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第5章 倭人伝解釈の諸説

邪馬台国の比定地諸説

 邪馬台国問題の焦点は二つある。一つはまさに日本で最初に出現した一定規模の初期的な統一国家であるにもかかわらず、今だその位置が確定していないことである。中国資料にこれだけ書かれている情報を集約しても確定できないのは、その地理的説明に決定的な記述がなく、独自の解釈や推論が入り込みやすくなっているためである。二つ目の焦点は、邪馬台国、あるいはその連合国家などが大和朝廷設立にどうかかわっていたのかという問題である。

 邪馬台国畿内説の立場の人は、おおむね邪馬台国がそのまま大和朝廷に移行していったとしている。そうすると、少なくとも2世紀の段階から大和地方の政権が、九州に一大卒を置いて支配していた広範囲な統一政権の発生を認めることになる。このことはあとでじっくり検討するが、日本国家の発生と弥生時代の見直しにつながる話である。

 一方、九州説の立場では、邪馬台国は九州地域のことであり、地域的な国家連合であり、畿内はまだ中国に広く知られている存在ではなかったという立場をとる。ただ邪馬台国は、台与の時代、畿内に東遷して大和朝廷に発展したという説や、そのまま九州に留まり、やがて畿内に成立した大和朝廷に滅ぼされたとするものや、対立していた九州内の狗奴国に制圧されたという説まで多様である。東遷説の場合、東遷の時期が世紀半ばから世紀初頭にかけて諸説あるが、大和イリ系王権の成立と統一国家の発生時期は畿内説に比べて遅くなることになる。したがって、邪馬台国の位置により日本国家の成立時期が違ってくることになる。

 こうした対立した見方の中で邪馬台国の位置については、江戸時代から果てしない論争が続き、その候補地は主なものだけでも百を越す状況であるが、おおむね九州と畿内大和地方に集約される。こうした論争史は、邪馬台国関係の本を見ればほとんどに載っているのでここでは省略し、最近の主な説のみ紹介することにする。ただし畿内説については下記の項目でその批判をする予定なので、ここでは代表的な九州説のみ取り上げてみたい。

 古田武彦氏は、その著『邪馬台国はなかった』で韓国内陸行と独自の島めぐり読法という立場をとり、不弥国までにちょうど万二千余里を費やしているため、不弥国は邪馬台国に隣接した玄関のような存在で、邪馬台国は今の福岡市周辺にあるとした。古田武彦氏は、綿密な中国資料調査により用語例など詳しく分析し、『邪馬台国はなかった』以降、多くの独自の説を展開しているが、反論も圧倒的に多い。安本美典氏との論争は良く知られているところである。

 この博多説は、里程については島めぐり読法により方(一辺)四百里と書かれた対馬国と、方三百里と書かれた壱岐国の二辺分である計千四百里を加えることにより、伊都国までに一万一千九百余里を費やしたため、残る百里の所に邪馬台国があるとした。さらに、奴国と投馬国については魏使の行程上に無い傍線行路とする説を打ち出し、不弥国までの百里のみを加算、すなわち不弥国は邪馬台国の玄関であるとした。また、日程記事は郡からの総日程とする立場だが、投馬国までの水行二十日は伊都国からの傍線行路にあり、魏使の行程には含まれず、南九州にあったとしている。

 しかし、博多湾近辺に邪馬台国があるのなら、魏使はなぜ末羅国に上陸し陸行するのか、なぜすぐ隣の伊都国の津で女王国に届ける物を区分けするのか、諸国を監視する一大卒がなぜ邪馬台国でなく伊都国にいるのかなど疑問が多い。また、人に会うことがないとされる女王の居所の描写は海岸部のイメージではないほか、博多湾では「女王国より以北の国々…」の表現が不自然になる。島めぐり読法にしても、かなりの辺を持つ島であり、わざわざ辺が記載されているわけだからこれを加算することは同意できるが、二辺を加えて記載された数字を二倍にすることは賛成できない。加えるとすれば記載された辺の里数のみ加算されるべきである。逆に言えば、二辺を加えた結果、不弥国と邪馬台国との区間距離が無くなり、不弥国が邪馬台国の玄関であり、一体化した国であるとせざるを得なくなったのではないか。その結果、前記したようなさまざまな疑問を生むことになったように思えるのである。また、陸行一月の処理にも困り、後で述べる韓国内陸行説という説を産むことにもなった。

