮半島に目を向け始めた漢の武帝により滅ぼされる結果となり、武帝はここに楽浪郡を設置し漢による半島の支配が始まった。この出来事により半島南部にも後の馬韓、辰韓、弁韓などを形成する小国家群が成立し、楽浪郡のもとで統率が図られていった。 「夫れ楽浪の海中に倭人有り。分れて百余国と為る、歳時を以って来りて献見すと云う。」と倭人のことが『漢書地理志』に書かれたのも、この頃のことである。しかし、積極的な拡大政策は財政の困窮化などを招き、半島の経営も弱まっていった。漢の末期には、戦乱など国力の停滞を招き,人口を激減させるなど衰退し、ついに紀元37年光武帝による後漢の成立を招いた。

 この後漢の時から遠方の直接支配を改め、当事者に統治権を授ける方式を採用した。紀元57年に金印を授かった倭奴国王の場合もこれにあたる。しかし、後漢も2世紀後半ごろから国内に腐敗政治が横行し、黄巾の乱の発生などで国力の衰退を招き、楽浪郡の支配力も弱まっていった。こうした状況の中で楽浪郡は、周囲の国々や南部の韓族などが進入する状況となり衰退した。やがてその北部の肥沃な土地である遼東、遼西地方の豪族であった公孫康が兵を起こし韓族らを圧倒し、204年楽浪郡の南半分に帯方郡を設置した。

 『三国志東夷伝韓伝』によれば、その頃韓も倭も公孫氏に従っていたという。『魏略』や『魏志倭人伝』に書かれた倭人、倭国の情報も多くはこの頃の往来によって記録されたものだったと思う。公孫氏は帯方郡を設置し、漢の末期から魏の明帝に滅ぼされるまでの約半世紀にわたり朝鮮半島を実質支配した。韓の諸国や倭の国々は、この公孫氏の帯方郡を通して漢と通交を結んでいたのである。

 世界の中心の中華思想を生むほどの強大国漢も、2世紀末、黄巾の乱などから崩壊し、これからあの華々しい三国志の時代、すなわち魏、呉、蜀の三国鼎立時代を迎えた。景初2年(238年)8月、魏の明帝が公孫氏を滅ぼし楽浪、帯方の二郡を収め、帯方郡にその中心を置いた。『魏志倭人伝』にある卑弥呼の最初の遣使は、景初3年(2年と誤記)、帯方郡を経て魏の都洛陽に行ったもので、今から見ても新たな半島の支配者に対するすばやい外交であった。このときの使者は、大夫難升米(ナシメ)と都市牛利(トシヨリで都市与利の誤写か)であり、明帝より卑弥呼に「親魏倭王」の金印が授受された。この後台代(トヨ)の代まで何度かの往来があったが、265年、魏が西晋によって滅ぼされるとこの二つの郡もその支配化に入ったが、遼東の勢力や日増しに勢力を高めてきた高句麗の圧迫を受け、4世紀には楽浪、帯方の二郡は高句麗の支配下になった。このことにより、中国の半島支配が終焉した。

 朝鮮半島南部の馬韓、辰韓、弁韓諸国は高句麗の圧迫を受け、それぞれ独立国家を目指し、百済、新羅、弁韓として独立した。ただこの中で弁韓だけは統一国家を目指さず、十二カ国の小国家連合の形になった。この弁韓については伽耶という呼称や任那という呼称でも呼ばれ、かつての呉、越からの倭人の流入、徐福伝説の上陸地,さらには徐福に続く、弓月君集団の朝鮮半島への移住先など倭人とのかかわりの多いところである。『魏志倭人伝』にある狗邪韓国もこの中の一国であるが特別な存在で、邪馬台国連合の一国にも数えられていた可能性が強い。

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