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第4章 邪馬台国へのアプローチ 方位の問題 さて、いよいよ『魏志倭人伝』の本文の検討に入るが、まず、その中に記されている方位、里程、日数、戸数などの基準の解釈をしておかなければならない。これらの理解の仕方一つで邪馬台国の位置はどこにでも行ってしまうからである。 ここで、『魏志倭人伝』に記載されている行程記事の内、方位、里程、日数、戸数のみを記してみると、郡より狗邪韓国は南あるいは東に水行しながら七千余里、対馬国までが渡海して千余里、戸数が千余戸、壱岐国までが南に渡海して千余里、戸数三千許家、末羅国までが渡海して千余里、戸数四千余戸、伊都国までが東南陸行五百里、戸数千余戸(魏略は万余戸)、奴国は東南に百里、戸数は二万余戸、不弥国は東行百里、戸数千余戸、投馬国は南に水行二十日、戸数五万余戸、邪馬台国は南に水行十日陸行一月、戸数七万余戸となっている。方位については、記載されているものと記載の無いものが混在、里程については不弥国までは記載されているが、投馬国、邪馬台国は日数表記、戸数は狗邪韓国を除いて記載されている。 邪馬台国を九州に位置付ける人も、畿内説をとる人の場合でも、大方の人は『魏志倭人伝』の最初の到着地点である末羅国を東松浦半島の呼子または唐津付近に置いている。末羅を松浦と解釈できるとしている。そこからの記述によれば、東南に五百里の伊都国を糸島平野の前原町周辺、東南百里の奴国を福岡平野中心部、東行百里の不弥国を福岡平野周辺(宇美町付近)に置いており、実際の方向と記述された方向には約30度〜65度位の誤差を指摘する。その位置関係が明確な対馬、壱岐間も南に千里渡海して到着すると書かれており、実際には東南の方向であり誤差を裏付けるという。集約すれば『魏志倭人伝』の方向記事は実際と約45度前後の誤差があり、修正して理解すべきとする説が主流である。 私は、方位の修正の余地は認めるが、誤解説には賛同できない。夏至は中国でもある訳だから、夏のため単純に間違ったなどと無能扱いするのも良くないのではないか。そもそも魏使達は測量技師でも方位方角の専門家でもないが、こうした報告を書いたのは魏使の認識ではないと思うからである。それではどのようにこの方位問題を考えればよいのか。 また、『魏志倭人伝』に邪馬台国の位置に関して、「倭の男子は大小となく、皆鯨面(顔の刺青)し文身(刺青)している。その旧語を聞くに皆自ら大夫(中国式の高官名を名乗った)という」の文に続けて「中国に昔、夏后少康の子か会稽に封じられて、身体に刺青をして蛟龍(サメなど)を避けた話があり倭人もその習俗を受け継いでいる。女王国はその道理を計ると会稽、東冶の東にあたる」という記事がある。つまり倭国は南北に連なり、女王国は江南の会稽、東冶の東にあたるというもので、こうした理解のために倭人伝の方位に関して東とするべきところを南としてしまったと言われている。 里程の問題 方向の問題に比べ、距離の表現には問題が含まれている。「郡より女王国に至る万二千余里」とあるのをそのまま魏の基準どおりに、当てはめると邪馬台国は南なら沖縄の方になり、東なら畿内方面になる。しかし、『魏志倭人伝』にある里程記事には伊都国までに要した距離は、韓国内で七千余里、対馬国まで一千余里、壱岐国まで一千余里、末羅国まで一千余里、郡使の駐まる伊都国まで五百里とあるからあと残り一千五百里弱となる。ただし、対馬、壱岐は共にかなり大きい島であり、他の国に無い面積の記述がある。対馬については方四百里、壱岐は方三百里である。島の一辺を通過するとして合計七百里になり、これを行程に加えるかどうかで違いがある。たとえば壱岐で見た場合、その北端の勝本港に到着寄港し、その後島の西沿岸を迂回、南西の郷ノ浦港に寄港したと想定すると、勝本までを一千余里、郷ノ浦までの一辺を三百里と記したとも考えられる。対馬については一辺を四百里と記してあるので、壱岐との比較から浅茅湾以南を表現したものと思われ、寄港地は不明であるが、壱岐と同様の記述と見ることも出来る。そのように見た場合、伊都国から邪馬台国の女王の都する所までの残る距離は、一千五百里弱から二島の辺分七百里を引くと残り約八百里弱となる。 魏の一里は約430メートルであるが、『魏志倭人伝』の里程表現は、途中のほぼ確実な比定地間でみてみると、魏の基準とは大きくかけ離れている。従って倭人伝独自の基準で読む必要がある。