 安本美典氏は、『邪馬台国への道』など多くの著作を出版しているが、『魏志倭人伝』の万二千余里の行程記事は北九州に邪馬台国の存在を示しているとして甘木市周辺に比定、投馬国は伊都国から斜交式で読み宮崎平野の妻町(現在は合併して西都市)周辺とした。安本説の特徴は、『記紀』の天皇系譜を根拠に、天皇の在位年数を数理歴史学や内容分析学の立場から推定し、卑弥呼の時代が神武天皇から五代前の天照大神の時代に合うとして、卑弥呼、台与の事跡が天照大神の神話のもとになったとしたことである。その神話の故地が甘木市周辺とし、大和の地名と甘木周辺の地名の一致から邪馬台国東遷説の立場をとった。

 たしかに甘木市周辺と畿内大和地方の地名の一致は人為的であり、地名をつけられるほどの権威集団の移住を物語る。そのほか甘木市周辺には神話の「天の安の川」に結びつく甘木、夜須、安川、さらには高木の神に結びつく高木など、神話に登場する名前に結びつく地名が集中しており、安本氏はここに邪馬台国があり、神話の「高天原」がここにあった可能性を指摘している。私の比定地とほぼ一致しており心強い説であるが、安本説はその後の邪馬台国は大発展し、豊前地方や日向地方に展開し、神武天皇の東征説話のもとになったとしている。私は、卑弥呼が狗奴国との戦いの責任をとって死に至ったあと争いが起こり、
やがて大国である投馬国等により台与の擁立が図られ、邪馬台国連合の主権は分散されていったものと思っている。安本説とはほぼ一致するが、邪馬台国のその後の状況や畿内進出の役割など一致しない部分も多数ある。

 また、小説作家の高木彬光氏は、『「邪馬台国の秘密」のなかで名探偵神津恭介の推理という趣向で邪馬台国を大分県の宇佐市周辺に比定、宇佐神宮の神域にある菱形山を卑弥呼の墓とした。この宇佐説は、九州説の中でも根強い支持を集めている。たしかに宇佐はもともと比売神(ヒメカミ)信仰の地であった。ヒメカミすなわち卑弥呼、台与を祀っていた可能性が強い。宇佐神宮は応神天皇、神功皇后を祀るなど大和朝廷とも密接な繋がりのある神社である。

 これに類似したものに坂田隆氏の福岡県田川郡、京都郡説もあるが、これらの説の特徴は行程記事の解釈にあり、対馬、壱岐までは同じだが、距離のみで方向の記述のない末羅国の位置を、従来説である松浦半島の呼子や唐津では近すぎるとし、福岡県の宗像郡の神湊や岡垣町などに比定する。したがって当然伊都国や奴国も従来常識的に解釈されてきた博多沿岸や宇美町ではなく、遠賀郡、宗像郡などの地になり、投馬国も宇佐までの途中にあることになる。しかし、これらの説も、倭人伝記載の国々が弥生時代の九州における遺跡分布の中心地である福岡平野から筑後平野にかけた九州最大の平野部を完全に無視する形になり、不自然な感は否めない。

 一方、近年発掘された佐賀の吉野ヶ里遺跡を含む一帯を邪馬台国の候補地としていた奥野正男氏は、吉野ヶ里遺跡を邪馬台国の中心地として卑弥呼の王城はここにあったと断定している。

 そのほか邪馬台国と地名の類似から、筑後山門地方を候補地にあげる説、武光誠氏の筑後川流域の三養基郡説、榎一雄氏の筑後御井説などを始め、藤間生大氏、井上光貞氏、松本清張氏、黒岩重吾氏なども独自の九州説を展開しているが、畿内大和説に比べ九州説の特徴はその候補地が絞られず、各地に点在している。しかし、近年は、甘木・朝倉地区の平塚川添遺跡およびその台地上の一ツ木・小田台地周辺を最有力地とする説が有力になってきている。平塚川添遺跡は、1992年に甘木市で発見され、全国でも例のない六重環濠(七重の所もある)を持つ大集落である。又隣接する小田台地上にも集落の遺跡が多くあり、外側の環濠はこれらを囲む形で存在し、吉野ケ里遺跡に負けない規模の大集落であったことが知られている。まだ全面発掘には至っていないが、ここが卑弥呼の神殿を含む邪馬台国の大遺跡であった可能性がある。

韓国内陸行説

  魏使の行程記事の内、日程表記になっている邪馬台国について、水行十日はよいとして、陸行一月についてこれを九州地内に求めるのではなく、韓国内を陸行したとする説である。この説の代表的な提唱者である古田武彦氏は、「水行十日、陸行一月」は「帯方郡冶から女王国」間の総日程であり、投馬国の「水行二十日」は邪馬台国までの行程上からの傍線行路であるという。この傍線行路には奴国と投馬国が該当し、魏使が通過しなかった行路上の国とした。『魏志倭人伝』の郡から狗邪韓国までの表記は「郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国七千余里」であり、郡の開城付近から水行で出発したことは間違いないのであるが、途中牙山あたりから再上陸し韓国内を陸行したというものである。暦韓国の暦は次々に見るという意味の「暦観」で陸行したことを裏付け、乍南乍東はたちまち南し,たちまち東しと韓国内の道路をジグザグと歩いたことを意味するという。なぜ歩いたかというと、朝貢してきた倭国の忠節を賛美し、威儀正しい答礼使と莫大な下賜品をつらねた行列を韓人に見せるためであるとしている。

 この説に従うと、わざわざ水行で積んだ荷物を出発してすぐに上陸、荷揚げし陸行に切り替え,一月近くかけて韓国内を陸行し狗邪韓国でまた船に積み替え対馬国に向かうことになる。魏使の本当の目的は、倭国の使者と莫大な魏からの下賜品を無事に邪馬台国に送り届けることである。一度水行で出発したものをわざわざ陸揚げして陸行に切り替え、また水行に切り替える必要性は無いものと思う。九州説で、邪馬台国を博多周辺に求めているため、陸行一月を九州内に求めることが困難なため編み出された感を禁じえない。私は前記したように、全く別資料から郡よりの邪馬台国・投馬国への日程記事が転載されたものと見ている。

 古田説では、邪馬台国を福岡市、つまり博多湾沿岸に比定しているわけだから、伊都国からの陸行はほとんど無いので、もし韓国内を陸行してきたのなら水行十日陸行一月ではなく、「陸行一月水行十日」と表現されるほうが自然である。また、古田氏は投馬国を傍線行程としているが、総日程説をとる人のなかでは、同じ日程表現である投馬国も邪馬台国と並ぶ大国なので郡からの総日程を併記したとする説が有力で、その場合も、韓国内陸行優先なら投馬国までの行程も「陸行一月、水行二十日」とならなくてはおかしいことになる。

 私は、この倭人伝にある魏使達は朝鮮半島西側を沿岸水行し、狗邪韓国から末羅国に着いても国内を陸行せず、まっすぐ伊都国の津に到着、そこに滞在したと想定しているので、実際は倭国内もほとんど歩いていないと思っている。魏使は莫大な下賜品を倭王に拝仮し渡したとあるが、この倭王は人に会うことが無いとされた邪馬台国の女王卑弥呼とは限らず、伊都国にある代々の王ではないかと思っている。つまり邪馬台国連合は、シャーマンとしての卑弥呼と政治、経済を司るいわば総理大臣の倭王が両立していたと想定している。従って邪馬台国まで行かなかったと考えているが、この点についてはあとの伊都国のところで詳しく検討してみたい。

伊都国基点説

  魏使の行程を連続式には読まず、伊都国からは放射状に読むという説である。すなわち郡からの行程記事の中で、伊都国を境に表記方法が変わる事に着目した説で、古くは安藤正直氏、そして榎一雄氏が詳しく主張した。伊都国までは「東南陸行五百里、到伊都国」のように、方位、距離、国名の順で書いてあるが、伊都国からは、「東南至奴国百里」というように方向、国名、距離の順に変わるので、伊都国までは実際に水行、陸行し、伊都国より先は案内記事のように各方位を放射状に記したとした。また、伊都国から邪馬台国へは水行ならば十日、陸行ならば一月と解釈した。この説の誕生により、伊都国から邪馬台国までの距離はそれまでの連続読み、水行二十日で投馬国、さらに水行十日、陸行一月で邪馬台国に行くとした連続読みに比べ極端に短くて済み、九州説には極めて有利な説とされた。