地図に糸を置いてなるべく実際の行程になるように曲げながら計ってみると、狗邪韓国(金海付近・港は釜山付近)から対馬(浅茅湾)までが約65キロ、対馬壱岐(勝本)間が約60キロ、さらに壱岐と末羅国(唐津付近)間は約60キロ、末羅国と伊都国(前原町付近)が約30キロである。想定地点をどこに置くかで誤差も出るが、これから判断すると魏使が一千余里、五百里と表現したのは比率的には意外に正しい感がある。 ただし、実際の行程では、たとえば小島を避け、対馬海流を横切るためには船は大きく西に迂回して回り込まなければならないことや、山が海に迫る日本の国内は地形に沿って曲がりくねった道が多かったはずで、さらに2〜3割は増やして見る必要がある。従って実際の行路上の距離一千余里と表現された区間は約70〜80キロ、五百里と表現されたところは35キロから40キロとなる。結局倭国内における魏使の表現した里程基準は、一里が約75メートル前後と見て良い。そうすると邪馬台国(女王国の都する所)までの距離は、島の一辺を加えた想定に基づけば、伊都国の津から南(東南)に八百里弱、実際行程で60キロ前後の所、一辺を加えない場合でも一千五百里弱で約100キロ前後となる。 実はこの方位と里程は『翰苑』の中の『魏略』逸文に一部が既にあり、陳寿はこれを参照したと思われるのである。従って魚拳の認識、魚拳の見た原資料こそ問題なのである。それらの原資料は、民間人の報告や情報を集めたものや、魏使の報告を基にしたものと考えられるが、『魏略』の逸文中に、例えば郡より狗邪韓国までを七千里、対馬までを始度(渡)一海千余里、対馬を方四百里、壱岐を方三百里、末羅国までを度(渡)海千余里、伊都国までを東南五百里、帯方郡より女王国まで万二千余里など、『魏志倭人伝』の里程記事の大半が既に記されている。 孫栄健氏は、『邪馬台国の全解決』の中でこうした中国の誇大表現を常とする「露布の原理」を説明し、倭国への誇大表現は帯方郡を治めていた司馬懿将軍が、魏の明帝に送った露布の報告書にあったのではないかとしている。司馬懿将軍が本来の魏使の報告書を誇大表現に改めた可能性も否定できない。武光誠氏も司馬氏の宣伝文書の影響を指摘している。 しかしながら、『魏志倭人伝』には、「倭の地を参問するに・・周旋すること五千里ばかりである」とも書かれているので、九州の北部半分と考えれば、帯方郡からの距離一万二千余里との整合性もあることになる。無論畿内説であるならば、倭の国周旋となると九州・四国・本州の半分位を示すことになり、五万里であっても足らない話になる。これも邪馬台国九州説を裏付けることになる。 日数の問題 次に、日程記事について考えてみよう。『魏志倭人伝』では不弥国の後に投馬国までを南水行二十日、邪馬台国までを南水行十日、陸行一月と記している。連続的に行程を解釈する場合、仮に不弥国を博多平野周辺とすると、邪馬台国までは投馬国を経て水行計三十日、陸行一月となり、北九州はもちろん南九州にも収まらない。したがって方向を修正し畿内に邪馬台国を比定する説が浮上するわけである。 次に、行程を連続的に読むのではなく、郡から伊都国までを連続的に読み、伊都国からは放射状に読むとする説がある。安藤正直氏から始まり、榎一雄氏によりまとめられた伊都国基点説である。これについては後で詳しく紹介するが、これにより伊都国から奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国と連続行程的に読まず、伊都国よりそれぞれ放射状に読むわけであるから、邪馬台国は伊都国から水行十日、陸行一月の距離となり、九州内に収まる可能性が出てきた。さらに水行十日、陸行一月についても水行ならば十日、陸行ならば一月と読む説もあり、邪馬台国はさらに伊都国に近づいた。 九州説の中で、水行十日陸行一月を帯方郡よりの全日程とする説もある。しかし北九州沿岸からそう遠くない所に邪馬台国を比定する場合、郡よりの全日程とすると、水行十日はよいとしても陸行一月は多すぎるのではないかという疑問が当然あり、多くの研究者がさまざまな推論を出している。古田武彦氏や坂田隆氏は韓国内陸行説、武光誠氏は遠賀川を上流まで水行で行き、その後山道を筑後川上流まで一月かけて歩いたとする説をしている。 それではこの日程記事をどう理解すべきであろうか。第一の疑問は、この投馬国、邪馬台国の前までは里程表現(5〜6倍に表現)が記されているのに対し、なぜ突然日程表記になったのかということである。