  牧健二氏は、伊都国までの「到」と伊都国以降の「至」の字の違いに着目、放射状読みを補強した。しかし古田武彦氏は、三国志全体の中で到と至の表現上意味の違いは見当たらないと反論し、韓国内陸行と、奴国、投馬国を傍線行路とする説を打ち出した。

 こうして大きな反響を呼んだ伊都国基点説であるが、これにより九州説が有利になったかと思うと大きな問題がある。確かに投馬国、邪馬台国までの距離は短縮されたが、この二国に行くためには伊都国から南に水行で出発しなければならない。方位を修正して東南としても前述した遠賀川水行説以外は不可能であり、多くはまず東に行き、関門海峡を南下して宮崎県の妻あたりに投馬国を求め、邪馬台国については伊都国から西に出航し、西九州、長崎県を回って大きく南下し有明海に入り、その後陸行して筑後の御井や八女市、山門郡あたりに比定するなど、伊都国より南への水行については苦しい解釈となっている。これは、狗邪韓国から不弥国までの里程記事に表現されている諸国への行程と、他の資料に基づき、郡からの日程記事になっている投馬国,邪馬台国への行程を分けて考えないことに原因があると思う。すなわち、狗邪韓国から伊都国までの水行記事と、投馬国、邪馬台国までの日程記事はそれぞれ全く別な様式で書かれた資料からの転記なのである。伊都国までの行程記事は、魏使の実地体験に合わせた報告書であるが、投馬国,邪馬台国への水行・陸行日程は、全く別な視点からの別資料と見るべきと思う。畿内説を成立させる連続読みに問題を投げかけ、九州説に有利に働いた伊都国基点説であるが、魏使達が伊都国に留まったということや、日程記事が別資料と考えると、残念ながらこれで正解とするわけにはいかない。

畿内説への疑問

 邪馬台国畿内説を唱えた人には古くは本居宣長などがいるが、明治に入って九州説の東大の白鳥庫吉に対抗して京大の内藤虎次郎が畿内説の論陣を張った。以後三宅米吉、笠井新也、梅原末治など、近年では上田正昭、直木孝次郎、小林行雄、山尾幸久などの各氏が畿内説を補強している。

 候補地がいくつにも分かれている九州説に比べ、畿内説はそのほとんどが大和地方に邪馬台国を比定し、近年はその中の纒向(まきむく)遺跡にその候補地が絞られ、なかでも箸墓(はしはか)古墳を具体的に卑弥呼、または台与の墓としている。こうして畿内説は地域や古墳を特定するなど強みを発揮して、邪馬台国問題はあたかも決着したと言わんばかりの勢いである。最近のマスコミ報道もこの傾向にある。しかし『魏志倭人伝』を読む限り、畿内説は成立しないと考えられる。理由は次の通りである。

 畿内説の特徴は、邪馬台国が畿内(大和)にあったとして、その後の大和朝廷とつながる歴史を考えていることにある。そこでその根拠となっている『魏志倭人伝』の地理的読み方の問題点を考えてみる。

 まず、邪馬台国までの方向については、倭人伝では北九州地方の南と表現しており、畿内にあるとすれば南の表現を東に変えるほか65度くらいの修正を加えなければならない。そこで畿内説の立場では、「女王国はその道理を計ると会稽、東冶の東にあたる」の記事から当時の中国人が倭国を南北に連なっている国と誤解していた可能性をあげる。しかし、この記事は方位の問題の所で述べたように、『魏略』『魏志倭人伝』の編纂の際、先行する前漢書の中に夏后少康の子が会稽に封じられ、文身断髪をして蛟龍の害を避けたという記事があり、倭人の文身を見てこれを参照引用しその記事が付け加えられたものである。ちょうどその風俗が似ている地域として中国に会稽東冶があり、女王国はさしずめその東にあたるのではないかというもので、あまり確信に基づいたものではない。

 倭国を知らない中国人がたとえそう考えていた可能性があったとしても、実際に倭国を訪れた魏使たちなどの報告を原資料にしている以上、大きな方角の間違いは考えにくいことである。

 また、魏使が東を南と誤記したのは、伊都国より先には行かずその先は倭人からの聞き取りのためとする考え方もあるが、これにも矛盾がある。すなわち倭人が畿内方面を南と表現したことになり、九州に住んでいる倭人がそう認識していたとするのは無理がある。方向の間違いは、魏使が夏に来て夏至の時の太陽が上がる方角が45度東北に寄るため勘違いしたとする説もかなりあるが、魏使の滞在も一年以上に渡るし、まして居住倭人からの聞き取りでは方角の大きな間違いは無いはずである。

 さらに、「女王国より以北の国々はその戸数、道理を略載できるがその他の傍国は遠絶なので記載することができない」とあり、伊都国など北九州の諸国が戸数、道理などを記載されているが、それらは大和の以北にある国々ではない。また女王国の以西と書き換えてみても、九州、大和間にある途中の国々の扱いが不明になる。

 また、「女王国の東、海を渡った千余里にまた倭人あり」と記されている記事は、畿内説の方位修正だと北になり、大和から北に海を千余里進むとどこになるのか、今の地図上で探すことは不可能である。さらに、これも倭人からの伝聞記事であろうから、方角の間違いはあり得ないはずである。また、方角の間違いを無視しても、大和の東に海は無く、伊勢湾では海を渡る必要が無い。これらから、方向記事に関しては畿内説が成り立つ余地はまったく無いことがわかる。

 次に、里程と日程の記事について考えてみる。郡よりの全里程一万二千余里を魏の基準の長さで解釈すれば大和に持っていくことも可能である。しかし、途中の国々間に記された里程から検討すると、倭国に関しての独自の誇張基準で記述されたことが明白である。郡よりの総里程一万二千余里のうち九州地内までで対馬、壱岐の辺を加えなくとも既に一万五百里を消化しているわけだから、残り一千五百里について誇張を正した実距離で換算すると九州から先には比定できない。(対馬、壱岐の一辺づつを加えると残りは八百里で実質約60キロ前後となる)

 水行十日、陸行一月の記事が畿内説のよりどころだが、これは他の資料にあった郡よりの行程とする説に対抗できない。なぜなら、投馬国までの水行二十日と邪馬台国までの水行十日陸行一月を不弥国から連続的に読むと、魏使の旅の主要な行路である投馬国の描写とその後の瀬戸内海を行く水行十日の状況、および邪馬台国まで陸行一月地点での上陸記事、邪馬台国までの一月間の陸行記事がまったく無く、不自然である。そもそもその先がこんなに長いのに、末羅国に上陸後、伊都国まで歩行(?)し、奴国、不弥国までも歩行したあと不弥国から再度船に乗る理由が見当たらない。極めて不自然な行程となる。普通なら伊都国に立ち寄った後、再び船で投馬国や途中の国々に寄港しながら難波の津まで行き、そこから歩行数日で邪馬台国に到着する旅を選ぶはずである。それが、投馬国から水行十日の航海の後、どこかの津に上陸後、陸行に切り替えて一月かけて歩くということになり、極めて考えにくい行程となる。

 そこで畿内説の人は、魏使は伊都国にとどまって、そこから先は伝聞によるものとしている人が多い。しかしそうだとすると、前述したように方位の誤認の問題が出てくる。つまり、畿内説の論者の中には不弥国までの方位記事の修正は、魏使が夏至の時来たため魏使の方位認識に45度の誤差が生じたとする説が多く、そのため畿内方面にある投馬国と邪馬台国までの水行記事も東を南と錯覚したとするが、それが実際に行かなくて倭人からの聞き取り情報だとすると、夏至だから間違ったなどという説の根拠がなくなるわけである。しかも、魏使の滞在は一年以上に及ぶものだから、夏至誤認説は成り立たない。そもそも莫大な下賜品を届ける邪馬台国への使者が、たとえ卑弥呼に会わなくとも難波の津(大阪)くらいまでは行かなくては説明がつかないと考えるが、行った形跡もなく、倭人からの聞き取り情報だとすると方位修正に疑問がでる。

 さらに重大なことは、卑弥呼の共立は倭国大乱の後の2世紀末頃と考えられるので、もし邪馬台国が大和にあったなら、この頃既に畿内の邪馬台国は西日本全体を統一し、伊都国に一大卒という軍事機関を置く強大な中央集権国家であったということになる。弥生時代の大和地方や倭国がそうした状況にあったと考えるのは無理がある。ましては、女王の前にも男王の時代が7〜80年続いたとあるので、弥生時代の後進地域であった大和地方には考えられないことになる。