これはあきらかに原資料の違いを表している。これについては、次の推測が成り立つ。 この日程記事は、上記したように距離表現について『魏略』が使われたように、帯方郡からの日程を記した別資料の記載が書かれた可能性がある。何らかの資料に倭の大国である投馬国や邪馬台国までの日程が書かれていてそれを参照したという見方である。帯方郡からの魏使の往来は何度かあるが、邪馬台国まで行くことはあまり無く、倭人伝にあるように伊都国は常に魏使が留まる所と記載されている。そこで伊都国までの日程を邪馬台国(連合)までのものとして記載されていた可能性が強いと思われる。さらに推測すれば、郡より水行での出発ならば10日、半島内を南下する陸行での出発ならば一月という解釈である。ただし、投馬国までも水行20日など、10日単位での表現なので正確ではなく、10日とあっても6〜7日から13〜14日位までの可能性は含まれると考えられる。投馬国までも同様にその前後数日の差はあり得る。また、邪馬台国までについては、魏使の往来に伴い貴重な文物を持ち込むためには安全な半島内陸行も選択肢として書かれていたものと思われる。(投馬国は水行のみ) では、実際に郡より水行で狗邪韓国まで、更には対馬や伊都国までどの位の日数がかかるものであるか検討してみたい。奥野正男氏の『邪馬台国紀行』によれば、手漕ぎの木造船「なみはや号」(大阪の高廻り古墳から出土した埴輪の船を再現)が、対馬を朝出発してその日のうちに釜山港に入ることが出来たという。帆がなく漕ぎ手8人、舵取りを加えて11人の船である。魏使の船は帆を持ったもっと大型船だったと思うが、対馬〜釜山間を一日で航海出来たようである。そうであれば対馬〜壱岐間、壱岐〜糸島半島間も一日で行けることになる。従って狗邪韓国から伊都国までが3日間、帯方郡から釜山までを約8日間位と見れば、記載日程の許容範囲とほぼ一致することになる。さらに、第1章に書いたように投馬国を日向地方の大国とみれば、郡より水行20日も許容範囲となる。 しかしながら、前記したようにこの日程記事については諸説があり、特に伊都国からの邪馬台国までの距離と解釈して、結果的に邪馬台国の九州南部説、四国や北陸説、そして畿内説などの比定根拠になっている。邪馬台国の九州説をとる人も、伊都国より船で約10日間かけて九州の東回り又は西回りで水行し、上陸後一月かけて内陸の邪馬台国に至るとしたり、畿内説に至っては、伊都国より瀬戸内海にある投馬国まで水行し、さらに水行10日で備前あたりに上陸し、そこから歩行一月かけて邪馬台国に到着するとしているものが多い。方角も全然合っていないし、それらはかなり苦しい解釈と言わざるを得ない。元来畿内まで行くのなら、なぜ九州の伊都国で荷物を降ろさなければならないのか、さらに畿内に行くのになぜ備前あたりで上陸し、一月もかけて歩くのか、はなはだ疑問が多くなる。上記したように、投馬国と邪馬台国に関しての日程記事は、全く別資料からの帯方郡からの日程記事と解釈すれば、距離記載や方角記載、伊都国との関連など全てがすっきりと解釈される。 尚、この狗邪韓国については、邪馬台国連合を形成していた一国であるかどうか諸説がある。私は魏使がそのように認識していたことは確実だと思う。倭国に向けて出航し、狗邪韓国に到着した表現が「其の北岸…」とあり、また『魏志・韓伝』には「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を持って限りとし、南は倭に接す」とある。また『魏志・弁辰伝』にも「徳盧国は倭に接す」とある。また魏と通交している倭人の国は三十ヵ国あるとしているが、狗邪韓国から邪馬台国までで九ヵ国,その余の旁国とされた国々が二十一ヵ国であるからちょうど数も合うわけである。 いずれにしても、魏使が戸数を数えたわけではなく、倭人の役人が説明したものであろうが、戸数表現は二万、五万、七万など大まかな数字であり、誇大に記された可能性が強い。今までに見た里程や日程のように,魏の支配圏を広大に見せる意図のもとに倭国の存在を大きく見せたものである。 以上、述べてきたように、里程、日数、戸数など全てに於いて、実際の倭国の状況より、過大に表現されていた事が明らかであり、邪馬台国ヘのアプローチは、こうしたことを考慮していく必要がある。 |
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