 また、「女王国より以北には特に一大卒を置いて諸国を検察する、常に伊都国に冶す」と記された伊都国は九州にあり、大和の以北ではない。一大卒の設置も、女王国から西の諸国を検察するのに瀬戸内海か関門海峡あたりならよいとしても、伊都国では西に寄り過ぎていて不自然である。また、伊都国の津に船が着くと女王国に伝送するものを区分するとあるが、これも難波の津なら納得できるが、北九州の伊都国で船から降ろしてその先大和までどうするのか、極めて不自然なことになる。

 このほか『魏志倭人伝』に書かれている倭国の情景や産物、文身(刺青)の記事などを始め、九州に普及していた鏡の記事はあっても畿内中心に普及していた銅鐸への見聞記事が無いなど、書かれた内容は九州での見聞記事がほとんどである。

 さらに、大和にあった邪馬台国がそのまま大和朝廷につながるのであれば、大和朝廷の歴史である『古事記』『日本書紀』に、邪馬台国や卑弥呼と台与の事跡、邪馬台国の高官である伊支馬や難升米などの末裔達による先祖伝説のことがまったく書かれておらず、不自然なことである。また、『記紀』にある誰を卑弥呼に当てるのかということも、記述と合う人物がおらず特定できない。邪馬台国が直接『記紀』に記載さされていない事実は、邪馬台国の畿内発生説とは結びつかないと考えるのが妥当である。また、何よりも大和朝廷は高天原・南九州から神武天皇の東征によるとする神話とも合わないこととなる。

 これらにより、大和地方の2〜3世紀頃の状況や、『魏志倭人伝』を読む限りは、畿内説は不自然で無理が多く、魏使が往来し描写した邪馬台国はやはり九州に存在したと考えられる。

畿内の後進性

 近年、畿内地方において多くの考古学の成果があり、特に纒向遺跡に関連して石塚古墳、ホケノ山古墳などの成立時期が3世紀半ば位まで遡るとされ、邪馬台国畿内説が有力とされている。しかし、果たしてそこまで古墳成立時期を引き上げられるのか、その根拠とされる出土した纒向一式と呼ばれる土器の編年と実際年代との照合はまだ確定しておらず、無理に古墳築造年代を引き上げている感がある。安本美典氏によれば、2009年の日本考古学協会で国立歴史博物館(歴博)の研究グループが、奈良の箸墓古墳から発掘された土器に付着していた土の放射性炭素14の測定により、箸墓古墳古墳の築造時期をこれまでより100年早い「240年〜260年」と発表してから、これが卑弥呼の墓だという主張とともに邪馬台国畿内説が一気に広まったことについて、その測定方法について多くの批判が寄せられており、2010年には日本情報考古学会が、「炭素14年代法と箸墓古墳古墳の諸問題」というテーマで学会を開き、歴博グループの発表内容をほとんど全面的に否定していると記している。(歴史の常識を疑え・文芸春秋/「大崩壊・邪馬台国畿内説」・勉誠出版ほか) このことは、私も妥当な見解と思っている。

 さらに、平成12年3月、各紙は一面トップで奈良ホケノ山古墳の発掘調査の発表を報じ、3世紀半ばの築造で「最古」の古墳であることが裏付けられたと報じた。さらに、これで邪馬台国はこの大和纒向遺跡にあったことがますます有力になったとする多くの学者の見解を載せた。たとえば大塚初重明大名誉教授は「ヤマト王権の成立や、その発展過程が具体的にたどれる貴重な発見だ。邪馬台国の中心はこの地域にあったと考えざるを得ない。問題の箸墓古墳の被葬者を、卑弥呼と考える動きも一段と強まるだろう」(読売)と述べている。また上田正昭京大名誉教授は「卑弥呼の時代の墓に疑いはなく、今度こそ邪馬台国の真相に近づいた」(同)と期待を寄せた。

 しかし、この古墳も、箸墓古墳も、土器付着物の炭素14年代測定法によるもので、この方法では60年前後年代が古く出る傾向があることが既に指摘されている。そうした影響を受けない出土物である小枝や桃核、クルミなどを同じく炭素14年代測定法で測定すると、いずれも4世紀の築造が裏付けられる結果が出ている。

 ただし、たとえ本当にそこまで引き上げられたとしても、それが邪馬台国畿内説を裏付けることにはならない。北九州に邪馬台国が存在していた同時期、畿内地方も同様に部族国家から小国家の並立時代に入り、九州と同様な発展を遂げつつあったことが証明されるだけである。そうでなければ、後進的であった3世紀初頭に西日本・九州一帯を含めた統一国家が突然誕生したことの説明がなくてはならない。吉野ヶ里遺跡の調査で著名な高島忠平佐賀女子短大教授は「弥生時代から古墳時代へ移行する時期の大和地域の王権成立を示す成果。しかし大和の一地域の墓に過ぎず、この時期、全国支配した勢力は存在しない」(同)と冷静に受け止める発言をしている。

 たしかに3世紀半ば以降の大和の発展は目を見張るものがある。しかし、問題は1世紀から3世紀半ばまでの邪馬台国成立時期における畿内の状況である。この時期の畿内大和地方は、北九州に比べると明らかに後進地域であった。畿内は、3世紀後半まで中国に良く知られる存在ではなかったため、『魏志倭人伝』には九州地方のみが倭国として認識され、それより以東は「女王国から東、一海を渡る千余里、復国有り皆倭種なり」と記されたのである。

 もし邪馬台国を大和にあったとした場合、『魏志倭人伝』の記述に拠れば、邪馬台国は少なくとも2世紀始めから存在し、大和朝廷まで連綿とつながることになる。なぜなら「其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐暦年乃共立一女子為王名曰卑弥呼」とあるように、倭国の大乱(2世紀後半)より七八十年前から男子の王の存在があり、大乱の後卑弥呼を擁立したとあるからである。すなわち邪馬台国は大乱の後に出来たのではなく、それ以前から長く男王の時代が続いていたのである。
後漢から当時の男王に渡されたと思われる「漢委奴国王」と刻印された金印が、福岡県の志賀島から出土した事とも矛盾する。

 しかし、1世紀から2世紀にかけての大和地方の状況を示す弥生の遺跡としては、唐古、鍵遺跡があるが、大和の弥生人は石器と木器が中心で、また銅鐸の鋳型の出土でわかるように青銅器文化の民であった。豊作を祈る祭祀を中心に、銅鐸を用いた呪術的な農耕社会であったことが推定される。『魏志倭人伝』にはこの中心をなす銅鐸のことが何の記載も無く、また、遺跡からも中国との関係を示すものもほとんど出土していない。2世紀の先進性を示す鉄器の出土状況は圧倒的に北九州である。こうした状況の中で大和にあった邪馬台国が九州伊都国に一大卒を置き、西日本一帯を支配していたとは到底思えない。

 さらに伊都国は、『魏志倭人伝』に「世王有皆統属女王国」とあり、随分前から代々女王国に属していた(私の読み方は女王国を統属す)ことになるので、やはり少なくとも2世紀始めの頃から西日本一帯を制圧していた邪馬台国の存在がなければならないことになる。このことは広大な地域の支配を有効にする強力な水軍を持たなければ不可能なことであるが、大和の唐古・鍵の民はいわば後進地域の農耕民であり、九州の伊都国までを治めたとするには無理がある。

 しかし、3世紀中期から4世紀にかけて、大和の纒向遺跡に大集落が突然と出現し、古墳の築造が始まった。そしてこの頃畿内の農耕祭器であった銅鐸が忽然と消えていった。この頃から畿内は新たな発展段階を迎えている。畿内にこの時期何が起こったのか。『記紀』は、はるか昔の神話時代を経て、九州からやって来た集団が畿内に国家を作ったと記述しているが、これは既に述べたように、隠しようのない事実の伝承を神話化したものである。

 これらのことを勘案すれば、畿内状況の変化はやはり3世紀半ば頃から周辺各地からの移住が始まり、最初に出雲や吉備などの民の勢力により纏向・三輪山周辺に「初期三輪王権」の構築が始まり、3世紀後半頃から九州方面からの強力な集団の進入が続き、纒向の発展や古墳の誕生など「大和イリ系王権」の発展に結びつき、畿内の状況が一変したと考える方が自然である。最初に入った出雲や吉備などの集団、その後の九州の邪馬台国勢力の東遷など、後に詳しく述べたい。


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